7月22日、日本政府は8日に殺害された安倍晋三元首相の国葬を正式に決定した。国葬の開催基準や方法など明確な指針がない中で、「歴代最長の期間、総理大臣の重責を担い、内政・外交で大きな実績を残した」などを理由に挙げている。「大きな実績」というが、その評価は人によって異なり、また「歴代最長」なら、なぜ国葬なのか、まったく説明のないまま、早々と決定したのである。
当然のことながら、賛否両論があり、南日本新聞のアンケート調査では、反対が72%に上るなど(7月25日)、かなり多くの人が反対しているのが実情である。
そもそも国葬とは、宮間純一・中央大教授(日本近代史)によると、戦前の国葬は天皇の裁可、勅令の「国葬令」に基づき「国家に偉功ある者」が対象となった。それは、天皇を中心に功臣を弔うことで国民を統合する機能を持った。例えば1943年に戦死した連合艦隊司令長官の山本五十六の国葬が執り行われたが、宮間氏は「国民人気が高かった山本の国葬を営むことで、山本の遺志なるものを継いで戦争に協力するよう国民に促した」 (以上、毎日新聞7月22日)という。戦後は、吉田茂が国葬となったが、その時も反対意見が続出しているという。
以上のように、歴史的経緯を見ても分かるように、要するに、日本では、国葬は政府が政治的目的をもって行うものなのである。
その政治的目的を、毎日新聞は、「国葬の開催に踏み切ることで、国際社会での影響力を高め、安倍氏を支えた保守支持層を引き寄せる 」(7月22日)ことだとしているが、直接的な狙いはそこにあるとしても、反対意見もある中で国葬を強行することは、単なる儀式などではなく、安倍晋三は国葬に値するほどの「偉人」であり、「良いことをした人」だという政治宣伝という意味をもつ。安倍晋三が最も力を入れて推し進めてきた、国家権力の強化と軍事力の拡大を目指す改憲の動きを、国葬に値するほど「内政・外交で大きな実績」と宣伝しているのである。その「偉人」の功績を継ぐのが、自公政権だと宣伝しているのである。
マスメディアの報道姿勢
殺害当初は、遊説中の事件だったこともあり、「民主主義の脅威」とする報道が多かったが、容疑者の母が信者だった旧統一教会が、自ら会見を開いたことから、「特定の宗教団体」として宗教団体名すら、分かっていながら隠していたマスメディアは、旧統一教会がやってきたことに、言及せざるを得なくなった。旧統一教会に家庭を破壊された容疑者がそれを恨み、旧統一教会と関係が深く、かつ大きな政治力を持つ安倍晋三を同様に恨み、殺害したのが動機であることが判明したからである。
かねてから、旧統一教会の時事上の「献金」の強要は問題視されており、あまりに悪質であることから、1980年代頃は新聞・テレビは、その問題を追及する報道を繰り返していた。しかし、旧統一教会の「献金」強要は、その後も続いていたにもかかわらず、マスメディアは一切追求することを辞めたのである。それは、「クレーム対応や訴訟への発展を恐れた」(鈴木エイト「週刊金曜日」)からでもあるが、何よりも、この旧統一教会が、政治的には、反共を掲げる極右集団であるからである。宗教団体としての極右団体は、旧統一教会以外にも、日本会議の中核構成メンバーの神社本庁など自民党を筆頭とする日本の右派勢力と強い繋がりをもっている。勿論それは、極右というイデオロギーの同一性からくるものである。だから、イデオロギー的同一性から旧統一教会関連団体にメッセージを寄せた安倍晋三という極右政治家と強く結びつくのである。そしてこの勢力は、政権党という権力側にいるのである。ここに、マスメディアが、旧統一教会の問題追及を辞めた理由がある。旧統一教会を追求することは、権力側にいる政治勢力を追求することに繋がる。そんなことは、マスメディアの経営上、できれば避けたい。それが、マスメディアの実態なのである。
テレビ局のディレンマ
容疑者の「恨み」が判明した後は、テレビ、特にワイドショーでは、霊感商法弁護団をも出演させ、旧統一教会の好意の悪質性を報道するようになった。それは、1980年代に、「占い商法」「印鑑販売」「壺売り」「高麗人参売り」、そして1992年の桜田淳子ら有名人が参加した「合同結婚式」 などありとあらゆるカネ集めと人権無視を繰り返す旧統一教会をテレビがワイドショーを中心に報道してたことを彷彿とさせるが、その時と異なるのは、安倍晋三が殺害されたことから、しぶしぶ、この旧統一教会と政治家との繋がりにも言及せざるを得ない点である。
勿論、この旧統一教会ネタをワイドショーでやるのは、視聴率が取れるからである。しかし、ここにテレビ局のディレンマがある。旧統一教会の行為が悪質なら、選挙活動支援を受けるなど、繋がりを持った政治家にも責任があるのではないか、安倍晋三もその一人で、その人物が国葬などというのは、少なくてもこの点に関しては大いに疑問が残る、という論理展開にならざるを得ない。これは、1足す1は2,というようなもので、誰が考えても分かる論理である。しかし、それでは、政府を敵に回すことになり、そんな報道の仕方はしたくない。高視聴率は欲しいが、政府に睨まれたくはない。う~ん、困った。それが、テレビ局の本音だろう。
そこでテレビ局は、ワイドショーの自民党応援コメンテーターに、政治家との繋がりをごまかす、安倍晋三への直接批判は決してしない方向にもっていかせようと努めさせることにした。吉川美代子に「共産党の旧統一教会追及はパフォーマンス」と言わせ、八代永輝は「(山上容疑者は)非常に幼稚なんだな、精神構造が 」と容疑者だけに問題があるように発言し、野村修也は「(旧統一教会の選挙支援を)やっている活動自体はそれほど、普通の団体がやっていることと違わない。日弁連だってロビー運動やってますからね。だから当然のごとく議員会館に入って、みんな主義主張を述べていて、それを悪い行為だって言っている人は誰もいない」 などと、批判の矛先を自民党に向かわせまいと必死な発言を繰り返し放送することにしたのである。
もとより、内容が視聴率に大きく影響することのない夕方、夜のニュース番組では、山上容疑者の足取りや武器製造等は詳しく報じ、旧統一教会関連は控え目に報道している。このように、テレビ局全体の放送としては、旧統一教会と政治家との繋がりは少な目にするという工夫が随所に見られるのである。
新聞は、と言えば、読売、産経、日経といった政権応援団は当然のように、自民党に都合が悪い報道は控え目であるが、自民党にすり寄る姿勢が明白な朝日新聞も、旧統一教会と政治家との繋がりについては、ほとんど記事にしておらず、毎日、東京がいくらか記事にしているという状況である。(7月28日になって、さすがに朝日新聞もいくらなんでもひどすぎる報道ぶりに、新聞社内部で問題になったのか、「論壇時評」に東大院教授林香理にマスメディアの報道姿勢を批判する論考を載せている。)
強行される国葬
安倍晋三の国葬に、政党では、立憲、共産、れいわ、社民が反対を表明しているが、何と言っても、議席数3分1以下の少数派であり、国葬決定を覆すほどの力はない。結局、国葬は強行される。政府が「国民に喪に服すよう強制する考えはない 」と言ったところで、その時は、テレビ、新聞は国葬一色となり、安倍晋三を批判するのは、「死者に鞭打つような」良くないことという空気が醸し出され、安倍晋三賛美に終始するという状況が生まれるのは間違いない。
国葬に反対な人には、諦めが生まれ、どちらともつかいない人には、やはり安倍晋三は「いいことをした」、「偉人」なのではないか、という意識が住みつくのである。
日本型「近似」ファシズムとマスメディア
権威主義と批判されるロシアでは、政府に批判的な報道にはあからさまな弾圧があるが、日本では、その必要はない。政府に批判的な報道は控えるという忖度をマスメディアが自らしているからである。政府は、せいぜい政府批判を「偏向報道」と文句をつければいいだけである。その異なるやり方でも、ロシアも日本も、政府に批判的な報道は少ないという結果は変わらない。
人びとは、何が世の中起きているのかを知るのは、マスメディアによってしかない。SNSも、所詮、マスメディアが報道したことに、尾ひれをつけてなされるだけである。ロシアのウクライナ侵攻を、ウクライナからのSNSで初めて知ったなどという日本人は、ウクライナ在住の者だけだろう。日本に住んでいれば、すべて、最初はマスメディアの報道から知るのである。そして、マスメディアの報道の仕方によって、何が起きているかの印象は大きく左右される。だから、ロシアでは、マスメディアを政府統制下に置くのである。
「マスメディアは、『何を伝え、何を伝えないか』という情報の選択を通じて、人びとの現状認識を構成する効果を持つ」(稲増一憲「マスメディアとは何か」)。そして、そのことは、政権を支持するか否かに大きく関わる社会的意識を左右する。マスメディアが政府に都合のいい記事ばかり報道し、都合の悪い記事を報道しなければ、その分、政府は選挙で有利となる。それが、日本のマスメディアがやっていることなのである。日本のマスメディアが、時事上の自民党一党支配化を後押ししているのである。
日本は、世界中稀に見る政権交代がない国である。日本以外の国は、権威主義と呼ばれ、(例えば、政権交代のない人民行動党政権のシンガポールは、「開発独裁」と呼ばれる。)政治制度に疑問が持たれる。その見方からすれば、日本の民主主義は極めて疑わしい。ファシズムそのものだとは言わないが、ネオがいくつかつく、日本型「近似」ファシズムだと言うのは、言いすぎではないだろう。