生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

キラキラヒカツテイマスカ

2010年11月21日 00時14分53秒 | 詩 poetry
キラキラヒカツテイマスカ

 ....whispers the words with wisdom, let it be ....
 ビートルズが崩壊寸前にあったとき、男は未整理の録音テープの山から一つの曲をものにした。それがLet it be。
 あるがままにあらしめよ。
 だが、あるがままであることの難しさ。「汝自身を知れ」は、(というわけで)、永遠の課題となっている。わたしはだれ、ここはどこ? つまり、どういうことでもない。
 もし、東洋の発想が中心のないことで、無たる中心が生き生きとしたものとなっており、西洋の発想があくまで中心からの、そして神=ヒトを中心に置いたものであるなら、両方が生物界には見られることになる。また、関係的と実体的の違いにも対応するだろう。例えば連結によって存在する代謝サイクル、例えば核という中心をもった細胞。
 だが中心は中心ではないものによって支えられている。

 というわけで。
 知識とはすでに死んでいるものであり、叡知は今を生きているものである。
 われわれは、今を生きるほかない。そうして、光はヒカリ、ヒカリカガヤク。

 というわけで(どういうわけでもよい)、タテよこ斜めに読んでみよう。


キラキラヒカル

キラキラヒカルサイフヲダシテキ
ラキラヒカルサカナヲカツタキラ
キラヒカルオンナモカツタキラキ
ラヒカルサカナヲカツテキラキラ
ヒカルオナベニイレタキラキラヒ
カルオンナガモツタキラキラヒカ
ルオナベノサカナキラキラヒカル

 〔中略〕

   キラヒカルオンナハナイタ

  (入沢康夫1955『倖せそれとも不倖せ』より)


 
 も一つおまけで。

静物

夜の器の硬い面の内で
あざやかさを増してくる
秋のくだもの
りんごや梨やぶどうの類
それぞれはかさなつたままの姿勢で
眠りへ
ひとつの諧調へ
大いなる音楽へと沿うてゆく

  〔後略〕

 (吉岡実1955『静物』より)


 [ つまり、
  なるようになる。
  なるようにしか、
  ならん。
  ならば、
  なるように
  ならしめよ。]