2月24日付けのガーディアンに「何年間も、プーチンはウクライナを侵略しなかったが、何が彼を2022年にとうとう切れ(snap)させたのか?」というアナトール・リーベンの意見が載った。そして、この考察は、その文中にもあるが、「侵略開始から1年、どのようにしてこの時点に至ったのか、事態がどこに向かっているのかについて、正確に考える」ための意見である。(アナトール・リーベン:Eurasia programme at the Quincy Institute for Responsible Statecraftのディレクター )
要約すると、以下のようになる。
1. プーチンが、ウクライナのマンダイン革命の2014年に、クリミア半島併合、ドンパスの分離主義者への秘密裏の支援だけでなく、ウクライナ全土を支配しようとしなかったのは、なぜか?
2. 2014年に、キーウの政権が選挙で選ばれたヤヌコヴィッチを暴力で追放し、ウクライナ民族主義者によるオデッサでの親ロシア住民の虐殺等があり、混乱の中でウクライナ軍が弱体化していた時期に、ロシアの強硬派は、プーチンがすぐに侵攻しなかったことを批判した。
3. その時期のプーチンの侵攻しないという自制の理由は、「ロシアを完全なパートナーとして組み込んだ、ヨーロッパの新しい安全保障秩序の構築」という戦略があったから。この戦略は、ミハイル・ゴルバチョフの「共通のヨーロッパの家」構想に根差し、ロシア近隣の旧ソ連諸国に対しては、「より緩い影響力を行使できることを可能にする」(「アメリカが中南米に対して行っているアプローチ」と同様な)ものだった。それは、「西側にも歓迎されていた。」
4. このロシアの戦略に基づき、2008年から2012年の間、当時のロシア大統領ドミトリー・メドベージェフは、西側と安全保障秩序を構築しようと試みたが、「西側諸国は、真剣に受け止める振りさえしなかった。」
5. 2014年に、ドイツとフランスが仲介し、ウクライナの分離拡大を停止し、ドンパスでの親ロシア派の自治を認めるミンスク合意がなされた。
6. 2016年に、アメリカでトランプが大統領に就任し、アメリカ・ファーストからアメリカと西ヨーロッパ諸国とに軋轢が生じたが、2021年バイデンが就任するとアメリカと西ヨーロッパ諸国は団結した。それが、ウクライナのキーウ政権がドンパスの自治を認めないことを西側が黙認することに働いた。
7. 2021年11月、バイデンはアメリカとウクライナの「戦略的パートナーシップ」を結んだが、ウクライナが「重武装したアメリカの同盟国」となる可能性を示していた。
8. プーチンは、侵攻の数日前まで、フランスのマクロンに「ウクライナの中立を支持し、ドンパスの分離主義指導者と交渉するよう圧力をかけ続けたが、失敗に終わった。そこにはプーチンの、敵対的なアメリカと西ヨーロッパ諸国を分断し、フランス・ドイツとの合意を築こうとするロシアの戦略があった可能性がある。
9. ミンスク合意は、弱体化していたウクライナ軍を再建する時間稼ぎだというかねてからのロシア強硬派の主張(アンゲラ・メルケルが2022年12月にそのように認めたが)に、2022年になってプーチンが同意した可能性がある。
10. そしてプーチンは「西側政府は信用できず、西側全体がロシアに対して容赦なく敵対的だというロシア強硬派ナショナリストに同意」するようになった。
11. ヨーロッパは、プーチンの侵攻開始の遠因となった可能性がある「『共通のヨーロッパの家」』というゴルバチョフの夢を維持しようとする努力が、あまりに少なかったことを認識しなければならない。」
西側NATO諸国が、ウクライナへの軍事支援一本槍となり、日本は憲法上軍事支援はできないが、日本政府だけでなく、野党、主要メディアまでが、西側政府の主張だけを鵜呑みにする中で、なぜ、このようなことに至ってしまったのかを、正確に知ることは重要だ。甚だしく野蛮で狂気に満ちた決断にプーチンに導いたものは何だったのか?
近い将来起こるかもしれない中国との戦争を防ぐためにも、本当のことを知り、それによる冷静な分析と判断が、何よりも必要なのである。
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