夏原 想の少数異見 ーすべてを疑えー

混迷する世界で「真実はこの一点にあるとまでは断定できないが、おぼろげながらこの辺にありそうだ」を自分自身の言葉で追求する

<右>へ<右>へと草木もなびくよ。ありゃありゃありゃさ。(1) 再度、ウクライナ情勢について

2014-05-31 12:32:58 | 政治

 阿部自民党政権の「右傾化」が、新聞で言えば、朝日、毎日、東京で指摘されている。阿部政権を基本的に支持しているか、阿部首相よりも「右」に位置している、読売、日経、産経の各新聞では、当然のように「右傾化」とは表現していないが。(「右」と「左」は相対的なものであるので、自らが真ん中だと認識していれば、「右傾化」という言葉は出てこない。例え、ファシストでも、自分たちを「極右」とたいていの場合呼ばないのと、同じ理屈である)

 しかし、新聞等で海外の政権を右と左で分けている基準で言えば、例えば、ブラジルの労働者党(PT)を中心とした連立政権を左派と呼び、あるいはメルケルのCDU政権を中道右派と呼び、オランドの社会党(PS)政権を左派と呼んでいる基準で言えば、自民党は以前から充分に右派なのであるから、「極右化」と言うべきである。

 それはさておき、「右傾化」しているのは、日本の政治勢力だけではない。世界中が、新自由主義の蔓延とナショナリズムの噴出によって「右傾化」していると言える。「左」にとっては、「ありゃありゃ」と嘆きたくなるほど、「右へ右へと草木もなびいて」いるのである。

<再度、ウクライナ情勢について>

 クリミア半島がロシアに編入(西側、すなわちEU、米、日本にとっては併合)された後も、ウクライナでは、東部の2州でロシア系住民による政府庁舎占拠と独立宣言が行われた。今週になって大統領選が行われ、大方の予想どおり、大富豪のポロシュンコが当選し、キエフの政権は西側を向くことが鮮明になった。

 こういった状況で、さまざま人がさまざまなことを言っているが、どうしても看過できないコラムが朝日新聞に載っていた。4月15日付の「時事小言」という欄で、東大大学院の藤原帰一が書いている。

 藤原は、コラムのタイトルを「ウクライナ危機 衝突する二つの論理」として、東西のウクライナの異なる動きとそれに対する欧米とロシアの行動を、「二つの異なる世界観」が衝突していると言うのである。「二つの異なる世界観」とは、「自由世界の論理と国民国家の論理」であり、すなわち欧米諸国は「市民の合意に基づいた自由な統治を世界に拡大するという」論理、ロシアは「かっての地位を失った」「国民感情の回復を求めるナショナリズム」、その二つが衝突していると言うのである。藤原はその根拠として、欧米とロシアのテレビ局の報道の違いを挙げている。

 この藤原のコラムは数多くの問題をはらんでいる。まず気づくのは、ウクライナを問題にしながら、現に存在しているウクライナの人々については、何も言及されていないことである。しかしそれは、これが書かれた時点で、ウクライナでの実際の状況が、藤原にはつかめていなかったということが考えられ、不確実なことは書けないという理由からならば、ウクライナの人々について言及されていないのはおかしくはない。したがって、極めて重要な問題ではあるが、ここでは問題にしないことにする。

 藤原の「二つの世界観の衝突」という指摘を、多くの人が、そのとおりだと思うことだろう。実は、そのことが最大の問題なのである。多くの人々が、こういった言説を無批判に受け入れることが、最大の問題なのである。

 <そもそも、ウクライナで何が起こっているのか?>

 マスメディアやインターネットの情報を、総合的に判断すれば、以下のようなものだろう。ソ連の崩壊後、ウクライナの人々は、ソ連崩壊後の成金や、逃亡したヤヌコビッチに象徴される権力をほしいままに私腹を肥やす連中を除いて、生活に困窮していた。それは、対外債務が、GDPの80%に匹敵する1,400億ドルに達し、ウクライナ経済が瀕死の状態であることから、明らかであろう。その主因は西側とロシア双方による借金漬けによるものだ(ウクライナの銀行の最大債権者はアメリカ資本である)。そこで、ロシアに親近感を持つ大統領のヤヌコビッチは、それまでのEUからの支援計画を白紙に戻し、ロシアに支援を頼もうとした。それに対して、キエフでEUに親近感を持つ人々の抗議活動が起きた。それには、多分にヤヌコビッチ政権の腐敗にも原因があるのは、キエフのマイダン(独立)広場に集結した勢力が、極左から極右までと幅広いことから想像に難くない。

 マイダン広場の抗議活動が、特に極右のスヴォボダや右派セクターの活動家によって先鋭化すると、ヤヌコビッチは突如逃亡した。その後、暫定政権が議会を基盤としてできるのだが、かれらはそこで最大の過ちを起こした。ロシア語を第二公用語から廃止するという決断をしたことだ(さすがに、実施されてはいないが、ウクライナの排他的ナショナリズムは、ロシア側だけでなく、こちらにもあったと言える)。これは、東部地域のロシア系ウクライナ人(マスメディアは「親ロシア派」と書くが、「親」ではなく、国籍がたまたまウクライナの、ロシア人そのものなのである)からすれば、自分たちを迫害する政権ができたと考えるのは自然なことだ。何よりも、これがプーチンにつけいる隙をあたえたのだ。東部のロシア系住民に自分たちを迫害するファシスト政権ができたと、プーチンの宣伝を信じ込ませる口実をあたえたのだ。それが、先鋭化したロシア系住民に、ロシアの特殊部隊の支援を受けることを正当化させ、武装化させる呼び水となったのだ。

 ウクライナはひとつの国だが、西部と東部では文化的にも言語学的にも相異なっているのは、多くの人が認めるところだ。経済の困窮を、支援を求める先が西=EUと東=ロシアと異なったとしても、それ自体はおかしなことではない。経済の疲弊の本質的な原因が経済システム自体にあるのだとしても、それを解決しなくてはならないのはウクライナ人自身であり、他国からとやかく言う話ではない。また、EUの支援が新自由主義的で、緊縮財政からギリシャのように大衆に困窮をしいるものであり、ロシアの支援が属国的支配をしいるものであっても、またそれらとは別の道であっても選択するのはウクライナの人々である。クリミア半島のロシアへの編入を西側は国際法上認められないと言う。独立・編入を決議したのはクリミア議会でその権限はなく、ウクライナの国家として決定に反しているというものだ。しかし、2008年に、国家としてのセルビアの反対を押し切り、アルバニア系住民が多数のコソボの議会が独立を宣言すると、真っ先に承認したのは、スペインを除く欧米ではなかったのか。国際法に違反するのは、この場合も同様なはずである。さらに、最も重要なことは、もともとクリミアがウクライナに編入されたのは、1954年のフルシチョフの決定によるもので、クリミア住民の意思ではない。クリミア住民の意思が示されたのは、今回が初めてと言ってよいのだ。

 こういった状況で(実際には以前から継続して)、欧米とロシアは、やり方は異なるが、ウクライナ支援を申し出た。当然に、双方の利益にそれが見合うと考えたからである。それを藤原は欧米は自由、ロシアはナショナリズムをよりどころにしてるというのだ。藤原は「背後にある論理」という曖昧な表現を使っている。「背後にある論理」とは何か? 欧米にある「背後にある論理」とは、この場合には、自分たちの行動を正当化するロジックと言い換えた方が、つじつまが合う。何のことはない。日本語のふさわしい言葉で言えば、「錦の御旗」である。

 西側が自分たちと異質な勢力と衝突するときに使われる言葉、すなわち、「自由世界を守る」という「錦の御旗」が、ここでも使われているのだ。典型的な例が、「共産主義」(西側政府が考える共産主義であって、西側の共産主義者の多くは共産主義とは認めていない)と「自由主義」の衝突だとする戦後の冷戦である。ベトナム戦争において、「自由世界」をドミノ倒しのように「共産主義」が侵略してくるというロジックによって、アメリカは戦った。

 このロジックでは、「自由」とは何か、誰のためのいかなる「自由」なのか、実際には何が行われているのかなどは、一切問われない。「共産主義」と戦うために、欧米が中南米、ギリシャ、韓国の軍事独裁政権を支援するのが、なぜ「自由」を守ることなのかは、一切不問にふされる。「自由の守護神」アメリカが、サウジアラビアなどの中世的専制支配国家に軍事基地を置くことが、なぜ「自由」を守ることなのか? さらに、「自由世界」と対峙する「左右」の全体主義論では、「左」と「右」の「全体主義」が本質的に異なるにもかかわらず、同一のものとして扱われる(『全体主義』エンツォ・トラヴェルソ、平凡社新書)。ロジックというよりむしろ、トリックと呼んだ方がふさわしいのかもしれない。

 このロジックが、故意にしろ過失にしろ見落としているものは何か? それは言うまでのなく、「自由世界」が先進資本主義国、あるいは先進資本主義がつくりだした国家を超える秩序である。「自由」とペアのように使われる言葉に「民主主義」があるが、「民主主義国家間では戦争はしない」というデモクラティック・ピース論(イマニュエル・カント、ブルース・ラセット等)というものがある。ここでも、「民主主義国家」が、相対的に最も発達した資本主義国家であることが触れられない。発達した資本主義国間で、かれらの利益に合致する秩序ができていれば、戦争はしないのは当然で、なぜそれが「民主主義」によると言えるのか? せいぜい、「戦争はしずらい」という表現ににとどめるべきだろう。

 確かに、現在のロシアは欧米と比較して、権威主義的で強権的であると言える。「自由」と「民主主義」は相対的な意味で、欧米にあると言ってよい。また、ロシアが軍事力を行使したことも否定できず、それはそれとして非難されるべきだ。しかし、そのことと双方による経済的支援は別な次元のものだろう。IMFによる緊縮政策を条件とした財政援助が、なぜ「自由な統治」なのか? この場合の「自由」とは、ウクライナでの欧米資本の活動の自由である。

 欧米に「自由」の論理があり、ロシアには「ナショナリズム」がるとすれば、初めから正義は欧米にあると決めつけていることになる。なぜならば、近代の求めるべきものとして、フランス革命で掲げられているように、自由は多くの人が認める価値のひとつであり、それに対し、ナショナリズムは「偏狭な」という修飾語がつくこともある、やっかいなしろものであるからである。両者がウクライナにどう対応したかを分析する以前に、欧米は正義で、ロシアは悪と決めつけているのである。こういった一種の固定観念から見れば、キエフのマイダン(独立)広場に集結した勢力は正義で、東南部の政府系庁舎を占拠した勢力は悪ということになる。実際に、欧米のマスメディアの報道は、マイダン広場で火炎瓶を投げる、イスラエルからネオナチと断定されている極右集団は映そうとしないし、、東南部のロシア系ウクライナ人の、黒づくめで見るからに特殊部隊であるかのような武装勢力を何度も繰り返し映し出している。それとは正反対に、ロシアのテレビはマイダン広場で行動した一部の勢力に過ぎない極右集団をクローズアップし、キエフの政権全体がファシストであるかのように報道しているが、西側の報道と同じ意味で、自分たちの見方(イデオロギー)を鼓舞しているに過ぎない。

 つまり、藤原は欧米の部分ついては次のように書けば、現実に即していると言えるのだ。「欧米は、自由な統治の拡大という『錦の御旗』を背後に振りかざしている」と。

 欧米とロシアの対決を冷戦の再来と言う者もいるが、「自由世界を守る」というロジックは、西側が存在する限り使われるものだ。「再来」どころでなく、それ自体が西側、つまり先進資本主義国とその国際的秩序が未来永劫にわたって存在するためのイデオロギーであるからだ。スラヴォイ・ジジェック風に言えば、「自由民主主義」と資本主義は「結婚」しているのである。「自由民主主義」と資本主義はイコールで結ばれおり、資本主義の発展は「自由民主主義」の拡大なのである。西側の資本の活動の自由さえあれば、「自由な統治」であり、軍事独裁政権であろうが、中世的専制支配であろうが、それらのことには目を閉ざし、そういった矛盾はないことになっているのである。

 近年、困ったことに、非「自由民主主義国」である中国の資本主義が発展している。だから、未だにマスメディアは中国を「社会主義国」とし(新聞でも中国・北朝鮮の社会主義国同士などと書いている)、資本主義国とは呼ばないように気を付けている。

 

<話を日本にあてはめると>

 沖縄に米軍基地が集中しているのは、なぜか? それは単に、沖縄以外の日本に新たに米軍基地をつくることができないからである。たとえどんなに日米軍事同盟の必要性を主張する知事でも、自分の都道府県に新米軍基地を容認する者などいない。あの石原新太郎でさえ、東京都に米軍基地をつくれとは言わなかった。沖縄にあるのは、もう既にあるという理由以外にないのである(これは、過去の元米太平洋艦隊司令官が認めている)。そして、もうひとつ理由がある。それが、「自由世界を守る」というロジックである。「無法者」(かつてのソ連、中国、北朝鮮)から「自由世界を守る」ために米軍基地が必要で、その必要性が沖縄に軍事基地があることの不幸より大きいからである。日米の軍事同盟が「自由世界を守る」ために必要であるならば、沖縄以外に米軍基地が新たにできない以上、沖縄に米軍基地は必要なのである。「無法者」の中朝に侵略される不幸より、沖縄に米軍基地が集中する不幸の方が小さいからである。侵略の抑止力として、単純に軍隊が必要と考えれば、軍事力が大きければ大きいほど抑止力は大きいと考える人がいても不思議ではないのだ。

 問題は、「自由世界を守る」というロジックにある。この錦の御旗を振りかざすことは、「自由世界」は正義なのであって、それと対峙する相手は必然的に悪となるからだ。自らが、アプリオリに正義ならば、対峙する相手はアプリオリに悪であるのは自明だ。「自由世界」と対峙する中朝は悪なのであるから、一方的に武力行使をしてきても、何らおかしくはない。こういった言説は、こういった「考え」があるというようなものではない。「自由世界を守る」という段階で思考停止しているのである。そもそも、守るべき「自由」とは何か? 自分たちと対峙している相手は、本当は何者なのか? なぜ、相手は「侵略」してくると言えるのか? 考えるべきことは、山のようにあるが、すべて思考停止するのである。

 つまるところ、「自由世界の論理」というイデオロギーを乗りこえない限り、その欺瞞性を白日のもとにさらさない限り、「左」に勝ち目はまったくないと言える。

 

 

 

 

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