核搭載中距離弾道ミサイル(米軍)
日本の世論は、軍事力強化の方向に大きく傾斜
やはり、という感が否めない。「核共有」の議論をすべきという意見が、3月19日毎日新聞系調査で57%、ANN調査で53%に達したという世論調査結果が発表された。核共有Nuclear Sharing とは、もともとNATOの核抑止政策における概念で、NATOの核兵器を、自国の核兵器を持たない加盟国が共同で使用することである 。それを「米国の核兵器を同盟国内に配備し、核兵器を共同で使用する政策 」(防衛省防衛研究所高橋杉雄)とアジア版に置き換えたものである。
「核共有の議論をすべきだ」とは、言い換えれば、「それが必要だ」か、「必要かもしれない」という意見、ということだろう。「核共有」が不要という意見なら、「議論をする必要なし」になる。つまり、アメリカの核兵器を日本も使用して、日本を守る「必要がある」、または、「必要かもしれない」が、50%以上あったということである。
この結果に、驚く人がいるようだ。「あれだけ、ロシアの侵略に反対する声が高まっているのに、おかしい」という具合に、である。しかし、理屈が逆である。「ロシアの侵略に反対する声が高まっている」から、「核兵器も必要(かもしれない)」という意見も増えるのである。
「侵略に反対する」とは、多くは「侵略すべきでない」ではなく、「侵略されたくない」という気持ちの現れである。もとより、自国の「侵略」を肯定する意見など、皆無に等しいからだ。
また、「戦争反対」といっても、もともと「戦争賛成」などという者はほとんどいない。それは「地球は丸い」と言っているようなもので(アメリカには「地球は平たいsquare」と信じる人が数百万人いるという報道もあったが)、当たり前のことなのである。問題は、「戦争反対、だからどうするのか」なのであって、ここで意見が大きく分かれるのである。その分かれ目に、日本の世論は、軍事力強化の方向に大きく傾斜したのである。
1960年代に、「平和のための自衛隊博」というイベントが日本各地で開催された。自衛隊の所有する戦車、戦闘機、重小火器類を来客に触らせ、載せ、火器類や火炎放射器、戦車による演習を見せ、国民に親しみを持たせるというものである。要するに、日本の平和を守るために、軍事力は必要で、それを理解して欲しい、ということである。
恐らく、これに携わった自衛隊員も防衛庁(当時)幹部も「平和のため」という言葉を、そのまま信じていただろう。そしてそれは、今でも変わらないだろう。その「日本の平和を守るために、軍事力は必要」の論理が、ロシア・ウクライナ戦争によって、必要な軍事力の強化に大きく舵を切ったのである。
核共有は、核抑止力によって、敵対関係にある国からの、「侵略」を防止するという意味を持っている。核抑止とは、相手国と自国双方の核均衡論だけでなく、核兵器を使用する能力と使用する意思を相手国に示し、相手国からの「侵略」を防止するということである。通常兵器だけよりも、こちらの方が強力な「侵略防止効果」があると主張される。現実に、冷戦時代には、ワルシャワ条約機構軍の機甲部隊の方が、NATO軍より優勢だと考えられたため、ワルシャワ条約機構軍の侵攻すればその報復に、通常兵器だけでなく、核攻撃も辞さないというアメリカ軍の意思を示すことで、侵略を防止しようとする政策があった。そしてそれは今でも、継続している。読売新聞の記事「米が核『先制不使用』宣言せぬよう、日英仏など水面下で働きかけ…抑止力低下を懸念」(2021.11.2)のように、アメリカが、核の先制使用(核攻撃を受けなくても、核を使用するという意味)を排除しないのは、このためである。
核兵器を通常兵器とは「本質的に」異なるとして、核兵器だけに反対するという意見もあるが(「本質的」が意味するものは不明。第二次大戦時ですら、東京やドレスデンの空襲のように、通常兵器で一晩に10万人以上も殺害できるのである。現在の通常兵器はさらに殺傷能力は高い。通常兵器で殺されるのは、核で殺されるより苦しみは少ないと言っているようなもの。広島・長崎は地獄だったが、東京は違うと言っているようなもの。放射能の問題はあるが、両方とも「この世の地獄」であることに変わりはない。)、核兵器は通常兵器の延長線上にあるのであり、軍事力の強化は容易に核兵器保有に結び付く。それは、インド・パキスタンが敵対関係から両者ともに軍事力の強化に走り、両者とも核保有国になったことでも理解できる。日本の平和を守るための軍事力の強化、それには核兵器も含まれるかもしれないとまで、世論は傾斜しつつあるのである。
メディアの報道姿勢
このような「平和のための軍事力の強化」に世論が傾いたのは、主要マスメディアのウクライナ侵略の報道の仕方が大きく影響している。それは、ロシア・ウクライナ戦争を、それ以前のウクライナの状況や西側の方針と、切り離して報道する、というメディアの姿勢である。
日本のテレビ・新聞がそのように報道するのは、勿論、日本が独自の報道姿勢をとっているからでなく、欧米の主要マスメディアがその姿勢で報道していることをそのまま受け入れているからである。だから、ヨーロッパ諸国も軍事力の強化に乗り出しているのである。日本は、その影響をもろに受けているのである。日経新聞は「タブーでない防衛産業投資」という英紙フィナンシャル・タイムズの記事を転載している(3月21日)が、ヨーロッパ諸国が「防衛」という名の軍事力の強化に傾斜していることの証左でもある。
欧米も日本もメディアも、NATOの東方拡大を記事にすることをなるべく避けている。それはあたかも、ロシア・中国のプロパガンダのような扱いになっている。しかし、これこそが、軍事力によってロシアを抑え込もうとした政策の核心部分である。ソ連の崩壊時には、欧州安保協力機構OSCEのように欧米はロシアと共同の安全保障政策を模索した時期があった。しかしその後、アメリカのクリントン政権は、NATOの東方拡大という力によるロシアの封じ込め政策に転換したのである。それが、プーチンならずとも、ロシア側の反発を呼び起こしたのである。それは、決してプーチンの命じた侵略行為を1ミリたりとも正当化するものではない。相手方の武力を見せつける行為に対処するには、さまざまな対策が考えられ、軍事侵攻という選択は必要ないどころか、かえってロシア自身も周辺国も甚大な被害をまぬがれないからである。
だがかつて、ジョージ・ケナンが指摘したように、力による外交政策には相手国の「世論の国粋主義的、反欧米的、軍国主義的傾向を煽る 」懸念がある。このような意見を主要マスメディアは、テレビは無視するか、新聞ならば紙面の片隅においやるか、大きくは取り上げようとせず、ロシア100%悪玉論だけ一色の報道をしている。(例えば、リベラル右派と思われる朝日新聞には、またく掲載されていない。)これでは、力によって平和を守るという世論が形成されるのは当然である。ロシアと中国を同一視しているので、日本では、悪玉中国が侵略してくると心配する。それを力によって、つまり通常兵器の先の核兵器に頼っても、日本の平和を守るという世論が沸き起こっても当然なのである。