夏原 想の少数異見 ーすべてを疑えー

混迷する世界で「真実はこの一点にあるとまでは断定できないが、おぼろげながらこの辺にありそうだ」を自分自身の言葉で追求する

「森友・加計学園」問題で垣間見えた安倍自民党政権による支配構造

2017-06-30 13:35:53 | 政治

 安倍政権は、「森友・加計学園」問題での野党とマスメディアの追及をかわすために(また、「共謀罪」の早期成立のために)、国会を閉会とした。その代償として、メディア各社によると内閣支持率の10ポイント程度の下落をこうむったのだが、いずれ忘れ去られうやむやに終わるだろうという目算からか、追及から逃げ切りを図ろうとしている。しかしこの問題によって垣間見えた、日頃表面に出てこないいくつかの問題は、安倍自民党政権の日本社会の支配構造の一部分なのである。

 1.教育への支配

 この問題の核心は、安倍首相個人と親密な関係のある者が、尋常ではない不公正な利益を手に入れたのではないかという、極めて濃厚な疑惑である。親密な関係とは、「森友」の場合には、問題発覚以前においては安倍首相への熱烈な支持者が、問題発覚後は「あんな奴は知らん」と手のひらを返すように首相側からその親交を全面否定されたもので、「加計」の場合は現在でも首相の「お友達」というものである。両者とも学校という教育機関の経営者であり、その思想的傾向には共通性がある。それは、一方の籠池泰典氏は園児に教育勅語を暗唱させていたことや日本会議のメンバーであったこと(問題発生の直後に名簿から削除されている)、他方の加計孝太郎氏は「教科書改善の会」(「新しい歴史教科書をつくる会」の内部分裂により脱退した者の組織した団体)の賛同者名簿に名を連ねていることで明らかのように、国粋主義、排外主義、国家主義というイデオロギー的傾向である。このことは教育に対して極右勢力がかなり浸透しているという一面を表しているが、それは安倍自民党政権による教育基本法の改定など、政治権力による教育支配の実態の現れと言っていい。そのやり方は、「改正」教育基本法2条5号の「わが国と郷土を愛する心」という言葉に代表されるように、穏健な保守層にも理解されやすい表現を使いながら、じわりじわりとイデオロギー支配を図るというものである。制度的には、首長の任命制である教育長など、教育現場を上からの命令によってしばるという体制を作りあげようとしている。これは、以前から行われてきた大学での教授会の権限を大幅に縮小し、学長の権限を強化する動きなどと同様なものと言える。

 2.官僚支配

 この問題の特徴は、安倍首相個人の親密な関係者に対する利益供与が行われたとしても、安倍首相個人が直接要求したとは到底考えられないことである。それは、「忖度」という言葉で分かるように、官僚個人の判断で行われたり、首相補佐官が、首相の親密な関係者を優先するのは当然という「親分思い」や「ゴマすり根性」からの独断で行われた可能性があるからだ。自民党による長期政権が長く続いていれば、官僚は自分の出世のために、政権と近い者に利益を供与して点数をかせぐということは容易に想像できる。「忖度」というよりも、組織の中での「ゴマすり根性」なのである。

 公務員が自民党から選挙に出ることが当然になっているが、公務員がひとつの政党にだけ圧倒的に偏って政治に進出するという状況は世界的にはほとんどない現象である。欧米でも公務員が政治家になるケースは数多いが、個人の政治思想に従い、与野党にわたってかなり分散している。日本の官僚にとっては、他の政党など眼中にないというのが現状なのだろう。

 これらのことは、上級公務員になればなるほど、意識として自民党の一党支配がなされていることを示している。これは事実上の政治任用に近い。欧米では一部の上級公務員は政治任用されるというが制度が確立しているので、ガラス張り、つまり一部の公務員は明かに一政党の一員としての公務員であるのに対し、日本では、あたかもすべての公務員が政治的に中立なものとして見做されるのである。実際には、自民党による政治的支配が確立しているにもかかわらず、である。実際には、「公務員の政治的中立」は下級公務員による野党支持の運動を禁止するためにだけ主張されるのである。

 3.国家戦略特区による新自由主義的政策のゴリ押し

 「加計」問題では、国家戦略特区として獣医学部の新設が認められたのだが、この国家戦略特区なるものは、その民間議員の顔ぶれで分かるとおり目的は新自由主義の推進であり、そのゴリ押しとしか言えないものだ。「岩盤規制を突破」と言うが、規制が必要ないというのなら、その根拠を示し、論理的に説明すべきなのである。しかし、利益に固執する抵抗勢力が存在するという仮想を盾に、論理的な説明をしようとしない。彼らの論理は、すべての規制緩和、あらゆる分野の民営化・商品化という新自由主義そのものなのだが、それを正面から主張すれば反対意見が続出することが予見される。だから、個別の地域に限り、一切の論理的説明なしに「突破」しようとするのである。それはまさにゴリ押しという表現がふさわしい。ゴリ押しであるが故に、その利益にあずかる者は公平に選ばれることはない。政権によるゴリ押し政策は、政権の周囲にいる者が最も早く知ることができ、あるいはゴリ押し政策そのものを政権に提言することができることを考えれば、政権の周囲にいる「首相のお友達」が選ばれるのは当然である。自民党政権とその周囲にいる者との利益共同体が社会に浸食していることを表していると言えるだろう。

 4.メディア支配

 自民党政権とイデオロギー的共通性を持つ読売新聞が、安倍政権にとって都合の悪い「文書」の存在を、あると公言した前川喜平前事務次官に対し、人格攻撃の材料となる報道をした。またこの新聞は、「森友・加計」問題を扱うスペースが、朝日、毎日、日経、東京、その他地方紙と比べ著しく少なく、この問題を大きく取り扱いたくないという意図がが明白である。日頃から極右の論調が目立つ産経新聞に至っては、あたかも、「文書」が「フェイク」であるかのような報道(2017.6.23産経新聞電子版等)を繰り返している。また、基本的な論調が右派的な雑誌やインターネットの極右志向者も、疑惑を報じるメディアを「報道テロ」などと言い出す始末である。本来この問題は、不公平なことが行われたか否かであり、平たく言えばずるいやり方で得をしたのかどうかである。したがって、左右のイデオロギーとは異なる次元の問題のはずである。権力にすり寄り利益を図ろうとする者、それを「忖度」することで有利に扱おうとする官僚、そういう構図があったののか否かの問題である。時代劇で言えば、悪代官と「越後屋」の関係、それがあったのか否かの問題なのである。例え国粋主義者であっても、新自由主義者であっても、ファシストであっても、「ずるいやり方で得をする」行為は、イデオロギー的に正当化できないもののはずだ。あるものをないことにし、白を黒と言いくるめる、それは彼らのイデオロギーから発するものではなく、単に権力の腐敗に過ぎないだろう。むしろ、極右勢力は「ずるいやり方で得をする」者に「天誅を下す」と言うべきだろう。なぜ、中道右派から極右まで多くの右派が、この問題をなかったことにするという主張にくみするのか? それは、読売や産経、その系列の諸雑誌、それにコラムを載せる右派系の「識者」が、自民党政権とのひとつのブロックのような支配構造の一部を成しているからではないのか? 彼らが自民党政権とイデオロギー的共通性を持っているのは当然として、イデオロギーとは直接結びつかない行動を採るのは、支配構造の一部を成しているので、支配構造の弱体化に繋がるものには、拒否反応を示すのではないか。そう解釈すると、彼らの行動は納得できる。

 

5.権力腐敗と情報公開

 今回の問題で、安倍自民党政権は徹底的に情報公開を阻んだ。都合の悪い情報は一切ないことにするという姿勢である。その姿勢を絶対的多数派のおごりだとする意見があるが、それは論理が逆である。おごり以前に、自民党政権は一貫して情報公開には積極的な姿勢を示したことがない。情報公開を拒否することで、権力内部の問題を隠蔽する。そのことが政権を長期化させることに、絶対的多数派に押し上げることに有利に働いてきたのである。「権力は腐敗する。絶対的(absolute)権力は絶対的に(abosolutely)腐敗する」。一連の問題は、やはり、この言葉がふさわしい。

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