1.自民党の勝因
自民党を中心とした改憲勢力は、参院選での勝利により、改憲発議に必要な3分の2の議席を衆参両院で確保した。改憲勢力に対抗して「安保法の廃止と立憲主義の回復」を第一に掲げた野党は、案の定敗北したのである。野党統一候補の善戦はあるものの、それは、なんとなく安倍政権を支持できない層にとっては個別の政党よりも統一候補の方が選択しやすいせいであり、野党が掲げた旗印に共鳴したとは考えづらい。そのことは、その旗印のみを掲げた慶応大学の小林節が率いた「国民怒りの声」が、惨敗に終わったことで推測できる。その惨敗の理由は、選挙の際の有権者の最大関心事は「経済」であることや、中国や北朝鮮が軍事的に活発な動きを見せる中で、「抑止」理論にはまったく触れないで「安保法の廃止と立憲主義の回復」という机上論ともとれる主張だけを繰り返しても、有権者に理解されなかったということと言えるだろう。
参院選での自民党の勝因については、マスメディアの出口調査等でも明らかにされているが、上記のとおり選挙の際の有権者の最大関心事は「経済」であり、野党側が対抗する「経済政策」を打ち出せなかったことによるという分析が新聞各社ではなされている。もっともらしい理屈であるが、アベノミクスで「経済」は上向きになっているかと言えば、そうでもない。では何故、良くない「経済」状態で自民党が勝利できたのか説明がなされてはいない。その理由についての論考の中で、「世界」9月号の北大法学研究科教授田徹「時間かせぎの政治」は、安倍政権の本質にせまるものであり、一読に値する。吉田によれば、「安倍政権の手法」は「アベノマジック」であり、「時間と政策の配列の組み合わせによって、有利な状況を自らの手で作りだそうとする」もので、「アベノミクスは」「永遠に成功しないことこそが、阿部政権が支持される根底にある」のだという。つまり、有権者にとっては、「株価上昇や雇用の増加」「賃上げ」がわずかに成されればそれが「楽観的な期待」となり、景気回復の「実感のなさ」があっても、それは「アベノミクスが不足」しているからだと思わせるものだという。そしてそれは、W.シュトレーク「時間かせぎの政治」に「倣っていうならば、アベノミクスが実現しないことが選挙での強さと権力を担保している限り、少しずつ破局に向かう政治の『時間かせぎ』にしかならない」という。
この論理には次のことが前提になっている。アベノミクスは金融・財政政策、構造改革という多くの国で採用されている経済政策に過ぎず、例えば「異次元の」という大袈裟な修飾語がついたとしても、金融緩和は主要国で行われているという実情があることだ。それは、ノーベル賞受賞者をはじめ、主流派の経済学者の多くが基本的には支持しているものである。だから、主流派経済学をよりどころにしているマスメディア(朝日、毎日新聞も含む)も、政策そのものには反対できないのであり、その結果がうまくいっていないと主張するだけにとどまるのである。
いずれにしても、経済状況は一向に改善されていないという多くの指摘がなされても、政権が支持され続ける理由のひとつとしては理解できるものだ。
2.「3分の2」後の改憲はあるのか?
衆参両院での3分の2の議席を確保しても、実際の明文憲法改変には多くのハードルがあることはメディアでも度々指摘されているとおりであり、当分の間不可能だろう。新聞各社の報道によれば、世論調査での改憲への許容度合は上がっているという(毎日新聞電子版2016.7.28)。また、安倍首相は選挙中封印していた改憲を選挙後に口にし始めた。しかしそれでも、明文改憲はハードルが高いことには変わりはない。その第一の理由は、自民党は「憲法改正」草案を出しているが、それに対して与党の公明党は現時点では慎重であるし、そもそも「憲法改正」といっても、改憲派の中でも様々な意見があり、まとまっているものではないことだ。同じ改憲派でも、例えばメディアの例でいえば読売新聞と産経新聞とは意見は同じではない。自民党改憲草案を「たたき台に」(安倍首相2016.7.11記者会見)と言っても、極右の歴史修正主義者から、おおさか維新、中道右派の民進党の一部まで巻き込んで意見をまとめるのは容易なことではない。
第二に、国民投票で改憲派が勝てる見込みは今のところないことだ。改憲への議論を進めるためには、「たたき台」の自民党草案を全面的に押し出さなければならないが、当然のようにそれはマスメディアによって広く議論の対象になるだろう。一部の新聞ではこの草案は報じられているものの、ほとんどの国民はその存在自体すら知らないだろう。何と言っても、それはテレビで自民党草案があること自体を報道していないからだ。この草案は、「現憲法のすべての条項を見直」(草案Q&A)すもので、現憲法前文と9条の平和主義の事実上の否定のみならず、国家主義の推進、国民主権の曖昧化、基本的人権と生存権の否定といった、およそ現在の体制を全面的に否定する内容のものだ。当然、賛否両論の激しい議論になるだろう。その時は、海外メディアも黙ってはいない。今までも、ニューヨークタイムズやワシントンポスト、ルモンドなどの世界的に有名な新聞は、安倍首相の歴史修正主義的主張に批判的だった。その時は、安倍個人のに対する批判にとどまるものだったが、国家の根幹である憲法問題として論じられるということになれば、全面的に批判されるのは火を見るよりも明らかだろう。なぜならば、自民党草案は自由民主主義体制からの大幅な後退を意味するからだ。欧米の自由民主主義者は往々にして、反民主主義体制を黙認することがある。中南米の軍事独裁体制や中東の絶対君主国を援助することがそれにあたるが、それは「共産主義者やテロリスト」という欧米にとっての敵の、その敵は味方にせざるを得ないという理由によるものだ。日本の場合、アメリカの要求は日米の軍事同盟の強化にとどまるもので、中国や北朝鮮に対峙するために、自由民主主義に反する国が必要だとは決してならない。欧米の自由民主主義者にとって、日本が自由民主主義から後退することは、決して望ましいことではない。欧米の政府は他国への内政干渉を避けても、世界の主要メディアは自由民主主義の観点から、自民党草案を全面的に批判するのは目に見えている。また、軍事的な観点からも、アメリカの戦略を越えて、日本独自に必要以上に中国・北朝鮮との緊張関係を作り出すのは、アメリカ政府のみならず、欧米全体にとって決して好ましいことではない。そういった批判的論調は、日本のマスメディアにも影響を与えるに違いない。産経や読売新聞が井の中の蛙のようにひとりよがりの右旋回を主張しても、世界的には批判を免れないことが国民全体に明らかにされことになるのである。それは改憲に慎重な世論を後押しすることになるのは間違いない。
戦後、日本はアメリカの戦略の範囲内での国内政策と外交政策を続けてきた。自民党草案はそれを明らかに逸脱することを意味している。改憲派は、現憲法はアメリカの押しつけだと主張する。その意味は、憲法の制定過程だけのものではない。改憲派にとって「押し付けられた」とは、民主主義そのものを「押し付けられた」ということなのだ。したがって彼らの「自主憲法」は、民主主義そのものの否定ないし後退なのである。
3.実質的改憲
明文の改憲が当面の間困難だと予想される時、安倍政権は憲法を無視した実質的改憲を模索するだろう。そしてそれは、安保法の成立などの解釈改憲として既に始まっている。参院選以降では、防衛省は2017年度の概算要求で過去最大の5兆1685億円を計上する方針を固めた。また、8月24日、政府は安保法に基ずく自衛隊活動の訓練を順次実施すると発表した。南スーダンに派遣する陸自部隊が「駆けつけ警護」の訓練をするという。さらに、後方支援の手順や態勢を整備した上で、日米共同訓練なども本格化させるという。そのほか、過去に廃案になった「共謀罪」を「テロ等組織犯罪準備罪」として9月の臨時国会に提出を目論んでいる(朝日新聞2016.8.26)。これは市民運動や労働運動の抑圧にも適用されかねないものであり、犯罪行為の前の「合意」でも処罰できるという、現刑法の原則からの逸脱が懸念されるものなのである。
このように、安倍政権は着々と実質的改憲を始めているのである。そのやり方は、改憲への議論では低姿勢に徹し、事実上の改憲を一歩一歩確実に積み重ねていけば、あとは現実から乖離した明文憲法を現実に合わせればいいというものだろう。このやり方ならば、今のところアメリカ大統領選やEUの状況に目が向いている欧米のメディアにも大きく扱われることを避けられる。これこそ、急がば回れという意味でも、最も確実な念願の明文改憲への道であろう。
4.やはり、反安倍勢力にとっては「お先真っ暗」なのか?
安倍政権はこのまま実質的改憲に突き進むであろうし、国会の勢力はそれを阻止できるものではない。次期衆院選でも改憲勢力に勝つ見込みはなく、その意味では「お先真っ暗」と言うほかはない。しかし、明文改憲にはかなりの年月がかかる。おそらくは、数年から10年ほどはかかるだろう。その中で、仮に「一条の光」と呼べるものがあるとしたら、市民団体の選挙への取り組みがようやくできつつあることだろう。SEALDs、「ママの会」、「学者の会」、「総がかり」、「立憲デモクラシーの会」の5団体がひとつの団体をつくり、安保法の廃止に向けて野党の共闘を促進させた。戦後、市民運動は長い間、選挙には背を向けてきた。それが、ようやく自分たちの要求を通すには、国政選挙で勝つしかないと気付いたのである。市民運動が国政選挙に背を向けてきたことの理由には様々なことが考えられるが、最大のものは市民運動の思想的リーダーの考えが変わったことである。あるいは、過去の思想的リーダーが高齢により消え去ったことであろう。
こういった様々な市民運動、大衆運動が国政選挙闘争に向かおうとするのは、日本に限ったことではない。むしろ、ようやく日本の市民運動がその方向に向かったのだ。アメリカ大統領候補選のバーニー・サンダースを支えた運動もそのひとつである。ヨーロッパではギリシャのシリザ、スペインのポデモスも、草の根的大衆運動と少数左派政党の連合から進化したものである。中南米では、ゲリラ闘争や農民運動、労働運動の組織が国政選挙を戦い、多くの左派政権を成立させている。こういった世界的な流れと日本の市民運動の動きは、決して無縁とは言えないだろう。
しかし、この世界的な流れと異なることもある。それは野党の共闘を促進させた市民運動の思想的立場が曖昧なことだ。その中心的役割を演じた中野晃一(上智大教授)は、自らをリベラルだという。そしてリベラルと左派の連合を呼び掛けている。上記5団体のひとつで、国会前の抗議行動を主催した戦争をさせない・9条壊すな!総がかり行動委員会の2015年2月のアピールでは、安保法の廃止に「くわえて」「安倍政権の」「原発の再稼働、福祉の切り捨てや労働法制の改悪などによる貧困と格差の拡大、歴史認識の改ざんと教育への国家統制の強化、TPPや企業減税の推進など大企業と富裕層への優遇策」に対抗する「人びとと手をつなぎ」と記している。この中の、ゴシック体の部分は、自由主義のひとつの潮流であるリベラルから発想される問題ではなく、明らかに政治的「左」の平等主義から重要な問題としてとらえられるものである。その「左」と「手をつなぎ」ということは、中野晃一の提唱するリベラルと左派の連合という意味に解釈できる。そしてこの連合が必要なのは、極右化した安倍政権との対決のために連合を組んで対決するためだという。反ファシズム統一戦線のようなもので、確かに、その部分では理屈は通っている。だがしかし、安保法の廃止に直接結びつくわけではない、このような文章を何故あえて挙げねばならないのか?
それは彼らが、安倍政権にとって、極右志向、即ち現憲法前文と9条の平和主義の事実上の否定のみならず、国家主義の推進、国民主権の曖昧化、基本的人権と生存権の否定が何のために必要なのか、本能的に、あるいは感性的に理解しているからだ。極右のこのような志向が誰のための利益なのか、それを本質的に理解しているからだ。だからこのような文章が掲げられているのである。
安倍首相は、TICAD6第6回アフリカ開発会議でアフリカ諸国に総額3兆円規模の投資を行うことを表明した(朝日新聞2016.8.28)。この大規模投資と安倍政権の極右志向は一見何の関係もないように見える。しかし、安倍政権が何のために、誰の利益のために政策を推し進めようとしているのかを考えれば、この関係が分かる。安倍政権の推し進めようとしていることは、安倍版富国強兵なのである。言葉を替えれば、新自由主義と戦前由来の国家主義の結合なのである。(ここで言う新自由主義とは、ケインズ主義とは異なる個別の経済政策のことではない。第二次大戦後の資本活動を制限する福祉社会に向かいつつあった世界情勢から、資本の自由を大幅に拡大させようとする思想的潮流、即ちイデオロギーのことである。)そう考えれば、大規模投資は当然の政策として行われることが分かる。安倍政権にとって国が豊かになることとは、大資本と富者がさらに豊かになることによって、庶民階層はそのおこぼれを頂戴するというトリクルダウン理論に基づくものだ。大資本と富者がさらに豊かになることは、それによって多くの軋轢を生まざるを得ない。それは労働者や農民の反抗を引きだし、また、外国資本との(特に中国資本との)富の分捕り合戦上の衝突が避けられない。そのために、国家主義と軍事力の強化が必要なのだ。安倍政権の政策は、安倍晋三の個人的趣味や好みで作られているわけではない。すべて、整合性のあるもののなのだ。それは、多くの軍事独裁政権が経済発展を政策の第一の目標としたことと歴史的事実とも符号する。(かつての、アメリカに支援されたチリ、アルゼンチン等の軍事独裁政権がその典型例である。)
市民運動が問題にしている政治的制度は、経済システムと無関係どころか、密接に繋がっている。したがって、政治的制度に対する抗議活動は、経済システムをも問題にせざるを得ないのだ。中野晃一は「個人の尊厳」が最も尊重されるべきものだと言う。それはそれとして理解できる。しかし、「個人の尊厳」は政治的制度だけでなく、経済システムにも依拠していることを見逃すことはできない。資本主義システムが生み出す経済格差という不平等や、金のために働かざるをえないという労働が「個人の尊厳」を貶めることを見逃すわけにはいかないのだ。それは、いかなる経済システムなのかを問うことだ。それはリベラルか否かなどという次元の問題ではない。それは明らかに遥か以前からの、政治的「右」と「左」の問題なのである。
主にアメリカからの輸入概念であるリベラルは、アメリカ民主党主流派の基本的立場だということを否定する者は少ないだろう。。そこに、バーニー・サンサースという左派が登場するのは何故なのか? 民主主義的諸制度の問題よりも、最低賃金の引き上げ等経済システムに関する要求を第一に突きつけるのは何故なのか? そこにはリベラルでは解決できない多くの問題があるからだ。リベラルがリベラリズムとまったく同じではないとしても、彼らがジョン・ロールズのような観念的、形而上学的正義に依拠していることは間違いない。それは、資本主義に「強欲な資本主義」と「善良な資本主義」があるという観念的な見方と同じものだ。どちらも同じ資本主義なのである。異なるのは、資本が活動をほしいままにできる環境にあるのか、資本の活動を現実に抑制するシステムがあるかないかなのだ。はっきりさせなければならないのは、「善良な資本主義」を望むなら、資本家の「善行」に期待するのではなく、資本の自由を抑制しなければならないことだ。そしてその政治的立場(資本の死滅という立場も含めて)こそ、政治的「左」なのである。(この政治的「左」とは、日本語の「左翼」が指すものとずれており、英語のlefts,仏語gauches,独語linksに対応する言葉である。)つまり、リベラルは必然的にリベラルにとどまるわけにはいかず、政治的「左」に進化せざるを得ないのだ。
市民運動も問題の真の解決を望むなら、中野晃一がどう考えていようとも、リベラルから政治的「左」に進化せざる得ない。その政治的要求が目指すものが、現実社会をどのように変えていくものなのかを大衆に示すことが必要なのだ。そうでなければ、大衆にとっては高邁な論理でしかない。というよりもむしろ、大衆の生活がどのようになることが望ましいと考えているかが、市民運動側にない筈はない。それは、個々の党派性ということとは別なことだ。より本質的には、人間の生きること全般がどのようなものが望ましいと考えているかを示すことが重要なのだ。それは、立憲主義かどうかなどという問題にとどまることはできない。その先に進んでこそ、明々と灯る「一条の光」なのである。