夏原 想の少数異見 ーすべてを疑えー

混迷する世界で「真実はこの一点にあるとまでは断定できないが、おぼろげながらこの辺にありそうだ」を自分自身の言葉で追求する

<再び>「ネトウヨ」に象徴される「保守」勢力に未来はあるか?

2014-02-22 00:53:28 | 日記
岩上安身責任編集 – IWJ Independent Web Journalwidth="234px"/>

 佐藤優や内田樹が「反知性主義」に警鐘を鳴らしていると、朝日新聞は報じている。朝日によれば、佐藤優の「反知性主義」の定義は「実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度」だそうだが、「ネトウヨ」そのもや、かれらに影響を与えている一部の人たち(評論家、小説家、政治家といった著作や雑誌等で見解を表明できる人たち)は、確かにそう言えるだろう。当たらずと言えども遠からず、である。それは、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」を思い出させ、今の日本はファシズムに向かいつつあるのではないかと危惧するのも、あながち無理はないと思わせる。朝日だけではなく、「毎日」や「東京」の各新聞社の投書欄でも、主に秘密保護法に反対する主旨の投稿に、「戦前」への回帰を危惧する意見が散見される。歴史は繰り返すのではないか、という危惧である。

 阿部首相の靖国参拝に、アメリカ政府は「失望」という言葉で批判を表明した。「失望」とは、日本語の意味するものよりも、この場合、強い懸念を表わす言葉らしい。「戦後レジームからの脱却」と安倍首相が就任以来言っているが、それに対しては、アメリカ政府の反応は、特になかったのにである。それは、次のように解釈すれば理解できる。日本政府がどのような主張をしようとも、それがアメリカの実利に損失を与えなけれな黙認するが、そうでなければ断固批判する、というものだ。つまり、阿部首相の靖国参拝は、中国・韓国との摩擦を引き起こし,アメリカのアジア戦略に悪影響を及ぼすというものだろう。悪影響とは、アメリカの実利に損失を与えるということだ。アメリカの最大の貿易相手国が中国なのだから、不必要な摩擦が国益に反するのは当然のことだ。勿論、それは日本の企業にとっても不利益と言えるが。

 かつて、アメリカは「左右の全体主義」に勝利した。ドイツ・イタリア・日本のファシズムないしそれに類似する体制を、戦争という多くの犠牲によって打ち破った。「共産圏」はソ連を始め自ら崩壊したが、「共産圏」との戦争である朝鮮やベトナム戦争でも戦死者だけで数万人の犠牲を出している。では、アメリカは何のために闘ったのか? その闘う理念は何であったのか? それは、言うまでもなく、自由民主主義である。この自由民主主義が、アメリカの資本制システム(capitalism)の支配的イデオロギーなのである。イデオロギーという言葉が嫌いなのであれば、単に資本制システムの正当性を表現する理念だと言ってもいい。

 アメリカの自由民主主義が二枚舌ではないかという批判がある。それはたとえば、冷戦時に、中南米の軍事独裁政権を支えたり、現在でも、宗教的専制支配国家であり、政党も禁止されているサウジアラビアと友好関係にあり、軍事基地を置いていることなどから言われることである。独裁は許せないとイラクを攻撃(大量破壊兵器の所有を口実に攻撃したが、逆に所有していない確信があったからこそ攻撃したのだろう。大量破壊兵器を所有していれば、危険すぎてできないからだ)したにもかかわらず、アメリカの利益にかなえば、民主主義とはほど遠い国とも友好関係をもつのである。自由民主主義に明らかに反する中国に対して、体制に批判はするが敵対的な姿勢はとっていない。中国に敵対するのは、プラグマティックな国益に反するからだ。確かに、二枚舌であり、ご都合主義なのだ。それは、アメリカの自由民主主義が、資本制システムを守るための理念であるからだ。中南米の軍事政権は、アメリカ資本の敵であるソ連の敵、即ち味方であり、アメリカ企業に多大な利益をもたらすものであった。また、サウジアラビアは外国の資本活動の自由を大幅に認めているので、アメリカ資本の利益に合致する。しかし、アメリカの国益、その意味するところ、すなわち資本(多国籍企業であっても、同じことであるが)の利益にもならず、つまり、アメリカの実利に反し、かつ、自由民主主義にも反する勢力を、アメリカが容認しないのは、火を見るより明らかだ。(アメリカ政府の考える国益というものを、アメリカ資本の利益と100%イコールだと推定しているわけではないが、ここでは、分かりやすくするためにそうしている。より本質的には、アメリカの国益の中心にあるものは、現にある世界的な秩序そのものであろう。それは、アントニオ・ネグリが「帝国」と呼ぶものでもある)

 東京大空襲や原爆投下をごまかすために東京裁判が行われた、などと言う者を公共放送の委員に任命する政権を、アメリカは看過することはできないだろう。また、同じ公共放送の会長の「失言」や内閣参与の発言(後に真意とは異なると報じた新聞社に訂正を求めたとしても)も、戦前の国家主義を想起させるものとして、アメリカはに懸念するだろう。これについては、直接アメリカ政府が批判することは今のところ避けてはいるが、ニュウヨーク・タイムズなど有力紙が批判的な社説を掲げている。これらの有力紙は、政府の政策に影響を与える文字どおり有力なものである。この一連の発言は、かつて、多大な犠牲を払って勝利したものである全体主義の亡霊だと、アメリカが考えてもおかしいものではない。それも、アメリカのアジア政策に障害になることをする政権がである。批判するのは、民主党のオバマ政権だからだ、という意見もあるが、こういう意見には、次の言葉が適切だろう。「自由民主主義を舐めるな。過小評価するな」である。たとえ、共和党政権になったとしても、アメリカ政府は自由民主主義には忠実にならざるをえないのだ。「左右の全体主義」や中国の一党独裁を否定する根拠、アメリカだけではなく、EUや先進諸国の体制を正当なものとしている理念が、自由民主主義だからだ。

 阿部政権は、このままアメリカ政府の意に反する行いを続けるのだろうか? おそらく、言動は慎むだろう。しかし、中国国内の極度のナショナリズムの現れである尖閣の問題、自民党右派の悲願である改憲等、なんら状況は変わっていない。さらに、「ネトウヨ」が象徴する「保守」勢力、より論理的な表現を使えば、排外主義、歴史修正主義、国家主義のごった煮勢力と阿部政権は、相互に補完している関係にある。「ごった煮」勢力にとって阿部政権は錦の御旗であり、阿部政権にとって「ごった煮」勢力は、最も忠実な支持者なのである。これらのことから、阿部政権はこのままの姿勢を貫きざるを得ないのだ。

 阿部首相の靖国参拝に、今回、アメリカ政府は「懸念」程度の表現にとどめた。しかし、このまま阿部政権が続けば、いずれアメリカ政府の「堪忍袋の緒は切れる」。憲法を「改正」して、アメリカの戦争に協力する。それは、アメリカの期待でもある。しかし、立憲主義の否定につながる「解釈改憲」(自由民主主義の否定)を強行し、「中国の軍事力に対抗するための軍事力を持つ」(内閣参与発言)などということは、完全にアメリカの意に反している。アメリカの戦争に協力するといっても、過去はどうあれ、アメリカは、もはや整合性のある戦争しかできない。中国との戦争などありえないのだ。過ぎたるは、及ばざるが如し言うが、この場合は、「及ばざる」方がましなのだ。

 日本国内において、安倍と「ネトウヨ」等を批判する者は「反日」の「左翼」だとして、かれらは聞く耳を持たない。しかし、最も同盟関係を維持したいアメリカからの批判は、味方から矢を放たれる思いだろう。おそらく、その批判はアメリカのみならず、世界中から湧き起こるだろう。すでに、英国ガーディアン、フランスのルモンド、ドイツのシュピーゲルは、阿部政権の国家主義に対する警告的なコメントを発している。靖国を批判することが「反日」ならば、中国・韓国だけでなく、ましてや朝日新聞や岩波書店だけが「反日」なのではなく、世界中が「反日」なのだ。そのとき、「敵百万人とえども我ゆかん」とでも言うのであろうか? 井の中のかわずそのものと言っていい。もはや、笑い話のようなものだ。遅かれ早かれ、その日はやってくる。当然のようにその時、かれらの勢力は取るに足らないものとなるだろう。こうなると、かの有名な言葉を使う欲望を抑えることはできない。日本の全体主義の「歴史は繰り返す。はじめは(多くの犠牲を伴った)悲劇として、二度目は笑劇として」。

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都知事選 田母神は「善戦」したが、「ネトウヨ」に象徴される「保守」勢力に未来はあるか?

2014-02-17 14:25:30 | 日記

 都知事選での田母神は61万票獲得し、新聞各紙によれば予想以上の「善戦」だという。特に20代から30代の若年層に支持が多く、その中核となっているのが、いわゆる「ネトウヨ」の勢力でないかというものだ。たしかに、ネットの世界では、田母神支持の意見が数多く見られたのは間違いない。
 まず、言葉の整理をしておきたい。朝日新聞に掲載された評論家の記事では、「ネトウヨ」が「ネット保守」になっていた。また、この新聞社は以前から、「タカ派」的な言動を「保守論壇」というように使い、単に自民党の支持層をも「保守層」と表現している。自民党の支持者全体が、まさか「タカ派」的というわけではないだろうから、「保守」の意味が二重になっているのは、すぐに分かることだ。つまり、「保守」という言葉を使いたいのなら、「タカ派」的な人々を「超保守」とでも表現しなければおかしいが、そんな言葉はないという判断からか、両者を同じ「保守」というくくりに入れている。言葉の意味から正反対であるはずの、「維新の会」まで「保守」と言っている。日本語では、維新とは変革の意味をもっているのではなかったか。安倍首相の「戦後レジームからの脱却」でさえ、「保守」的傾向だとしているしまつだ。「脱却」がなぜ、「保守」なのか? 言葉は常に正確かつ適切でなければならないだろう。
 これは朝日新聞に限ったことではなく、日本のメディアは国内のある思想的潮流に対して、「保守」という言葉を使いたがる。おそらく、過去の「保守」「革新」(死後となっているが)という対語の名残なのだろう。しかし、そもそも「保守」とは何か? 田母神が保守? これには、保守主義者を自認する西部邁は激怒するだろう。「保守」とメディアは使うが、保守[conservative]とは、変化する社会の中で、過去から良きものは守るという意味の言葉であって、たとえば、英国保守党Conservative Partyの理念の基になっているものであって、決して「タカ派」や、「維新」などを意味するものではないはずだ。
 では、適切で分かりやすい言葉は何か? 使われている文脈から考えて、マスメディアの使用する「保守」とは、「右派」全体のことを指しているのである。海外には、「オランド左派政権」とか「キリスト教民主同盟の中道右派」というように、「右」と「左」を使っているのだから、国内においても使って良さそうだが、国内では「左右」を避けているのである。その理由はいくつか考えられるが、ひとつは、日本で「右翼」というと、街宣車で示威行動を行っている人々を指し、「右」全体を表わす言葉ではなかったからだろう。また、「左右を超えた」と主張する政治勢力は多く、どちらとも判断できないものもあるからだろう(「左右のイデオロギーの終焉」を主張している者もいる)。しかしそういう理由はあったとしても、海外の政治勢力には用いているのだから、国内においても使わないのは整合性がない。そもそも、「左右」という概念は欧州から来たのであるから、右翼[right]を街宣車集団にのみ、使うことがおかしいのだ。キリスト教民主同盟や英国保守党が[right]であり、日本の「右翼」では決してない。ではどうすれば良いか? 、ひとつ目の矛盾を解決するのには、「翼」という語をつけなければよいのだ。[right]英語も[droit]仏語もそれだけで、政治的区別を意味できるのであるから、「翼」をつける必要はないのだ。[far(extreme)right][middle-right]を極右、中道左派と訳しているのだから、それにしたがえば良いのだ。「右翼」は極右の中の行動的な人々とすれば、より分かりやすい。「右派」の「派」には党派の意味合いがあり、党派にまで至っていない勢力には、矛盾があるが、そのときは「右」「左」とすれば良い。朝日新聞の例で言えば、自民党支持層は中道右派(middle-right)から極右(far right)までの広がりを持つ層で、田母神は極右と表現すれば良い。また、民主党は、中道左派から極右までの寄せ合い所帯と表現すれば、実態をより適切に表わすことができる。(私は、右と左という空間的隠喩については、ノベルト・ボッビオの「平等の理想についての見解の相違」(「右と左 政治的区分の理由と意味」お茶の水書房)というものさしを援用して使用している。その有用性につても言及しているので、是非一読されたい。極右、極左はその過激主義による)
 では、「ネトウヨ」に象徴される「保守」勢力とはどういう人々か? そこには、ふたつ分けられる人々がいる。それは、「ネトウヨ」のブログなどで見られる、「韓国人(朝鮮人)は出て行け」「靖国に参拝して何が悪い」「こいつらが反日勢力」という言葉が象徴するように、極右排外主義者、歴史修正主義者(英語ではhistorical revisionismであるから歴史見直し主義と訳した方が分かりやすいと思うが)、国家主義者に影響を受けた人々と、インターネットがある前から存在した、上記の三つのイデオローグである。「ネトウヨ」とは、前者が大半で一部に後者も含まれる。
 では、なぜ「ネトウヨ」は増大したのか? それを考えるのには、町の書店がヒントになるだろう。書店に並んでいる政治的書籍のほとんどは右派の立場に立っている。そのほとんどが極右と言っていい。最も目立つ位置に、「反日」の言葉が並んでいる。また、週刊・月刊誌も韓国・中国非難であふれている。なぜかと言えば、当然のように、それらの本が売れるからだ。これは何を物語るのか? それは、ネットの世界だけが特殊なのではない、ということだ。かつて、町の書店には「世界」、「朝日ジャーナル」、「展望」さらには「前衛」を置いている店もあった。それが今では、極右一色といった状況になっている。何が変わったのか? それは、とりもなおさず日本を取り巻く状況とこれらの本を好んで買う人の立場だろう。
 20代30代の世代が置かれている環境は、それよりも上の世代より経済的に厳しい。年をとっても改善する可能性は低い。数10年前なら、左派の主張に耳を傾けたはずだが、、状況は様変わりしている。ソ連は崩壊し、「社会主義」は間違っていたと多くのメディアが報じている。左派など存在しないも同然なのだ。不満はつのるばかりである。そこで、不満解消のひとつとして、誰かを叩くことを思いつく。いじめも、そのひとつだろうが、他人を攻撃することは、かなりの快楽に違いない。そこに、中国、韓国、北朝鮮が格好の攻撃対象となるのは、簡単に思いつく。
 こう書くと、いかにも中国、韓国、北朝鮮が単なる被害者だという誤解が生じるので、重要なことを書かねばならない。攻撃対象となるのには、それなりの理由があるからだ。私見では靖国参拝を批判するのは、きわめて自然なことだと考えているが、それだけではない。北朝鮮は言うに及ばず、特に中国は経済的利権を確保するために、軍事的拡張主義の立場を貫いている。この軍事的拡張主義は、戦争を第一の目的としているものではないが(戦争が、かれらの経済的利益に反することを考えれば分かる)、軍事的プレゼンスによって様々な交渉を有利に進めることができると信じていることは、かれらの行動によって明らかだ。ここで、はっきりとさせなければならないのが、中国の政権党は名前は共産党だが、やっていることは、平等性の観点からは「右」なのであって、中南米等でかつてあった極右の軍事独裁政権とかなりの類似性をもっていることだ。中国資本の利益が中国共産党の利益とイコールで結ばれている。「特色のある社会主義」と言っても、「開発独裁」であり、プロレタリア独裁をもじって表現すれば、プロレタリア(と農民)に対する独裁(この言葉は私のオリジナルではないが)になっているのだ。また、韓国の右派政権は、かれらもまた日本叩きをナショナリズムの高揚をもって、自らの政権支持獲得に利用している。
 (本稿の主旨とは異なるが、軍事的拡張主義の中国とどう向き合うのかは、大きな課題である。それについては、後日述べる)
 そういった状況の中で、排外主義者や歴史修正主義者の言説は、かれらにとって心地よいものだろう。「悪いのはあいつらだ」とこれでもかという具合に書かれているからだ。そういった本が売れるのは当たり前なのだ。昔の西部劇でたびたび目にした、「牛泥棒は殺せ殺せ」、「白人女と通じた黒人野郎は吊るしてしまえ」と叫んでいる民衆と同じことだ。かれらは自分たちを正義と感じている。真相や法律など知ったことではない。自分たちを正義と感じることに喜びを見出しているのであって、そこには理性的な判断は邪魔者である。「それは真実なのか?」などと問うことは、喜びを減少させることになるのである。このような情緒的な存在が、阿部政権を後押しし、田母神を「善戦」させたと想像るのは容易なことだ。
 しかし、かれらが理性的な判断を拒否している重要なことのひとつに、自分たちの立場が世界の中でどういったものなのかを、まったく理解していないことがある。それは、南京大虐殺が真実か否かなどという、矮小化されたものではない。日本がアジア諸国に大量の軍隊を侵攻させたという事実で十分なのだ。今日、欧州の歴史修正主義者の一部(アウシュビッツはなかったという類の)以外では、人種差別主義と同様に、植民地主義は全面的に否定されている現実を理解していない。それは、マスメディアが靖国問題を中国・韓国からの批判としてのみ、報道していることにも原因はあると考えられるが、ドイツ、イタリア、そして日本が他国に対して軍事進攻を行ったという事実、それによって数千万の人間が死んだという事実、この三国がファシズムないしそれに類似する体制であったという事実だけで十分なのだ。中国、韓国がどう言っているかとは関係のない、世界史の中の動かしがたい真実なのだ。それは、アメリカが原爆を落とし、ドレスデンを無差別爆撃したことが批判されるにしても、その批判とは別個のものとして、決して繰り返してはならないと認識されている世界史の一部なのである。その真実をなっかたことにする、あるいは、肯定的に解釈する、そのようなことは、日本を除く世界の主要政党、ジャーナリズム、知識人等の認識とは、かけ離れていると言っていい。
 排外主義者や歴史修正主義者の主張が、第二次大戦後の秩序に対する挑戦であることは、新聞等でも多くの者が述べている。その秩序は、戦勝国の作ったものであろうとなかろうと、日本の極右がどんなにおかしいと叫ぼうと、現に存在しているものである。その秩序を維持している巨大な勢力にアメリカ合衆国政府とアメリカ資本(多国籍資本も含めて)がある。今まで、アメリカ政府は日本の右派の庇護者であった。しかし、それは、反左派として、ソ連・中国の「共産圏」に対抗するという目的があったからである。だが今日、ソ連は崩壊し、中国は最大の貿易相手国、即ち立派な資本主義国家(一党独裁であれなんであれ)なのだ。アメリカ政府にとって、日本に左派政権ができることは好ましくないが、世界秩序に挑戦する極右政権も好ましいものではありえない。軍事的な問題にしても、日本がアメリカの戦争に協力するのは良いことだが、日本がアメリカの意に反して、勝手に戦争を引き起こすこと、東アジアで独自に軍事的緊張を高めることは、アメリカの利益に完全に反することだ。阿部首相の靖国参拝を、アメリカ政府が批判したのは、これらのことの証左である。
 アメリカが日本の右派の庇護者であり続けるのは、「反米」(単に、アメリカ政府に批判的だという意味)左派の敵であり、世界秩序の擁護者の一員であるという条件でのみありうることである。それから、逸脱する極右勢力を決して味方だとは思わないだろう。阿部政権が、このまま極右の主張どおりの政策を続ければ、アメリカ政府からさらなる批判が起こる。アメリカの批判は、アメリカ国内だけでは終わらない。なぜなら、世界の多くの情報の発信元はアメリカにあるからだ。それは政府の機関だけではなく、巨大な民間の通信社、テレビ局といったマスメディアがアメリカには存在するからだ。
 日本でのネットの世界におけるニュースの発信元はどこか? それは、やはりマスメディアなのである。SNSであれなんであれ、元々の情報の源はマスメディアであり、個々の人間ではない。時には誤解され、曲解されるにしても、そこから拡散して行くに過ぎない。
 「ネトウヨ」すなわち、排外主義、歴史修正主義や国家主義に影響された勢力がさらに増大することがあれば、政権もその影響を相互的にを受ける。そうなれば必ず、中国・韓国に限らず、アメリカの批判を浴びることになる。その時が、かれらが、自分自身がなにものであるか知る時だ。世界の中で、自分たちの立場を理解する時がやってくる。自分たちが世界の中で、どう思われているのかを知るときがやってくる。そう、その時になって初めて、かれらは情緒的な存在から、理性的な、合理的な判断力を回復する。同時に、かれらは「ネトウヨ」であることをやめるだろう。

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都知事選 舛添氏は多数派を代表していると言えるのか?

2014-02-10 20:59:25 | 日記

 都知事選の結果は、以下のようになった。

  舛添  211万票 43.4%
  宇都宮  98万票 20.2%
  細川   96万票 19.6%
  田母神  61万票 12.5%

 この結果を持って、公選法95条によって、舛添氏が当選ということになった。やはり、前回のブログで記したように、投票者の56.6%は舛添氏に投票していない。つまり、投票者の多数派は舛添氏に投票していないということだ。
 前回のブログで、得票率が過半数に満たなければ多数派とは言えず、決選投票をすべきだと書いた。合理的な判断にしたがえば、誰も有権者の過半数の支持を得ていないのだから、この段階で当選は決まっていないというべきなのだ。
 公選法95条は4分の1を超えれば、当選だという。では、残りの4分の3という多数の意思はどう扱われるのか? そもそも、4分の1に何の論理的整合性があるのか? 4分の1で良ければ、なぜ100分の1ではいけないのか? 4分の1に何ら合理性があるとは考えられない。とりあえず、どこでもいいから適当に決めた、というものに過ぎないだろう。
 また、今回の選挙で、仮に1位と2位の決選投票をしても、結果は舛添氏の勝利となるだろうという予想は、多くの人がするだろう。田母神氏に入れた人が、舛添氏を飛び越えて、宇都宮氏に入れるとは考えにくいからだ。私も、その予想には賛成だ。順当なものだと思う。しかし、それはあくまでも予想に過ぎない。予想が決定的なものなら、当初から舛添優勢なのだから、選挙自体をする必要がないという理屈が成り立ってしまう。肝心なのは、選挙の結果が過半数以上の支持、多数の支持があって初めて民意の代表者と言いうるということだ。
 
 フランスで実施されている決選投票式の選挙を見てみると、次のことが言える。決選投票に勝つためには、比較的意見の近い政党(候補者)の支援を必要とするので、主張の近い勢力の中で意見調整が行われる。いわゆる少数政党といっても、まったく無視することはできない。ということは、僅かながらでも、少数意見の尊重という民主主義の原則が活かされることになる。
 
 一歩でも先の民主主義を!
 

 
 
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都知事選は民意を反映するのか? 多数派が当選するとは限らない!

2014-02-05 15:45:23 | 日記

 今度の都知事選について、マスメディアは舛添氏が優位だと報道している。過去の例から、そのように報道されて覆ったことはないので、たぶん結果もそうなるのだろう。しかし、問題は舛添氏が投票者の過半数の票を取るか、ということだ。
 仮に、報道されている情報から予想して、

 舛添  200万票
 細川  100万票
 宇都宮 80万票
 田母神 50万票
 その他 20万票

だとすると、勿論舛添が当選ということになる。しかし、過半数には至っていない。この場合、有権者の民意を正確に反映していると言えるか、ということが問題なのだ。有権者のうち、投票に行かない者は、「お任せします」と解釈されてもいたしかたない。しかし、選挙とは、自分の意見に最も近い人物を選ぶと考えていいのであって、舛添がそうだと投票した者が200万人、そうではないと投票した者が250万人いることになる。舛添ではないという意思表示した者の方が多数なのだ。これで、舛添が民意の支持を得たと言えるのか、ということだ。これは、民主主義にとって、大問題ではないのか?
 フランスでは、このように過半数に届かない場合、1位と2位の決選投票が行われる。これは、論理的にまったく正しい。相対的に1位の候補者の支持が、2位以下の候補者の支持の合計を超えていないからだ。2位以下の合計の方が多数派だからだ。つまり、多数派は、相対的1位の候補者より2位の候補者の方が自分の意見に近い、あるいは、1位の候補者は絶対にいやだと考えている可能性が排除できないからだ。決選投票により過半数を超えて、初めて多数派の支持を得たことになる。
 民意では、原発即時廃止派(再稼働に反対という意見)と原発容認派(すぐに廃止すべきではないという意見)が拮抗しているのに、なぜ、国会では容認派が圧倒的多数派なのか? 理由(多くあると思うが)のひとつは選挙制度が民意を正しく反映してないからだ。小選挙区でフランス型の選挙を行えば、自民党は、これほど圧倒的多数の議席を獲得することはできない。相対的にのみの多数派が絶対的多数派になる。これが民主主義か?
 1票の重みについての不公平が問題とされている。確かに、不公平だ。それは、正確な民意の反映が民主主義だという考えなのだと思う。だとしたら、同時に、この問題も避けて通れないはずだ。マスメディアで、こういった主張がまったく報道されないのはなぜだろうか? 

 こんにち、民主主義が行われているかどうかが問題なのではない。どのような民主主義が、誰のために、どのように行われてるかが問題なのだ!!

 
 
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まずは、最近の話題から 「都知事選、反原発候補の一本化」について

2014-02-04 17:00:36 | 日記

 都知事選の反原発候補として、宇都宮氏と細川氏を一本化すべきだという要請が、市民団体から出ていると報道されている。反原発の票が割れるからという理由からだ。確かに、ふたりいては票が割れるのは間違いない。しかし、どだい無理な話だ。そもそも、原発即時中止を訴えているのは、このふたりだけではない。鈴木達夫氏も反原発を訴えている。なぜ、鈴木氏を無視するのか? おそらくは、政治的立場が違いすぎるから、というものだろう。(鈴木氏は某革命的うんぬんという集団からも支持されている)
 考えてみれば、それと同じことが、宇都宮氏と細川氏にも言えるだろう。反原発といっても、政治的な立場が違いすぎるのだ。反原発を主張しているのは、左派に圧倒的に多いが、右派にも少なくない。宇都宮氏は支援政党からも分かるとおり左派であり、細川氏は自民党の元総理が支援する右派なのだ。(政治的右と左の概念は、ノルベルト・ボッビオの主張が適切と考えているが、それについては後日詳述する)
 都知事の職務は原発に関連することのみ、というならいざしらず、他にもさまざまことがあるのは、「猿でも分かる」ことだろう。原発以外の考えがある程度一致する、ということがない限り、どだい不可能といわざるを得ない。
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