夏原 想の少数異見 ーすべてを疑えー

混迷する世界で「真実はこの一点にあるとまでは断定できないが、おぼろげながらこの辺にありそうだ」を自分自身の言葉で追求する

極右歴史修正主義者による「朝日バッシング」 その意味するものは何か?

2014-11-10 13:08:54 | 政治

 朝日新聞(以下、「朝日」と表記する)が、二人の吉田氏に関する記事を誤報と認め、謝罪した。ひとつは、いわゆる「従軍慰安婦」の問題であり、もうひとつは原発事故直後の東電内部の状況に関する記事についてである。これら二つの誤報に対し、この機に乗じて(まさに「乗じて」という言葉がふさわしい)極右歴史修正主義者たちが、小躍りするかのように喜び、朝日に総攻撃を開始した。もちろんそれは、原発の問題よりも、「従軍慰安婦」に関して、である。

<極右歴史修正主義>

 極右歴史修正主義者とは、かれらのイデオロギーに基づき、近現代史の定説を覆そうと画策する者たちのことであり、具体的には、ドイツでは、「アウシュビッツ強制収容所はソ連の陰謀であり(映像はラーゲリのもの)、実際には存在しない」、日本では、「南京大虐殺は通常の戦闘行為」などと主張する者たちのことである。かれらの主張は必然的に、第二次大戦前のファシズムないしそれと類似する体制を擁護するだけではなく、植民地主義をも擁護するものであり、「基本的人権と人間の尊厳及び価値と、男女及び大小各国の同権」という国連憲章の精神を根源的に否定するものである。

<日本では>

 日本以外では、かれらは政治的にファシストやレイシストの集団と見做され、かれら以外の右派からは、完全に孤立しているのであるが、日本では、首相そのものが極右歴史修正主義者であることから分かるように、右派の多くは歴史修正主義の流れに乗り、マスメディア、出版物も含め、世界からは突出した状況となっている。

 日本において極右歴史修正主義がこのように大きな流れとなったのは、戦前、戦後の関係が、ドイツやイタリアと異なったものになったことが大きな要因だと考えられる。日本においては、第二次大戦後、天皇制が「統治するもの」から「象徴」へ変わったといえ、温存されたことが、まさに、その象徴的なことである。ドイツやイタリアでファシズムやナチズムが完全否定されたにもかかわらず、日本では「戦前」を部分的に継承していると言える。「大日本帝国」を日本人自ら全面否定したわけではなく、かれらが言うように、民主主義は「押し付けられた」ものである。憲法をアメリカから「押し付けられた」と極右は主張するが、かれらにとって「押し付けられた」のは、日本国憲法の理念、すなわち民主主義そのものである。民主主義は、日本においては、勝ち取ったものではない。したがって、民主主義は日本人全体に馴染んでいるとは到底いえず、何かを契機として、民主主義とはかけ離れた「大日本帝国」がすぐに頭をもたげるのはむしろ自然な現象だろう。中国・北朝鮮・韓国と対峙する情勢の中で、「大日本帝国」の原理に共感を覚える者が増大するのは、想像に難くない。安倍首相の「戦後レジームの脱却」が、これらの文脈から考えれば、戦前回帰であるのは誰の目にも明らかだ。

 日本の極右歴史修正主義が靖国神社と強く結びついているのは、遊就館2階にある解説文がよく物語っている。そこには、「日露戦争の勝利は、世界、特にアジアの人々に独立の夢を与え、多くの先覚者が独立、近代化の模範として日本を訪れた。 しかし、第一次世界大戦が終わっても、アジア民族に独立の道は開けなかった。 アジアの独立が現実になったのは大東亜戦争緒戦の日本軍による植民地権力打倒の後であった。 日本軍の占領下で、一度燃え上がった炎は、日本が敗れても消えることはなく、独立戦争などを経て民族国家が次々と誕生した。」と記されている。明治以降の戦争の侵略性を否定する言説で溢れているのであるが、あたかも、日本軍は欧米の軍隊とのみ、戦闘をしたかのように記述するのは、都合の悪いことはなかったことにするという歴史修正主義者の論法の際立つ特徴のひとつである。

 日本の極右歴史修正主義が表舞台に登場するのは、藤岡信勝らの「自由主義史観」を標榜する「新しい歴史教科書をつくる会」からであるが、藤岡は教育学者であり、歴史学者ではない。また、極右歴史修正主義の先兵の役割をはたしている、櫻井よしこ、百田尚樹、花田紀凱らや週間新潮、週間文春、読売新聞、産経新聞等も、近現代史の研究者でもなければ、専門誌でもない。この者たちは、多くの近現代に関する文献や資料を読み解いて、南京虐殺や「従軍慰安婦」が「なかった」と言っているわけではない。ナチスが「アーリア人」の優越性を研究の末、結論付けたのでないのと同じである。ナチスにとって都合がいいので、抵抗できない学者を動員して、優越性なるものを主張だけなのである。ナチスと同様に、かれらにとって、「なかった」ことは、既に結論としてあるのであり、その結論に合わせて都合のいい言説だけを取り出しているのである。なぜならば、「自由主義史観」等のかれらのイデオロギーにとって、旧帝国軍を汚すことはあってはならないからである。だから、朝日の吉田証言の虚偽性のみを取り上げ、「慰安婦」そのもがなかったというお得意の論理を組み立てているのである。これは、靖国の遊就館の論法と同じなのは言うまでもない。(したがって、実際の現代史研究者である秦郁彦氏などとは、別個に考えるべきなのである。研究の結果として、「なかった」というのは、研究者間で批判されるにしても、決して非難されるべきものではない)

 【注】彼らの論法の例:読売新聞の場合

 社説(2014.8、6)で、『「強制連行の有無」が慰安婦問題の本質であり』、『政府は調査をしたが、裏付ける文書は発見できなかった』。さらに、朝日の誤報により、「なかった」とは明らかと主張し  ている。しかし、「強制連行の有無」も慰安婦問題の一部に過ぎないのであり、まして、日本の政府は「関係者」であり、「文書がなかった」からというのは、犯罪者自らが証拠を見つけられなかったから、と 言っているのと同じである。そこにあるのは、多くの要素の中で、一部が否定されるから、全体が否定されるという論理に過ぎない。社説の文面にも、『国連人権委員会』の『クマラスワミ報告は吉田証言 も一つの根拠』と、部分的であることを認めているのにもかかわらず、である。もはや、支離滅裂という外はない。こんな論理が誤りなのは、おそらく社説を書いている本人が真っ先に気づくことであろう。冷静な判断力があれば、の話しだが。

 こういった極右歴史修正主義者の妄言に基づいて、安倍政権や極右メディアは朝日を攻撃している。これは、攻撃であって批判ではない。支離滅裂の論法は批判という言葉に値しないからだ。

日本の極右歴史修正主義は海外では?>

 そういった特殊な日本の状況を海外はどう見ているのか? ニューヨークタイムズ2014年3月2日の社説は「安倍氏の危険な修正主義(Mr.Abe’s Dangerous Revisionism)」と題し、「安倍晋三首相の売り物となっている国粋主義は、日本の米国との関係に対する、かつてないほどの深刻な脅威となっている」。「安倍氏は日本の戦後文化を語る前に、戦争の歴史も歪曲している。彼と他の国粋主義者たちは1937年の日本軍による南京大虐殺がなかったといまだに主張している。先週の金曜、彼の政権は、日本軍によって性的奴隷状態を強制された朝鮮半島の女性たちへの謝罪を再検証し、場合によっては取り消す計画を語った。さらに安倍氏は、有罪判決を受けた戦争犯罪人たちを含む日本の戦死者に名誉を与える靖国神社を訪問することは、国のために命を犠牲にした人々に敬意を払うことに過ぎないと主張している」(Peace Philosophy Centre約)と記している。また、ワシントンポストの社説(2014.2.28)も「(靖国参拝によって)安倍氏は自分の掲げる政策と戦前の帝国への懐古を結び付けているように見える」、独フランクフルター・アルゲマイネ・ツヮィツンク社説(2014.2.26)「日本が過去の罪を反省していない」、南ドイツ新聞社説(2013.12.9)「仮面を脱いだ安倍」、また、仏ル・モンドも「憎悪を保つ技術について」と題し、百田尚樹の「南京虐殺はなかった」という発言を批判している(Web「内田樹の研究室」より)。これらの海外紙は中道右派ないし、中道左派の立場に立っているが、その国の大まかな論調を代表している。つまり、安倍首相の歴史修正主義的言動は、欧米でも批判的に捉えられているということである。最近では、ニューズウィーク日本版で、冷泉彰彦が『朝日「誤報」で日本が「誤解」されたという誤解』(2014.9.18)というコラムで、『「事実関係の訂正キャンペーン」を強化すれば「日本軍の従軍慰安婦という問題を初めて知ることになる」人を増やしてしまうだけです。そうした人々が「なるほど人身売買であって民間主導の経済行為だったのだ」と「理解」を示して「ポジティブな印象」を持つ可能性はゼロだと思います』、『国際社会は「激しく日本批判をするような面倒なこと」はせず、むしろ日本を軽視したり無視したりするだけでしょう。というのは「慰安婦問題に関する事実関係の訂正をしたい」という日本の意向が「全く理解できない」からです。反発する以前に「理由が分からない」ことでの違和感、不快感がひたすら深まるだけだと思います』と書いている。冷泉のこのコラムは、すべて同意できるわけではないが、歴史修正主義の主張を繰り返すことは、安倍政権の国際的孤立を演出することにしかならないという、海外の世論だけは反映していると言える。結論的に言えば、日本の極右歴史修正主義は海外には決して通用しないということだ。

<では、なぜ朝日を標的とするのか? >

10月30日に、安倍首相は新聞各紙に載った「撃ち方やめ」発言を、朝日だけを名指しして捏造だと非難したことから分かるように、安倍政権が朝日だけを標的としているのは明らかだ。ではなぜ朝日だけを標的とするのか? それは政権側が叩きたい勢力の代表として、朝日を選んでいると考えれば、納得がいく。数年前に自民党の加藤紘一が、テレビで「読売、産経は自民党の応援をしてくれているが、朝日、毎日は手厳しい」と素直に語っていた。これは、各新聞社の自民党政権に対する立場を表した言葉だ。最近でも、朝日、毎日、東京の3紙は、「集団的自衛権行使への閣議決定」に批判的だったが、読売、産経は賛成論を展開した。また、原発の再稼働にも、3紙は批判的だし、NHKの理事である極右の百田尚樹と長谷川三千子を批判したのは、在京紙では、朝日、毎日、東京の3紙である。安倍政権としては、3紙とも叩きたいところだが、その中のひとつを選んだ方が効果が高く、朝日だけが言っていることというイメージを与えれば、嘘も正しい印象を少しは増すことになる。

さらに言えば、朝日だけを叩くのには、朝日には他の新聞と異なるものがあるからだ。

数十年前に、嫌いなもの、胡散臭いもの、鼻持ちならないもの(臭気が我慢できないということから出た言葉)に、「朝日、岩波、東大」というものがあった。知識人という言葉がマスメディアでしばしば使われた時代のことである。その頃は、知識人はどちらかと言えば、イメージは「左」であり、それらを嫌う一般大衆の層から出た「左」の知識人の象徴としての「朝日、岩波、東大」という意味である。もちろん、この三つが真に知識人を代表しているということではなく、「左」の知識人に対する単なるイメージなのであり、嫌う者にとっては、「知識をひけらかす厭な奴ら」というような感情を抱かせる代表的なものということだ。では、嫌う者とはどういう人びとか?

それは、現状の不満を、反エリート(選良)、反知性、反中央の感情を爆発させることで満足感を得る人びとである。現状の不満が、エスタブリッシュメント(既成勢力、既得権益を持つ層・体制)に対する反発を生む。「朝日、岩波、東大」もエスタブリッシュメントの一部であり、「知識をひけらかす厭な奴ら」という感情を生むのである。

これらの人びとのことを別な言葉で言えば、ポピュリズムで動かされている人びと、と言える。「政治統合体の外部においやられており、教養ある支配層から軽視され見くびられている」(バーナード・クリック「デモクラシー」岩波書店)と感じている人びとのことである。その「教養ある支配層」が「朝日、岩波、東大」に象徴されるわけである。ポピュリズムとは「ある種の政治とレトリックのスタイルのことである」(同)が、それを発している政治勢力は、この場合には「右」であり、その「右」の勢力が「レトリック」を使用しているのである。

しかし、東大が「左翼教授の牙城」であった時代は昔の話しで、今やほとんどアメリカ帰りの右派で占められており、岩波も雑誌「世界」は、書店の片隅にしかない。残るは、読売に次ぐ発行部数のある朝日だけである。

【注】

2014年上期 主要紙発行部数 読売960万部、朝日740万部、毎日330万部、日経280万部、産経160万部 (日本ABC協会調べ)

だから、朝日だけを叩くのだが、それが上記の「右」のポピュリズムに即しており、「大衆受け」するからなのである。一貫した「右」とまでは言えない週刊現代(最近になって、こういった歴史修正主義の主張が世界から批判されているとした記事を掲載した)や週刊ポストが、朝日攻撃の特集を組むのも「大衆受け狙い」のせいである。

安倍政権が自分たちに同調しないマスメディアの一部を叩くというのは、彼らの政党名にもある「自由民主主義」に反するのは明らかだが、それほどまでのことをしなくてはならない理由がある。自民党は国会の議席数では圧勝しているが、選挙の得票率では圧勝どころか、前回の総選挙の得票を割っているのである。議席数で圧勝しているのは、野党の票の分散とそれによる小選挙区制度のおかげである。これ以上自民党支持層を減らすわけにはいかないのだ。だから、いかなる手段を使ってでも、自分たちに同調しない勢力を弱めようとする。自民党支持層の中一部である極右勢力をも手放すわけにはいかないのだ。靖国参拝は日本遺族会の要請でもあるし、海外にはまったく通用しないと分かっていても、「歴史修正主義」の主張を、少なくとも国内向けに、しないわけにはいかないのだ。戦争批判を許さない、戦前の体制をそのまま継承している地方の政治ボスや「ネトウヨ」までも、味方に引き留めないわけにはいかないのだ。

そして、それはかなり成功しているように見える。朝日の狼狽ぶりがそれを表している。そもそも、二つの誤報はそれほど複雑なものではない。いびつな功名心から「ストーリィ」を作り上げ、ジャーナリズムのイロハであるその裏取りを怠った。さらに、それを放置したことによるものだと考えられるからだ。性質の悪さから言えば、珊瑚を自分で傷つけ公徳心を嘆いた記者の方が悪質だろう。攻撃されるのは、誤報が政権側に都合が悪いものだった、ということに過ぎない。第三者委員会の必要性など理解し難いことだ。しかし兎にも角にも、恐らく、朝日は右傾化するだろう(朝日は経済欄では、既に完全に「右」の立場に立っているが)し、マスメディア全体が、政権批判には慎重になるだろう。言ってみれば、「右」へ「右」へと草木もなびく、そういう時代を象徴する出来事でもある。

<しかし、問題はそれだけではない>

日本の右派がすべて極右歴史修正主義者だというわけでないのに、なぜ、右派はこぞって「歴史修正主義」の立場に立つのか、という問題である。たとえば、ドイツの中道右派政党であるCDUが、「アウシュビッツはなかった」などと主張することは絶対にありえない。それがなぜ、日本では、自民党全体が極右に属しているわけではなく、また、産経はさておき、論調が中道右派の立場に立っている読売が、「歴史修正主義」の立場に立つのか? 確かに、先に述べたように、日本では「戦前」が完全に消滅したわけではなく、ゾンビのように度々生き返るという理由が考えられる。また、読売の場合は競争相手の朝日を、商売上の理由からとにかく攻撃するということはあり得ることだ。しかし、それだけではないだろう。

それは、やはり「自由民主主義」の欺瞞性によるものだろう。政権側が、自分たちにとって都合の悪い新聞社を攻撃する。競争相手の新聞社も政権側を支持しているので、同じように攻撃する。意見の異なる新聞社を廃刊にしろまでという人間(桜井よしこ)の意見を、競争相手の新聞社は好んで載せる。こんなことが、「自由民主主義」の建前に完全に反するのは、誰の目にも明らかだ。

「自由民主主義」の守護神であるアメリカが、中世的専制支配国家であるサウジアラビアに軍事基地を置き、軍事支援を行っている。サウジアラビアは、政党をつくることすら禁止されている国家にもかかわらず、である。サウジアラビアでは、アメリカの共和党にしろ、民主党にしろ、その存在自体が許されないにもかかわらず、である。かつ、それに対し、アメリカの「自由民主主義者」は、公に疑問すら呈さないのである(サウジアラビアの地方議会が民主主義の進歩だという、愚かな意見はあるが)。

日本もアメリカも同じようなものだということだ。判断の基準は民主主義かどうかなどではない。どちらが、自分たちの利益に供するか、味方は味方、敵は敵ということだ。敵にまわれば、どんな手を使ってでも攻撃する。今回の場合は、歴史修正主義という愚かな主張を使ってでも、攻撃する。攻撃する右派にとっては、歴史修正主義の真偽などには、本音では興味はない。攻撃できる材料であれば、真偽などどうでもよいのだ。詰まるところ、かれらの掲げる「自由民主主義」というイデオロギーは、本来の自由や民主主義とは別のもので、ご都合主義そのものなのである。

岩上安身責任編集 – IWJ Independent Web Journalwidth="234px"/>

 

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