夏原 想の少数異見 ーすべてを疑えー

混迷する世界で「真実はこの一点にあるとまでは断定できないが、おぼろげながらこの辺にありそうだ」を自分自身の言葉で追求する

「代替わりフィーバー」は安倍政権の支持基盤を強化する

2019-05-03 11:42:47 | 政治

 明仁天皇から徳仁天皇への代替わり、平成から令和へと改元が行われる中で、マスメディア、特にテレビは国民全体が熱狂的に祝っているかのように盛んに報道している。新聞は平成最後の日と令和初日には大きく扱ったものの、他のニュースもあるので、その他の日は少しは抑え気味だった。朝日、毎日などは憲法との齟齬を問題にする記事を載せているし、安倍政権に近い読売、産経でも天皇を賛美する記事が目立つが、さすがにテレビほど代替わり一色にはなってはいない。ネットニュースも同様である。「代替わりフィーバー」といっても、実際には国民全体が「フィーバー」しているわけではないのだ。メディア、特にテレビが異常に「フィーバー」しているのである。

 テレビは令和の発表以来、明仁天皇の被災地の訪問などを「国民に寄り添うお姿」として大量に放映し続け、天皇賛美を徹底している。そのテレビの「フィーバー」ぶりの理由は、過去に撮ったの天皇のフィルムをフルに利用することや改元イベントを中継することで、コスト削減につながるからだと思われる。ドラマやバラエティー番組を作ることに比べれば、遥かに低コストであり、「お祭り騒ぎ」はそれなりの視聴率が期待できるからである。それに、「国民は、こぞってお祝いしましょう」と10連休を設定した政権への「忖度」も(特にNHKには)あるだろう。

 平成最後の日と令和初日には、繁華街や神社など多くの場所に多くの人々が集まっている姿をメディアは伝えた。さも、国民全体がお祝いしているかのようである。その中には、天皇の崇拝者の声もあった。しかし、スポーツの優勝パレードでも、ハロウィンでも数万人が集まるのが常なのであり、特に連休中とあれば、特異な現象などではない。近年、無料のイベントには大量の人間が集まるのである。多くの人びとは改元記念イベントだと軽く思っていると想像する方が自然なのだ。天皇をはじめ皇室の人間を一目見ようと沿道にたくさんの人だかりができるが、スポーツ選手で言えば、羽生結弦選手ではそれ以上の人数が集まるのだ。また、商魂たくましく、客寄せのため改元を商売に利用している企業も多く、只で記念品をもらえるとあれば、多くの人間が繰り出すのは当然である。それを、メディアは国民全体が「お祝い」していると報道しているのだ。異常に「フィーバー」しているのは、伝えているメディアの方なのである。また、より重要で悪質なのは、「国民全体がお祝い」どころか、天皇制そのものに疑問を持つ者も少なからずいることをほとんど報道しない。

 しかし、これらのことが何をもたらすかと言えば、異常な「フィーバー」と冷笑してはいられない。平成から令和へ時代が変わったというが、現にある問題は「フィーバー」で解決するわけではない。長時間労働を強いられる会社員、低賃金に喘ぐ非正規労働者、裕福な人間にさらに富が集まるシステム、それらの問題は何ひとつ解決していないのだ。実態は何ひとつ変わっていないにもかかわらず、何か変わったと人びとに思い込ませるのである。「お祝い」ムードを醸し出すことで、深刻な問題を糊塗し、根拠のない満足感と現状肯定感を人びとにすりこむことになるのである。このことは、権力を掌握している側、政権党には有利に働く。山積みの問題から目を奪い、政治はうまくいっていると錯覚させるからである。

 より根本的には、天皇制は身分制の残滓であり、原則的には身分制を否定する近代の民主主義に反することだ。それでも天皇制が必要だというのならば、その理由を説明しなければならない。それを「国民統合の象徴」だからだという理由だけでは、説得力に欠ける。共和制の国々が国民統合がなされていないわけではないからだ。(共和制の国は宗教、民族、言語、文化等、様々な国民統合の努力をしている。時として、強権支配と批判されるが。)むしろ今回の「代替わりフィーバー」は、「国民統合の象徴」に意義を見い出すというよりも、政府は復古主義的な天皇制を目論んでいると言わざるを得ない。それは、政教分離に反すると批判されても、古来からの皇室の慣習を基本に行われる儀式や、ことさら日本古来独自のものと安倍政権が強調する「令和」で明らかだ。この「代替わりフィーバー」は、政府が「国民統合の象徴」としての天皇制ではなく、国家の頂点に立ち絶対君主としての天皇制を志向し、それをメディア全体が批判することなく報道するというものにほかならない。それは、基本的な政治的立場を平等に置く左派に不利に働き、平等よりも国家、民族に価値を見い出す右派、つまり安倍自民党政権に有利に働くのは疑問の余地はない。そしてそれによって当然のように、安倍政権の支持率は上昇すると予見される

 天皇の政治利用は憲法第4条の天皇の国事行為に関する条項で禁止されはている。しかし、日本の天皇制そのものが、常に事実上の支配権力によって利用されてきたのだ。摂関政治では実権は摂政関白にあり、行政権、司法権、徴税権を握った武士階級も天皇からの官位で権威づけをしたし、何よりも戦前においては時の権力者は、天皇の命令の形をとり戦争に突っ走ったのだ。

  天皇制とはどういうものかを如実に表しているのが、明治の大日本帝国憲法である。そこでは、第1条「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と絶対的専制を規定しながら、第4条「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」、第5条「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」と憲法と議会からの一定の制約を認めている。「神聖ニシテ侵スヘカラス」ならば、いかなる制約も受ける必要はない。「統治権を総攬する」(総攬:統合して一手に掌握すること)なら、議会は要らないのである。明らかに、論理的に矛盾した条項が並んでいるのである。

 なぜそのような矛盾した内容になっているのかは、大日本帝国憲法を作ったのが、その時の事実上の権力者だからである。幕藩体制を破壊し、支配権力を奪い取った明治政府の権力者には、天皇制がその権威として、日本古来からの正統性として必要だったのだ。その権威を錦の御旗にすれば、権力の行使を正当化できるのだ。そこで必要なのは絶対的な権威だけであり、天皇自身の専制支配権ではない。だから「神聖ニシテ侵スヘカラス」だが、権力者による制約が必要だったのだ。

 むろん、大日本帝国憲法の条項に議会を入れたのは、当時の西洋国民国家の一定の部分的な民主主義を取り入れたからでもあることは無視できない。その部分的な民主主義の中で、様々な勢力が権力を争うことになる。だから、ここで言う「権力者」とは一人の人間や一つの勢力のことではない。やがて、台頭するであろう産業資本家や軍部をも含む戦前までの支配構造の中で、政治権力を握る者たちのことである。要するに、大日本帝国憲法下の天皇制とは、見かけは天皇の絶対的権威の下、部分的な民主主義によって権力を握った者に最も都合のいい制度だったのだ。

 天皇制は常に実際の権力者にとって都合の良いものに変更される。明仁天皇が時おり見せる平和志向が、復古主義的天皇制を日頃主張する極右勢力から批判めいた言葉を受けるのは、それが彼らにとって都合が悪いものだからである。彼らは、天皇に絶対的忠誠を誓っているのではない。天皇は彼らの言うとおりに動いてくれなけば困るのだ。

 考えてみれば、象徴天皇制自体が、アメリカの意図によってつくられたといっても過言ではない。その後のソ連との衝突を予期したアメリカは、他の連合国の意向とは別に、共和制による突き進んだ民主化(左傾化)を嫌い、天皇制をその歯止めとして是が非でも残したかったのだ。それが、日本の当時の憲法制定に関与した者たちとの合意でもあったのである。

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