夏原 想の少数異見 ーすべてを疑えー

混迷する世界で「真実はこの一点にあるとまでは断定できないが、おぼろげながらこの辺にありそうだ」を自分自身の言葉で追求する

アメリカ大統領選民主党指名候補バーニー・サンダース その善戦の意味するもの

2016-03-22 17:31:04 | 政治

1.バーニー・サンサースとは?

 アメリカ大統領予備選挙では、マスメディアの注目は、そのあまりにも傍若無人な発言で共和党のドナルド・トランプに向けられているが、今までにいなかった候補という意味では、バーニー・サンダースも同じだろう。当初の予想に反し、トランプは共和党の候補としてトップを走り、サンダースは恐らくはヒラリー・クリントンに最終的には勝てないにしても、3月前半で獲得代議員数でクリントンの半分にせまり、盤石な勢いがあったクリントンとの闘いなのだから、充分善戦していると言える。トランプとサンダースの違いは、多分にメディアに対する作為的受け狙いの有無と、多くの国では当たり前の対立軸である政治的左右である。そして、トランプの方はアメリカ国外でも有名人であるが、サンダースはアメリカ以外ではまったく無名であることだ。では、バーニー・サンサースとは何者なのか?

 ルモンド・ディプロマーティークの記事「サンダース ホワイトハウスを襲撃する社会主義者」によれば、サンダースは以下のとおりの人物である。学生時代にアメリカ社会党Socialist Party of Americaの下部組織である青年社会主義者同盟Young People’s Socialist Leagueに加盟し、アメリカ社会党が分裂すると、公民権闘争やベトナム反戦闘争に参加する。その過程で注目すべきは、1979年社会党大統領候補だったユージーン・V・デブスの演説の朗読をする機会に際し、「私は資本主義の兵士ではない。私はプロレタリアートの革命家だ」「私はたったひとつの戦い(階級闘争を示唆している)を除き、すべての戦争に反対する」と述べている。これはまさに、筋金入りの社会主義者socialistであることを宣言したものだ。

 その後、ヴァーモント州バーリントンの市長になり、1990年無所属の連邦下院議員、2006年上院議員となる。勿論この間に、前述した筋金入りの社会主義者からは、いくらかは穏健になったと考えられる。現在民主党の候補者として予備選を戦っているのだから、それは当然のことだろう。では、サンダースは何を掲げて戦っているのかと言えば、公式サイトから抜粋すると以下のようなものである。

 全国民の医療保障制度の確立と社会保障制度の拡大

 公立大学の授業料無償化

 最低賃金を15ドルに引き上げる

 人種間の平等と公民権の擁護

 富裕層への課税強化と企業助成政策の廃止

 TPP反対

 男女の賃金の平等化

 政治家への企業による大口献金の禁止

  徹底した温暖化対策

等々である。英国BBCがそれらを?富裕層への課税強化 ?巨大金融機関の解体 ?大学の無償化であると要約している。これは、特に目新しいものではなく、極左を除く、社会民主党、労働党、共産党などの多くの左派政党が過去から現在にわたって掲げている政策と共通しているものだ。(アメリカ共産党Communist Party , USAは公式サイトでサンダース支持を明らかにしている。)要するに、最も優先する課題は、社会的不平等、社会的不公正を是正することだと主張しているのだ。そしてそれは、実現可能だと訴えているのだ。例えば、大学の無償化など、北欧では当然のこととして行われている、と。

2.なぜ、社会主義者が善戦しているのか?

 Newsweek日本版(2015.9.9)で冷泉彰彦が、サンダースは「占拠デモOcuppy Wall Streetの流れを継承している。」「オバマ政権に対する左派の不満」を表していると言っているが、他のメディアでも概ねこういう指摘がなされており、ほぼ納得できるものだ。さらに言えば、「左派の不満」を極めて分かりやすく具体的に主張していることが、支持の拡大、特に若者の熱狂的な支持の要因だと考えられる。「オバマ政権に対する不満」とは、サンダースが掲げた要求が、現在の民主党政権、そしてほぼオバマ路線を引き継ぐクリントンでは達成不可能であるという意味だ。トマ・ピケティは著書の中で、先進国中で富の不平等の最も著しい国とアメリカを指摘している。サンダースが掲げたのは、その著しい富の不平等に対する改善要求である。

 しかし、「左派の不満」とメディアは言うが、これだけ多くの左派が一体アメリカのどこにいたのだろうか? サンダースの運動資金はすべて少額の寄付であり、2015年では7000万ドル、2016年1月だけで130万人2000万ドルに達した(ハフィントンポストUSA2016.1.31)というのだ。つまり、数百万人の厚い支持者がいるということになる。2011年の「占拠デモ」は、数千人規模であり、全米でも多くとも数万人程度だから、それと比べてサンダースの支持者は桁違いに多い。

 フランスの社会学者アレクシ・ド・トクヴィルは「アメリカの民主政治」の中で、アメリカにおける多くのアソシエーションに感嘆している。アソシエーションassociationとは、一つの目的のために自発的に結集した集団のことであり、結社と訳されることもある。つまり、アメリカには、政治的であるかないかを問わず、意思表示を自発的に行う草の根的運動の下地が十分にあるということだ。勿論それが右派になれば共和党支持者の「ティーパーティ」であるが、公民権運動、ベトナム反戦運動、労働運動、そして「占拠デモ」と左派の運動は、アソシエーションを下地に脈々と続いてきたのだ。他の国と異なるのは、左派政党がそれらの運動と連動することができず、先進国の中では珍しく、左派政党が国政議会で議席を有しないほど小さなものに過ぎないということだ。その左派政党の代わりの役を担っているのが、一部の民主党員なのである。だからこそ、サンダースが民主党から出てきたのは驚くにあたらないことなのだ。

 

3.左派とリベラル派

 Newsweekをはじめ、多くのメディアはサンダースを左派leftと言っているが、その支持者については左派という言葉よりも、リベラルliberalsと表現している方が多い。 実はこのリベラルとは、極めてアメリカ的な言葉である。自由(これは翻訳語だが)を意味する言葉には、英語でliberalとfreeの2語があり、政治的には自由社会free societyや自由貿易free tradeのようににはfreeを使い、liberalはジョン・ロールズなどの現代的な自由主義観を表す時に使われることがしばしばである。つまり、旧ソ連などの「社会主義」に対抗する意味合いにおいては、特にfreeが使われ、自由liberalとは、ロールズの「正義論」でも見られるように、正義の概念が組み込まれ、社会的公正や富の再分配まで重視する意味が付随していると考えられる。だから、中道左派的なものまでリベラルと表現されるのである。サンダースの支持者がリベラルだというのは、その意味である。では、左派とリベラル派はどう違うのか?

 「サンダースが、今までで最も左寄りの民主党の候補」(The Wall Street Journal2016.1.16)だと表現されるが、サンダースが最もリベラルだという表現は見当たらない。分かりやすい例を挙げれば、マルクス主義者は左派に属するが、リベラル派ではない。それは、左派とリベラル派では、第一義的な価値観が異なるからだ。左派を定義すれば、より平等な社会を志向するもの(ノルベルト・ボッビオ)であるが、リベラル派は資本主義システムを肯定的に前提にしており、そこから生み出される不平等、不公正を是正するのは第二義的なものだからだ。したがって、資本主義システムに少々の改良を加えることは否定しないが、資本主義システムを変革する、あるいは廃絶するのは、もはやリベラルではないのだ。具体的な例を挙げれば、アメリカにおいて、北欧のような高度福祉社会を目指す者は、リベラルではなく、社会主義者なのである。北欧のような高度福祉社会は、単なる富の再分配では済んでいない。そこには、再分配前の所得そのものの格差の縮小と資本の自由に対する大幅な規制があるからだ。例えばスウェーデン、ノルウェーでは、公的経済の比重が高く、公務員は労働人口の28%を超え、OECD平均の2倍に達している(OECD2009年発表)。政治的自由は保証されるが、これほど資本活動の自由を制約した社会を、リベラルと呼ぶ訳にはいかないだろう。そして、この福祉社会を築き上げたのは、スウェーデン社会民主労働党をはじめ、社会民主主義政党である。サンダースのように民主社会主義者democtatic socislistと名乗っても、社会民主主義者social democratsであっても、社会主義者には違いがないのだ。自由と平等は近代が確立した価値であるが、どちらかを優先すれば、どちらかが後退するというように、両者は度々ぶつかり合う。その時に平等を優先する者、それが左派なのである。このような理由から、サンダースは左派であって、リベラル派ではないのだ。

4.社会主義者が善戦していることの意味するもの

 ヨーロッパなら普通のことであるが、アメリカにおいて社会主義者を自認する者が、これほど多くの支持者を集めたことはないだろう。社会主義といえば、旧ソ連のことであり、ロナルド・レーガンが言ったように「悪の帝国evil empire」であるからだ。また、中国も北朝鮮も社会主義なのである。そのような中で、社会主義者が特に若者に支持を得るということは、次のように考えられる。もはや社会主義のソ連は若者たちには記憶に薄いということかもしれない。あるいは、社会主義には、ソ連、中国、北朝鮮のような「社会主義」とは別の社会主義があるのかもしれない(これほど重要なことはない)、と気づき始めたのではないか。いずれにしても、社会主義者を名乗っても、それだけで排斥されることは、アメリカではもうなくなったということだ。そして、社会主義者という「最も左寄りの」候補の、左派としては当然でオーソドックスな要求が、極めて分かりやすく具体的ならば、多くの支持を得ることができるということだ。このことは、アメリカ以外の国にも教訓として影響を与えるだろう。特に、あたかも「右」と「左」の対立は終わったかのようにマスメディアが喧伝し、本質的に左派にもかかわらず自らをリベラルなどとする非論理的な市民運動家や知識人が多い、日本という国において。

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「政治的中立」を要求する極めて政治的な圧力

2016-03-11 16:13:13 | 政治

高市発言

 2016年2月8日、高市早苗総務大臣は衆院予算委員会で、放送局が政治的な公平性を欠く放送を繰り返したと判断した場合、放送法4条違反を理由に、電波法76条に基づいて電波停止を命じる可能性に言及した。それに対して、例えば読売新聞によれば賛否両論があったと言う。その後批判する側から、田原総一郎等の民放のニュースキャスター7人が「憲法と放送法の精神に反している」と「怒りの」声明を挙げた。また、池上彰は、「欧米の民主主義国なら政権がひっくり返ってしまいかねない発言だ」(朝日新聞2016.2.26「新聞ななめよみ」)と非難している。

 高市早苗の発言は、一般的な民主主義における言論の自由という観点からは、ヴォルテールの考えを言い表した言葉(ヴォルテール自身の言葉ではない)「私はあなたの意見には反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という精神に真っ向から反していると言っていいだろう。自分たちに都合の悪い報道を、放送法と電波法を盾に威圧しているからだ。それに対し、反対の側からは、例えば八木秀次麗澤大教授は、「高市総務相批判に異議あり。テレビに偏向放送の自由はない」(月間正論4月号)と高市発言を擁護している。要するに、テレビ局は「政治的中立を守れ」と言っているのだ。

 これには話の前段があって、2015.11.15に読売新聞と産経新聞に載った「私たちは、違法な報道を見逃しません」という意見広告があった。それは、安保法案に批判的なNews23の岸井成挌キャスターを批判するものだった。高市発言は、その流れに沿ったものだと解釈できる。

一連の出来事

 こういうことは、テレビ局だけの話しかと思えばそうではない。同じような最近の政治的な言動に対しての批判や抑制を新聞等から列挙すれば、次のようなものがある。

文部科学省は高校生の政治活動を、届出制を容認するなど、事実上制限する通知を出す。

神戸市で毎年開催されている、所謂護憲派の「神戸憲法集会」の講演依頼を、兵庫県と神戸市の教育委員会が「『政治活動に関わりがない』に抵触する」として拒否する

MARZEN&ジュンク堂渋谷店の「自由と民主主義のための必読書50」が偏向しているという非難から中止に追い込まれる。

 これらに共通するものは何か? それは、すべて安倍政権に対する批判的な言動を問題にしていることだ。始めの高校生の政治活動とは、安保法案や原発に反対するデモや集会を念頭に置いていることは、最近の実際の動きからも明らかだろう。そもそも、政治的なデモや集会は現状への批判がほとんどであり、現政権を支持するためのデモや集会をわざわ行うなどということは極めて稀だ。このことから政治活動の制限が、現政権批判を封じる狙いがあることは想像に難くない。神戸市の場合も、改憲をもくろむ安倍政権に対し、護憲を掲げているので、批判にさらされているのだ。MARZEN&ジュンク堂も「必読書50」の中に、SEALDsや高橋源一郎、ウオール街占拠などの、安倍政権から見れば好ましくないない書物が多いことから、圧力を受けたのである。高市発言も安倍政権を批判するテレビ報道を問題にしていることは、間違いない。

日本の民主主義の現状

 なぜこのような自らの政権に批判的な言動に圧力をかけることがまかり通ってしまうかと言えば、池上彰の言うとおりなのである。「欧米の民主主義国なら政権がひっくり返ってしまいかねない」ほど民主主義に反すると池上彰は言う。まさに、そのとおりなのだ。日本は欧米ではなく、欧米の民主主義観とは異なる考えを持つ者がいるということを表しているのだ。民主主義観はその者の立場によって異なる。高市発言がテレビ局に対する圧力だとニュースキャスターが抗議したが、そのニュースキャスターは読売新聞系列の日テレと産経新聞系列のフジとは縁の薄い者たちだけだ。読売新聞も産経新聞も高市発言をまったく批判していないことが、そのままテレビ局に反映されているのだ。安倍政権支持の論調が目立つ読売新聞と産経新聞は、池上彰の言う、「民主主義国なら政権がひっくり返ってしまいかねない」ほどの民主主義の問題とは捉えていないということだ。だから、安保法案に批判的なキャスターを非難する意見広告がこの両紙にだけ載ったのである。つまり、民主主義に対する考えが異なるのだ。では、読売新聞と産経新聞の民主主義とは一体どういうものなのか?

 前出の、産経新聞に転載された月間正論4月号の中で、八木秀次は「偏向放送に自由はない」と言っているが、彼は民主主義などどうでもいいと言っているのではなく、それが彼の民主主義観の一端なのである。では何が「偏向」なのか? 八木は『労組や左翼政党、外国勢力からの「不偏不党」「自律」を確立すべきだ』と言う。逆に言えば、「労組や左翼政党、外国勢力」の考えが「偏向」していると言っているに等しい。この中で、「外国勢力」というのが少し分かりづらい。「外国」といっても、日本に最も影響力のあるアメリカのことではない。これは、極右歴史修正主義者の代表挌である八木秀次が、常に問題にしている「自虐史観」の中の「慰安婦問題」や「南京虐殺」に関連している韓国や中国のことである。これには、歴史修正主義が常套手段としている論理のすり替えがある。「慰安婦問題」や「南京虐殺」が歴史的事実か否かという日本の近現代史に関する問題を、故意に韓国や中国の政府の主張と絡めているからだ。韓国や中国の政府の主張がどうであれ、日本の近現代史の事実がそれによって変わるわけがないのは、誰が考えても分かる理屈だが、故意に向こうの政府の主張と絡めることによって、問題をすり替えるのだ。これによって、「自虐史観」を主張する者は、韓国・中国の手先というようなイメージを与えるのだ。だから、慰安婦の国家による強制性や人数に関係なく南京虐殺はあったと推定されると考える者は、「反日」と極右は言うのである。ここで、八木が「外国勢力」と言っているのは、そのような「反日」のことである。

 「労組や左翼政党」は、それほど難しくない。「左翼政党」とは、共産党、社民党、「労組」である連合の支持を受けている民主党の一部、その他の極左を含めた左派政党ということだろう。それは、日本だけに「左翼政党」があるわけではないので、ヨーロッパの主要政党であるフランス社会党やドイツ社民党、中南米の多くの左派政権党、アメリカで言えば、自らを社会主義者socialistと公言しているバニー・サンダースを支持している民主党の一部も含まれるのだろう。それらすべてを八木は「偏向」していると主張しているのである。

 これは、八木秀次だけの考えではない。高校生の政治活動も、護憲派も、「必読書50」も、「左翼的偏向」と、右派全体から非難されているからだ。つまり、かねてより、「日教組は偏向している」と自民党をはじめ右派全体から非難されてきたことと同じものなのだ。右派からの非難、だから、右派である読売新聞も産経新聞も高市発言を擁護ないし黙認しているのだ。こばやしよしのりなどの一部の例外を除いて、多くの右派にとっては、それが民主主義なのである。

 しかし、ヴォルテールの思想を表した「反対意見を主張する権利」が、100パーセント守られた統治governmentなど歴史上あったのだろうか? 極めて疑問である。それは単に、ファシズム体制下やスターリン的強権体制下だけの話ではない(因みに、この両体制を全体主義と呼ぶのは、非論理的だ。この二つは共通性はあるがまったくの別物であり、それを同じというのは、下品な言い方をすればクソミソ一緒である。色や形が同じでも別物なのである。)現在でも多くの国で、手を変え品を変え、敵対する勢力の言動を封じ込めようと、画策されていると考えられる。そのことは本質的には、民主主義が政治的な闘争の産物として生まれたことと関係しているだろう。フランス史の中の三部会で言うところの、聖職者も貴族も、「おっしゃるとおり」と、おとなしく自分たちの特権を失う平民の主張を受け入れたわけではない。平民の主張を認めさせるのには、暴力、非暴力を問わず、彼らの政治的闘争が必要だったのだ。そしてその闘争は、ブルジョアジーから労働者や農民などとさまざまな主体を変え、現在も続いているのだ。このさまざまな政治勢力の闘争が現状の政治的状況をつくりあげているのだ。

 フランスで、政権党である「左翼政党」の社会党Parti Socialisteの意見を「偏向」しているなどと言う者はいないだろう。ではなぜ、日本には堂々とそのようなことを言う者がいるのか? それは、日本の政治的な状況がそれを許しているからだ。その理由は二つある。一つの理由は単純に、「左翼政党」が弱体であるからである。そしてもう一つは、「右」と「左」の概念が、混乱しているからだ。あたかも「右翼」とは街宣車に載っているような者だけをさし、「左翼」とは共産主義者だけをさすように、マスメディアは使用している。(政治的左右の言葉の始まりであるフランス国民議会の時代に共産主義者が存在している筈はなく、「左」が共産主義者だけではないのは当然だろう。)だから「左翼的」とは、「一部の頭の硬い共産主義者」だけのことというようにイメージされてしまうのだ。それは、社会の基本的な対立が見えなくなってしまうことも意味している。なぜ、ヨーロッパや中南米における政権を争う選挙が、概して「右」と「左」の対決になっているのか、これでは分からない。「右」と「左」の代わりに、保守とリベラルなどという言葉を日本のマスメディアは好んで使う。それでは、社会の基本的な対立である、富者と貧者、1パーセントと99パーセント、持つ者と持たざる者、働く者と資産で生活できる者、資本と労働者(因みに、マルクスの資本論で言う資本家とは資本の擬人化である)、そういった基本的な対立が隠れてしまうのだ。勿論そこには、フランシス・フクヤマの「歴史の終焉」といった、そのような対立は終わったというイデオロギーが潜んではいるのだが。日本のマスメディアが「保守とリベラル」などという言葉を好むのは、アメリカのジャーナリストが多用するから、それをまねているのであろうが、それもそろそろ終わりだろう。日本の「左翼政党」は当分強大にはならないだろうが、「保守とリベラル」の本家のアメリカでも、ついにバニー・サンダースという自他ともに認める「左」が、極右から中道右派までの「保守とリベラル」というに「右」対して、戦いを挑み、善戦しているからだ。

 

 

 

 

 

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