夏原 想の少数異見 ーすべてを疑えー

混迷する世界で「真実はこの一点にあるとまでは断定できないが、おぼろげながらこの辺にありそうだ」を自分自身の言葉で追求する

「歴史は民衆と猫がつくります」…いいぞ! がんばれ! 肉球新党

2018-04-24 11:23:58 | 政治

  2.3年前ごろから、安倍政権に対する抗議デモの中に、猫のイラストや写真入ったのぼりやプラカードを見かけるようになった。「肉球新党 猫の生活が第一」ののぼりやプラカードである。「猫の生活が第一」とは、何を言ってるんだ、ふざけるな、とお怒りの面々もあるだろう。しかし、その公式ホームページを見ると『基本理念は、「猫が幸せに暮らせる社会は、人にも優しい」。これをもとに、戦争に反対し、原発にも反対し、動物と人が共生できる社会をつくることを目標としています。ネコ的なマイペース、ユーモア、癒しと和みを基本としつつ、意外とマジメな活動を目指しています』とある。勿論政党ではなく、要するに、ウィットに富みつつ、おおまじめに現行の社会に対して抗議の意思表示をしている市民のグループなのである。2017年12月現在で7200人(匹)の党員(党猫)がいるという。 「歴史は民衆と猫がつくります」とは、肉球新党がツイッターでリツイートしたものの中の言葉であるが、思わず微笑んでしまうものだ。しかし、こういったいくらかのユーモアをまじえた(かつ、おおまじめの)市民運動が今まであっただろうか?

 

アメリカでバーニー・サンダースが大統領選民主党指名をヒラリー・クリントンと争い、かなりの善戦を見せ、今でも、民主党内で大きな影響力を拡大させている。保坂展人氏が「バーニー・サンダースの言葉は、なぜ魂をゆさぶるのか?」とブログで書いているが、サンダース陣営の特徴的なことは、インターネットなどでサンダースの演説を5分程度の動画としてまとめ、いつでも見られるようにしていることだ。その演説も徹底して具体的で分かりやすく、視聴者の心に届くような言葉を駆使している。また、英国労働党の支持率を押し上げたジェレミー・コービンも、同じように数多くの演説を行い、それを動画で流している。そこでは、音楽や光の映像効果さえ活用している。両者に共通しているのは、若者を中心に熱狂的な支持者がいることであり、その支持者たちが、一般大衆にとてつもない熱意を持ってサンダースとコービンの言葉を伝えている。さらに言えば、フランスの大統領選で20%近くの得票率を得たジャン-リュック・メランションも演説で心に響く言葉を使い、音楽や視覚的効果までも計算に入れて、聴衆を魅了することに力を入れている。しかし、これら3人の政策的な主張は、実際には従来の左派のものと大きな違いはない。例えばサンダースは富裕層への課税強化や一般民衆の医療制度の改善などだが、典型的な左派の主張に見られるものである。では何が違うのかと言えば、運動スタイルである。これら3者に共通しているのは、上記のこと以外では、ひとつは左派であることを隠さないことであり、もうひとつはポピュリストと呼ばれることを厭わないことだ。

従来の左派は、常に中道寄りの政策を前面に押し出すこと、「右へ翼を広げる」ことで多くの支持者を獲得しようともくろむ。このやり方とは上記の3者は正反対である。サンダースは社会主義者であることを隠さないし、コービンもメランションも欧州メディアで[hard left]強固な左派(日本のメディアは単に極左と訳しているが、極左extreme leftとは異なる)と呼ばれていることが、それを表している。このことは、ふたつめのポピュリストと呼ばれることを厭わないことと関係している。それは、ポピュリズム批判がおうおうにして、政治的中道から見た左右に対する非難に過ぎないからだ。左または右の主張すること自体がポピュリズムだと言っているに過ぎないからだ。(アメリカメディアが左右のポピュリストという場合、右がトランプで左がサンダースである。)だからこそ、メランションにいたっては積極的にポピュリズムを使用すると公言しているのだ。

ギリシャのシリザ、スペインのポデモスも若者を中心にして支持を拡大させている。これらもメディアが新興左派と呼ぶように、運動スタイルが従来の左派と大きく異なる。ポデモスのパブロ・イグレシアスは「政治は何が正しいかということと関係ない。成功することがすべてだ」と言い放つ。このような発言は従来の左派どころか、いかなる政治的立場からもなかった言葉だ。何が正しいかより、勝つためには何をすべきか、という運動スタイルなのである。運動スタイルが今までとまったく違うからこのような言葉が生まれるのである。

欧米ではこれらの新しい運動スタイルが生まれ、勢力を拡大させている。これらの運動スタイルを日本でそっくりまねをしても、政治的な状況が異なるので、必ずしもうまくいくとは限らないだろう。しかし、日本の市民運動も民衆の側に立とうとする政党も、あまりにもその運動スタイル、闘争スタイルは相も変わらず従来どおりである。何十年もこのような運動スタイルで、結果は相も変わらず、少数派である。安倍政権の支持率が下がったと言うが、対する野党の支持率はまったく上がらない。自分たちは正しいのだから、いつかみんな受け入れてくれるだろうと思っているのかもしれない。しかし、いくら正しいことを主張していても、それが多くの民衆に浸透しない運動スタイルならば、支持など得られるはずもない。日本の社民党のホームページで記されている主張を知っている者が何人いるのだろう。社民党と言えば、相も変わらず憲法を守れと言っているだけ、という理解しかされていない。それも、一般民衆に現憲法の特色が理解されているとは到底思えない状況で、である。

そんな中で「肉球新党」は、従来の市民運動と主張は同じだが、運動スタイルが著しく異なる。とにもかくにも、従来どおりでは運動の拡がりは小さいのだから、別の新しいやり方、スタイルを試行錯誤してみるほかはないのだ。

どんな優れたものも売り方がへたなら、売れない。どんなつまらないものでも、売り方が上手ならそこそこ売れる。政治は商品ではないが、この理屈は共通しているのだ。

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「保守」勢力はなぜ、安倍政権を擁護するのか?

2018-04-13 12:34:00 | 政治

森友・加計問題で安倍政権が窮地に陥るなか、「保守」勢力は依然として政権擁護を続けている。ここでいう「保守」とはマスメディア用語であり、適切な表現としては極右と言うべきなのだが、朝日新聞をはじめ多くのメディアが愚かにも「保守」と呼称している。「愚かにも」というのは、「保守」という言葉が思想的な保守主義でもなく、国語的な現状を維持するというような意味での保守でもなく、まったく意味をなさないからである。これは英国の保守党とメディアが言う「保守」とはまったくかけ離れていることをみればよく分かる。メディアが言う「保守」とは、排外主義者、国粋主義者、国家主義者であり、単に極右という言葉の言い換えに過ぎない。

その「保守」勢力の「論壇」には、「正論」「諸君」「will」「Hanada」などがあるが、共通して安倍政権を擁護している。例えば、 森友・加計問題を「正論」は官僚の堕落の問題として扱い、「Hanada」は朝日新聞の「偏向」と結び付けて「朝日は絶対につぶさなアカン」(百田尚樹)などと書いている。こういった主張が堅固な自民党支持層や「ネトウヨ」の目にとまり、右派の安倍政権支持を支えているもののひとつとなっていると考えられる。(他には「森友・加計問題より重要な日本の課題があり、野党がそれを取り上げないのは間違いだ」という主張もある。確かに、重要な課題は数多い。しかし、森友・加計問題は不当な国家権力行使の問題であり、それが解決しなければ先には進めないと考えるのが自然であり、他に重要な課題があるからこそ、速やかに安倍政権は間違いを認めろと言う論理を展開すべきだろう。結局のところ、安倍擁護論に過ぎない。)

しかし最も重要なことは、これら「保守」の根本的な思想からは、森友・加計問題に関する限り安倍政権擁護の結論が導き出されるとは到底考えられないことだ。問題になっているのは、森友は国家財産の不当廉売であり、加計は教育を商売のネタとする御用商人に不当な便宜を図ったことである。それに携わった官僚たちも、不当だと認識いるからこそ、改ざん・隠蔽せざるを得ないのである。これらのことがらは、「保守」つまり極右の思想からも絶対に容認できないもののはずだ。政治権力を握ればどんな汚いことをしてもいいなどどいう考えは、極右の思想から導き出されるとは考えられない。森友・加計問題は、近代以降の政治的立場である「左右と」は別の次元、つまり右であれ左であれ容認できないことなのである。ではなぜ、「保守」すなわち極右勢力は自らの思想に反してまでも、安倍政権を擁護するのか? それには、次の推論が成り立つ。

「ネトウヨ」は、国会周辺の抗議デモを「パヨク(左翼の意)のジジババだけが叫んでいる」とネット上で度々書いている。このことは「ネトウヨ」が今回の問題を、左派からの攻撃と捉えていることを示唆している。「Habada」が朝日新聞と強引に結びつけるのも、朝日新聞等による攻撃と捉えていると考えられる。つまり、「パヨク」や朝日などの一定の勢力が攻撃しているのだと捉えているのである。

森友・加計問題は、政治的思想的立場とは無関係の、不当なことが行われた否かの問題であり、産経新聞も読売新聞もしぶしぶではあるが、報道せざるを得ないものだ。政治的な立場が関係しているのは、森友は問題発覚前は国家主義を教義とする学校であり、加計は教育医療に商業ベースを持ち出すという新自由主義に基づく戦略特区なるものから来ていることである。確かに、これらのことは、「左右」によって立場が異なる。しかし、「不当」な行為は「左右」に関係なく「不当」である。それにもかかわらず、「パヨク」や朝日などによる攻撃だというのは、攻撃されているという客体である「自分たち」が存在していると認めているからである。つまり、安倍政権と「自分たち」がひとつの運命共同体を形成していることを明らかに意識しているのである。

自民党が全体的に右傾化(適切な表現としては極右化)しているのは、「保守論壇」に代表される極右勢力が自民党の支持勢力としての役割を大きなものにしたからと考えられる。日本会議や神社本庁が巨大な力を有するようになったことがそれを表している。そこには、日本の右派全体が巨大なかたまり、巨大な勢力としての運命共同体になっている姿がある。その運命共同体の頂点に安倍政権は立っているのである。

いかなる理由であれ、安倍政権という頂点が崩れると自分たちの運命共同体が弱体化する。したがって、どんな不当なことを安倍政権がしたにせよ、守らねばならない。「保守」はそう考えているのではないか。それは、アメリカがかつてチリのピノチェット政権など中南米の軍事独裁政権を支援したことを、アメリカの「自由民主主義者」たちは黙認したことと共通する。「自由民主主義」の理念からいって、軍事独裁政権を支援することは思想に反する。それでも、「自由民主主義」の敵であるソ連の味方の社会主義者を殲滅するために、軍事独裁政権支援を黙認する。世界の「自由民主主義」勢力を守る、そのためには不正、不当を黙認する。そのことと同じなのではないのか。(アメリカが軍事独裁政権を支援したことは、ヨーロッパのメディア、例えば英国BBCなどでは誰もが事実として受け止めといることとして報道されている。)

自民党は、一度政権を手放し、民主党政権という大ざっぱに言えば中道政権ができた。その中道路線に対し、自民党は右旋回を鮮明にした。アベノミクス等の徹底した新自由主義、軍事力の増強と国家主義をもくろむ改憲がそれである。そこには、「保守」の力が強く影響している。「保守」にとっては、徹底した新自由主義、軍事力の増強と国家主義という「大いなる」目的が大事なのであって、「多少の」不正義には目をつむる。彼らがそう考えていると推論しない限り、彼ら「保守」の安倍政権擁護は説明がつかないのである。

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