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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

二つの契約 16

2013年03月21日 | 日記

  

    ひまわりさんより(3月21日)                             世界らん展より

今日の日課の言葉は、すごく考えさせられました。「ヨハネとユダは、キリストの弟子だと告白した人たちを代表している。この二人の弟子は、同じようにキリストの模範を学び、それに従う機会を持っていた。二人ともイエスと密接に交わり、主の教えを聞く特権を与えられていた。二人はそれぞれ精確に大きな欠点があったがまた、二人とも性格を変える聖なる恵みに接することができた。しかし、一人が謙遜にイエスのことを学んでいる間に、もう一人はみことばを実行せずにただ聞くだけであった。一人が日ごとに自己に死に、罪に勝利して、真理によってきよめられていたのに、他方は、恵みの変える力を拒み、利己的な願いにふけり、サタンのとりこにされた」(『艱難から栄光へ』)

このような言葉を見ると、以前の私ならすぐに、「よし、やるぞ、み言葉を実行すればいいんだ」と鼻息荒く突き進んでいました。でも、でも、実際にはみ言葉は全く自分のものにはなっていませんでした。そして、カン先生のCDを聞いているうちに、み言葉を行うというのは、み言葉そのものであられるイエス様が心のうちに住んでくださること、それが現実のものになるというのは、「イエス様の動機と希望を与えてください」という熱心な求め、心の叫びがあり、その結果としてみ言葉を行う人になるということなのではないかと思うようになってきました。

    聖所のメッセージ(デビット・カン講演16)

ところで、私たちを、セブンスデー・アドベンチストとするのは、一体何なのでしょうか。考えてみてください。私たちが第7日安息日を信じているからですか。そうではありません。第7日安息日というのは、特異な、独特な真理ではありません。なぜなら、セブンスデー・アドベンチストは、当初はセブンスデー・バプテストの人からこの真理を学んだからです。では、私たちをセブンスデー・アドベンチストとするのは、再臨を信じているからですか。そうでもありません。私たちをセブンスデー・アドベンチストという特別な民とするのは、この聖所のメッセージなのです。イエス様が天の聖所から至聖所に移られたということを、しっかり認識、理解した上でセブンスデー・アドベンチストとなっていったのです。

なぜそうなのでしょうか。なぜイエス様は至聖所に移られたのでしょうか。それ以前の聖所の働きと、至聖所の働きとは何が違っているのでしょうか。これが永遠の福音の焦点となる部分なのです。福音には、調査審判の働きが含まれます。外庭の経験でまず私たちは、罪を憎んで義を愛することを学びます。犠牲の動物をささげる経験を通してこのことを学びます。罪人は、罪を犯したのは自分なのに、どうしてこの動物が死ななければならないのだろうと、考えさせられるわけです。そのようなことを通して、イエスキリストの犠牲、神の愛について学ぶわけです。