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佐藤優や内田樹が「反知性主義」に警鐘を鳴らしていると、朝日新聞は報じている。朝日によれば、佐藤優の「反知性主義」の定義は「実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度」だそうだが、「ネトウヨ」そのもや、かれらに影響を与えている一部の人たち(評論家、小説家、政治家といった著作や雑誌等で見解を表明できる人たち)は、確かにそう言えるだろう。当たらずと言えども遠からず、である。それは、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」を思い出させ、今の日本はファシズムに向かいつつあるのではないかと危惧するのも、あながち無理はないと思わせる。朝日だけではなく、「毎日」や「東京」の各新聞社の投書欄でも、主に秘密保護法に反対する主旨の投稿に、「戦前」への回帰を危惧する意見が散見される。歴史は繰り返すのではないか、という危惧である。
阿部首相の靖国参拝に、アメリカ政府は「失望」という言葉で批判を表明した。「失望」とは、日本語の意味するものよりも、この場合、強い懸念を表わす言葉らしい。「戦後レジームからの脱却」と安倍首相が就任以来言っているが、それに対しては、アメリカ政府の反応は、特になかったのにである。それは、次のように解釈すれば理解できる。日本政府がどのような主張をしようとも、それがアメリカの実利に損失を与えなけれな黙認するが、そうでなければ断固批判する、というものだ。つまり、阿部首相の靖国参拝は、中国・韓国との摩擦を引き起こし,アメリカのアジア戦略に悪影響を及ぼすというものだろう。悪影響とは、アメリカの実利に損失を与えるということだ。アメリカの最大の貿易相手国が中国なのだから、不必要な摩擦が国益に反するのは当然のことだ。勿論、それは日本の企業にとっても不利益と言えるが。
かつて、アメリカは「左右の全体主義」に勝利した。ドイツ・イタリア・日本のファシズムないしそれに類似する体制を、戦争という多くの犠牲によって打ち破った。「共産圏」はソ連を始め自ら崩壊したが、「共産圏」との戦争である朝鮮やベトナム戦争でも戦死者だけで数万人の犠牲を出している。では、アメリカは何のために闘ったのか? その闘う理念は何であったのか? それは、言うまでもなく、自由民主主義である。この自由民主主義が、アメリカの資本制システム(capitalism)の支配的イデオロギーなのである。イデオロギーという言葉が嫌いなのであれば、単に資本制システムの正当性を表現する理念だと言ってもいい。
アメリカの自由民主主義が二枚舌ではないかという批判がある。それはたとえば、冷戦時に、中南米の軍事独裁政権を支えたり、現在でも、宗教的専制支配国家であり、政党も禁止されているサウジアラビアと友好関係にあり、軍事基地を置いていることなどから言われることである。独裁は許せないとイラクを攻撃(大量破壊兵器の所有を口実に攻撃したが、逆に所有していない確信があったからこそ攻撃したのだろう。大量破壊兵器を所有していれば、危険すぎてできないからだ)したにもかかわらず、アメリカの利益にかなえば、民主主義とはほど遠い国とも友好関係をもつのである。自由民主主義に明らかに反する中国に対して、体制に批判はするが敵対的な姿勢はとっていない。中国に敵対するのは、プラグマティックな国益に反するからだ。確かに、二枚舌であり、ご都合主義なのだ。それは、アメリカの自由民主主義が、資本制システムを守るための理念であるからだ。中南米の軍事政権は、アメリカ資本の敵であるソ連の敵、即ち味方であり、アメリカ企業に多大な利益をもたらすものであった。また、サウジアラビアは外国の資本活動の自由を大幅に認めているので、アメリカ資本の利益に合致する。しかし、アメリカの国益、その意味するところ、すなわち資本(多国籍企業であっても、同じことであるが)の利益にもならず、つまり、アメリカの実利に反し、かつ、自由民主主義にも反する勢力を、アメリカが容認しないのは、火を見るより明らかだ。(アメリカ政府の考える国益というものを、アメリカ資本の利益と100%イコールだと推定しているわけではないが、ここでは、分かりやすくするためにそうしている。より本質的には、アメリカの国益の中心にあるものは、現にある世界的な秩序そのものであろう。それは、アントニオ・ネグリが「帝国」と呼ぶものでもある)
東京大空襲や原爆投下をごまかすために東京裁判が行われた、などと言う者を公共放送の委員に任命する政権を、アメリカは看過することはできないだろう。また、同じ公共放送の会長の「失言」や内閣参与の発言(後に真意とは異なると報じた新聞社に訂正を求めたとしても)も、戦前の国家主義を想起させるものとして、アメリカはに懸念するだろう。これについては、直接アメリカ政府が批判することは今のところ避けてはいるが、ニュウヨーク・タイムズなど有力紙が批判的な社説を掲げている。これらの有力紙は、政府の政策に影響を与える文字どおり有力なものである。この一連の発言は、かつて、多大な犠牲を払って勝利したものである全体主義の亡霊だと、アメリカが考えてもおかしいものではない。それも、アメリカのアジア政策に障害になることをする政権がである。批判するのは、民主党のオバマ政権だからだ、という意見もあるが、こういう意見には、次の言葉が適切だろう。「自由民主主義を舐めるな。過小評価するな」である。たとえ、共和党政権になったとしても、アメリカ政府は自由民主主義には忠実にならざるをえないのだ。「左右の全体主義」や中国の一党独裁を否定する根拠、アメリカだけではなく、EUや先進諸国の体制を正当なものとしている理念が、自由民主主義だからだ。
阿部政権は、このままアメリカ政府の意に反する行いを続けるのだろうか? おそらく、言動は慎むだろう。しかし、中国国内の極度のナショナリズムの現れである尖閣の問題、自民党右派の悲願である改憲等、なんら状況は変わっていない。さらに、「ネトウヨ」が象徴する「保守」勢力、より論理的な表現を使えば、排外主義、歴史修正主義、国家主義のごった煮勢力と阿部政権は、相互に補完している関係にある。「ごった煮」勢力にとって阿部政権は錦の御旗であり、阿部政権にとって「ごった煮」勢力は、最も忠実な支持者なのである。これらのことから、阿部政権はこのままの姿勢を貫きざるを得ないのだ。
阿部首相の靖国参拝に、今回、アメリカ政府は「懸念」程度の表現にとどめた。しかし、このまま阿部政権が続けば、いずれアメリカ政府の「堪忍袋の緒は切れる」。憲法を「改正」して、アメリカの戦争に協力する。それは、アメリカの期待でもある。しかし、立憲主義の否定につながる「解釈改憲」(自由民主主義の否定)を強行し、「中国の軍事力に対抗するための軍事力を持つ」(内閣参与発言)などということは、完全にアメリカの意に反している。アメリカの戦争に協力するといっても、過去はどうあれ、アメリカは、もはや整合性のある戦争しかできない。中国との戦争などありえないのだ。過ぎたるは、及ばざるが如し言うが、この場合は、「及ばざる」方がましなのだ。
日本国内において、安倍と「ネトウヨ」等を批判する者は「反日」の「左翼」だとして、かれらは聞く耳を持たない。しかし、最も同盟関係を維持したいアメリカからの批判は、味方から矢を放たれる思いだろう。おそらく、その批判はアメリカのみならず、世界中から湧き起こるだろう。すでに、英国ガーディアン、フランスのルモンド、ドイツのシュピーゲルは、阿部政権の国家主義に対する警告的なコメントを発している。靖国を批判することが「反日」ならば、中国・韓国だけでなく、ましてや朝日新聞や岩波書店だけが「反日」なのではなく、世界中が「反日」なのだ。そのとき、「敵百万人とえども我ゆかん」とでも言うのであろうか? 井の中のかわずそのものと言っていい。もはや、笑い話のようなものだ。遅かれ早かれ、その日はやってくる。当然のようにその時、かれらの勢力は取るに足らないものとなるだろう。こうなると、かの有名な言葉を使う欲望を抑えることはできない。日本の全体主義の「歴史は繰り返す。はじめは(多くの犠牲を伴った)悲劇として、二度目は笑劇として」。