1. 安倍政権による三つの戦争
安倍晋三が提唱する「積極的平和主義」が、この政権の今までの動きから考えて、「積極的戦争主義」であることは論を待たないだろう。安倍政権が、特定秘密保護法の制定、集団的自衛権行使容認、日本版SNC設置法、ODAによる他国軍援助の解禁,日米防衛協力のための指針(ガイドライン)の再改定、安保法政の与党合意、そして国会上程等、進軍ラッパを鳴らすように戦争への準備を進めているからだ。そして最後の「しめ」が憲法改変であることは言うまでもない。もはや、この流れの行き着く先が戦争であることを疑うことはできない。確かにそうであるとしても、安倍晋三の進めようとする戦争は不可避なのだろうか?
安倍晋三が進めようとしている、あるいは準備している戦争とはどのようなものか?
① この問いの答えは三つある。一つ目は、日米防衛協力のための指針(ガイドライン)の再改定が示すように、アメリカの戦争へのお付き合いである。かつて日本政府は、1990年からの湾岸戦争時にアメリカ主導の多国籍軍に130億ドルの資金提供を行った(朝日、東京等の新聞報道)。その結果である「国際社会」からの評価は、「貢献」が不十分だというものだった。それは、血を流さず、金だけだしているという批判だった。だから、今後は実戦に参加すること、即ち血を流すことで「国際社会に貢献」したいと考えるのは、実に素直な態度と言える。
ではここで言う「国際社会」とはいかなるものなか? 日本のマスメディアと自民党政権がたびたび使用する「国際社会」とは、国語的な意味での多くの国々が関わっている社会というものではない。また、国連加盟国が形づくる社会というものでもない。、なぜならば、この言葉は、国連加盟国でもあるロシア、中国、北朝鮮等に対して、「国際社会」はどう対処するか、というふうに使用され、アメリカやその同盟国に対して、「国際社会」はどう対処するか、というようには絶対に使われることはないからだ。端的な例を挙げれば、イランに対して「国際社会」は云々と使用されるが、イスラエルに対して「国際社会」は、とは使用されないのである。要するに「国際社会」とは、アメリカとその同盟国のみが関わる社会、あるいは秩序を指す言葉なのである。
このことから、「国際社会に貢献する」とは、アメリカとその同盟国の戦争に参加すると考えるのが極めて自然だろう。この場合、アメリカの同盟国はアメリカの戦争に参加しているのであるから、単にアメリカの戦争に参加すると言っても同じことだ。しかし、アメリカの戦争に参加すると直接的に言えば批判が起こるので、安倍政権は「国際社会に貢献する」と言い換えているだけである。
なぜ、アメリカの戦争に同盟国が参加するのかと言えば、答えは簡単だ。それが、自らの利益になると考えるからである。利益にならないと分かっていて、参戦するほど愚かな者はいない。端的に言えば、同盟国にとっては、アメリカが主導する秩序を維持、発展することが国益であり、それを阻害するするものは排除しなければならないのだ。それは、それらの国がその秩序の中で利益を得ていると考えているからだ。それは、武力を行使してでも排除しなければならないものなのである。なぜならば、武力行使の損害以上に守るべき利益が大きいと考えるからである。そしてこれはほとんどの同盟国がしている選択であり、特殊なものではない。逆に、同盟国でありながら、実戦には参加しなかった日本が特殊、例外であったのだ。さらに言えば、日米安保において、日本の防衛にのみ米軍が支援し、アメリカの防衛のために日本軍(自衛隊)が参戦しないなどという片務的なことが異常なことと主張するのは、軍事同盟のあり方からすれば極めて正当な論理だろう。
現に、アメリカの戦争には多くのアメリカの同盟国が参戦している。ベトナム戦争では、韓国、タイ、オーストラリアなど同盟国として6か国、湾岸戦争では、イギリス、フランスをはじめ数十か国、アフガニスタンでは国際治安支援部隊と称して43か国が参加しているのだ。数え上げればきりがないほどだ。つまり、アメリカの戦争に同盟国は、その時々の都合から、入れ替わり立ち代わり参戦しているのだ。つまり、同盟国としては、参戦するのは普通のことなのだ。このことを見れば、安倍晋三が、日本以外の同盟国と同じ行動をとりたいと考えるのは、むしろ自然なことと言える。
近年、アメリカは膨大な軍事費の重圧と人的犠牲を批判する世論によって、単独での戦争遂行が以前と比べれば難しい。アメリカに加勢する同盟国が多ければ多いほど、アメリカ単独の「コスト」は下がる。アメリカ側が、日本が資金のみならず、直接的に有志連合に加わることを切望するのは当然のことだ。それが、日米の共同軍事行動を企図した日米ガイドラインの再改定なのである。
安保法案の国会答弁で安倍晋三は「アメリカの戦争に巻き込まれることはない」、「ホルムズ海峡の機雷掃海しか念頭にない」と答えているが、これらは法案を通すための嘘も方便であることは、与党の議員すら承知のことだろう。歴代の自民党総理の「核の密約」をはじめ、嘘を通すことが首相の国会対策であったことを考えれば、今回も同様なことだと当然考えられる。昨日禁止されていると答えていたことが、今日はできると答える。であるなら、今日禁止されていると答えることは、明日できると答えるだろうとは、誰でも予測することだ。まるで、高田渡の「値上げ」という歌と同じようなものだ。「値上げはぜんぜん考えぬ 年内値上げは考えぬ ……なるべく値上げは避けたい……値上げに踏み切ろう」。「値上げ」を「戦争」に替えればいいだけだ。
このように、日本がアメリカの戦争に参加することは、軍事同盟国としては極めて自然なことであり、また日本の国益になることである。安倍晋三がそう考えるのは想像に難くない。
② 二つ目の戦争は、中国または北朝鮮との戦争である。これは、集団的自衛権などとは関係なく、政権側からは個別的自衛権の発動という正当性を根拠にすれば、いつでもできる戦争である。
中国は、「経済発展水準に見合った国防力を築く」(中国外交部報道官談話 2015.3.26)としており、例えば、南沙諸島の性急な埋め立てを進め、軍事基地を創設しようとしているのもその一環だろう。「経済発展水準に見合った国防力」とは、「一人当たりの国防費」を「アメリカの22分の1」と強調したことでも分かるように、多分にアメリカを念頭に置いている。つまり、アメリカほどの軍事力には達していないが、アメリカが世界中で軍事力を展開していることと同様のことを中国もやる、ということだ。こういった軍事的プレゼンスはアメリカの方が圧倒しており、それと同様かそれ以下のことをやって、中国だけが批判されるおかしい、という主張である。しかし、国際社会、即ちアメリカとその同盟国にとっては、現在の軍事力の均衡を破るものであって、非難すべきものである。
北朝鮮もまた、自らの延命策としての軍事優先政策を辞めようとはしない。しかしこのことは、考えてみれば北朝鮮の支配層の選択としては、異常なものとは言えない。日米韓の強大な軍事力に囲まれている北朝鮮にとっては、軍事力が弱ければフセインのようにアメリカに殺されると考えるのは極めて自然だからだ。イラクが大量破壊兵器を所有していたから攻撃したのではなく、むしろ大量破壊兵器を所有していないと確信したからこそ、イラクを攻撃したと考えるのがもっともだからだ。アメリカによる攻撃の反撃として、イラクがイスラエルに大量破壊兵器を使わないと確信しない限り、イラクを攻撃できない。つまり、イラクが大量破壊兵器を持っていないという情報があればこそ、イラク攻撃が可能だった。その証左として、通常の軍事進攻では、核、生物、化学兵器等とその運搬手段を破壊してから地上部隊を投入するのだが、その兆候すらも米軍にはなかった。イラクの場合疑われた化学兵器があったとしたら、それを破壊するか少なくとも使用できない状況にしないと、危険すぎて地上部隊は投入できない。米軍兵士が神経ガスを浴びるかもしれないという危険性があって、侵攻を命令できる軍幹部などいる筈はないからだ。これらのことから北朝鮮の支配層が、アメリカに攻撃されないためには大量破壊兵器、その最たるものである核兵器を持たねばならないと考えるのは、それが及ぼす結果とは別にして、自然なことだ。
中国・北朝鮮の軍備増強は著しいと日米韓政府とマスメディアは喧伝しているが(そのこと自体はそのとおりだが)、それに対峙する日米韓の軍事力は、未だにこの2国より遥かに強大であるという事実には触れようとしない。そもそも日米韓が、総合的な軍事力で圧倒しているのは,軍事費の比較(SIPRIストックホルム国際平和研究所報告、米6400億ドル、日486億ドル、韓339億ドル、中1880億ドル、北60億ドル程度、2013年)や、この2国より日米韓の科学技術が遥かに進んでいることを考えれば、容易に想像できることだ。中国も北朝鮮も戦争になれば、壊滅的打撃を受けることは百も承知である筈だ。特に、北朝鮮の支配層にとってはイラクのフセイン政権以上の不幸に見舞われ、ほぼ全員死を意味することになるだろう。そしてまた、日米韓にとっても同様に、戦争になれば勝ち負けとは別に破滅的な結果をもたらすのは明らかである。したがって、どの国も戦争はしたくはないというのが本音だろう。
アメリカと中国が互いの軍事衝突を避けねばならないのは、予想される軍事的被害の大きさからだけではない。 中国がアメリカ国債の最大の保有国であることが象徴するように、米中関係は経済的に緊密に絡み合っているのもその理由だ。これは、日中にとっても同じことなのだが、軍事衝突を避ける努力は、実際には米中の方が進んでいると言える。以前からも米中軍幹部の人事交流は盛んに行われているが、6月11日に中国軍事委員会副主席が訪米し、9月には習近平・オバマとの首脳会議も予定されている。しかし、このような努力を日本の安倍晋三は積極的にしようとはしていない。中国側も、過去に自国を侵略し、その事実を捻じ曲げようとする相手国に対し、自分から頭を下げることはしない。このことから、米中と日中のどちらが偶発的戦争に発展し易いかは明らかだろう。
日中間に武力衝突に発展しかねない軍事的対峙が起きた時、例を挙げれば、尖閣諸島において、武力を持った中国公船と海保が互いに譲らず、交戦寸前になった時、安倍政権に影響力を持つ日本会議等の極右勢力は海自を出せと主張するだろう。日頃から中国に嫌悪感を振りまいている右派のマスメディアは、「敵をやっつけろ」と猛々しく煽るだろう。海自が出れば、中国海軍も当然出撃準備に入る。このような一触即発の状況の時、アメリカは双方に自重を迫るに違いない。それが聞き入れられなければ、アメリカは中立を保つ可能性が最も高い。日中の無謀な戦争によって、自国民と財産に損害が及ぶことを避けるのが、最も賢い選択だからだ。アメリカは安保条約10条に基づいて、一年後の日米安保破棄を通告し、条約の死文化を図る。在日米軍は混乱する日本から至急脱出する。これがアメリカの警告も聞かず、戦争に走る双方から、自らを守る選択だからである。アメリカ政府が、日本のために、多くの自国民が殺されても止むを得ないという判断をするとは、到底考えられない。第二次大戦後、アメリカが他国だけの防衛のために、戦争をしたことなどない。ベトナム戦争は、ドミノ理論、即ちベトナムが共産化されれば、いずれアメリカまで共産主義に侵攻されるという理論に基づいている。それすら、敗北に終わったのだ。中国はアメリカとは、絶対と言ってよいほど戦争を望まないだろう。しかし、日本単独となれば、話は別だ。少なくとも、対米よりは対日の方が開戦のハードルは低い。日本が攻撃してくるのだから、やむ得えず、防衛上迎撃せざるを得ないという結論は、すぐに導き出されるだろう。また、日本側も同じ論理で、同じ結論を導き出すに違いない。歴史は繰り返すという。この場合は、一度目も二度目も惨憺たる悲劇として、である。
欧米の主要紙は「Mr.アベの危険な歴史修正主義」(2014.3.2ニューヨーク・タイムズ)という主旨の意見を繰り返し載せているが、これが、その最悪な「危険」だろう。過去の戦争を正当化する歴史修正主義は、将来の戦争も正当化しかねないからだ。起こりうる可能性は高くはないが、これが安倍晋三の二つ目の戦争である。
③三つめの戦争は、軍事力を誇示し、それを国益に結びつけるというものである。これは、単に軍事的防衛の意味を超え、軍事的プレゼンスを通じて、影響力を拡大させ、外交を有利に展開し、国益を維持拡大させるというものである。これは戦争を目的としているのではなく、軍事力を誇示することで目的を達成しようとするもので、確かに戦争そのものではない。しかし、軍事力の増大が戦争への危険性を増すという意味では、また実際に戦争できる能力を誇示すという意味で、戦争の前段階とも言える。
この考え方は、安倍晋三のみが行うとしているものというよりも、むしろ世界中の「普通の国」が行っていることである。アメリカ、中国のみならず、EU諸国もこれには熱心である。なぜ、フランスや英国が核兵器を手放さないのか? 実際の軍事的抑止力としては、西側同盟国であるアメリカの核抑止力で充分と思われるが、2国とも手放そうとしない。それは、核兵器の所有が国際関係での力関係において有利に働くと考えているからである。欧米西側同盟国の中で、アメリカに核兵器を独占させないためでもある。安倍晋三のブレーンである北岡伸一が「憲法の穏当な見直しで日本は普通の国への一歩を踏み出せ、国際秩序を一層効果的に守れる国になる」(ニューヨーク・タイムズ2015.64寄稿文)と言ったのは、「普通の国」が軍事的プレゼンスが国益を守るという方針を貫いているからである。「国際秩序を守れる国になる」ことが、日本の影響力を増し、国益につながると主張しているのである。
これら三つが、安倍晋三の企図する戦争と考えられるが、いずれにしても、軍備の著しい増強と、何と言い訳しようと所詮戦争であるので、殺し殺される危険性が発生するのは言うまでもない。では、これらの戦争は不可避なのか? また、安倍晋三の企図を阻むためには、何が必要なのだろうか?
続く……