前回のブログ「神武天皇はいつ即位したか」の続きとして、今回の「卑弥呼と大日孁について」を書きました。私は戦後にわかに登場した「神武天皇非実在説」やそれ以後の8代の天皇を架空の天皇とする「欠史八代説」などは明らかな謬説であると考えています。
日本書紀は架空の天皇を追加する、つまり、捏造するというようなことはしていないが、その編纂者は天皇の実年代の決定に大きな誤りを犯していると見るのが正解でしょう。神武天皇の即位年を紀元前660年としたことなどは大きな誤りです。その他、いくつかの箇所で判断のミスがあると思われます。
この小論は2001年の日本語語源研究会の機関誌で発表した論文を修正したものです。まず、読みにくいところを“減筆”修正し、そのあと、加筆修正しました。
卑弥呼(ヒミコ)と大日孁(オホヒル メ )について
永井津記夫(ツイッター:https://twitter.com/eternalitywell)
邪馬台国の女王の卑弥呼は、記紀にあらわれる天照御大神であるとする説がある。安本美典氏は古代天皇の平均在位年を約10年とし、全ての天皇の実在を認めて、第一代の神武天皇の活躍年代を290年頃とする。
そして、神武天皇よりも5代前の天照大御神あまてらすおおみかみの活躍時期を、5代×10年=50年で、50年ほどさかのぼり240年頃とする。卑弥呼は『魏志』倭人伝によると239年に魏に遣使しており、安本氏の年代観に従うと、卑弥呼の活躍時期は天照大御神のそれと重なることになる。
神話の中に史実の核があることは、シュリーマンが紀元前8世紀ころに活躍した詩人ホメロスの叙事詩「イリアス」と「オデュッセイア」から紀元前13世紀に起こったとされるトロイ戦争の舞台となったトロイの遺跡を発見したこと持ち出すまでもなく、世界の歴史家の共通認識である。
日本の神話の中にも歴史的事実があることは確実である。「卑弥呼=天照大御神」説を「歴史的事実と神話を結びつけるものだ」として頭ごなしに非難する人がいるが、それは世界の常識に反することになる。
【アマテラスとヒルメ】
日本古典文学大系本『日本書紀 上』の神代上に、
既にしてイザナキの尊・イザナミの尊、共に議(はか)りてのたまはく、「吾已に大八洲國(おほやしまのくに)及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」とのたまふ。ここに、共に日の神を生みまつります。大日孁貴(おほひるめのむち)と號す。大日孁貴、此をば於保比屡咩能武智おほひるめのむちと云ふ。・・・・・一書に云はく、天照大神あまてらすおほみかみといふ。一書に云はく、天照大日孁尊あまてらすおほひるめのみことといふ。
というように記述されている。「大日孁貴」の中の「孁」という文字については頭注の中で、
この靈の巫を女に改め、孁とすることによって、女巫であることを、書紀の筆者が意味的に示そうとしたものと思われる。
とし、「靈(霊の旧字体)+女」 で「女巫」を示そうとした、としている。つまり、「孁」という文字は書紀の編者がつくり出した文字、和製漢字、「国字」であると日本文学大系本『日本書紀』の校注者は見ている。
また、万葉集巻二・167番の柿本人麻呂の歌に
天照日女之命あまてらすひるめのみこと 一云 指上さしあがる日女之命ひるめのみこと
とあり、これらから、
天照大御神=天照大日孁貴=大日孁貴=(天照)日女之命
となる。今、ここで「天照大御神」をアマテラスと呼ぶことにする。「大日孁貴」の「大」と「貴」は尊称(美称)と考えられるから、アマテラスの実名は、『日本書紀』(以後、“書紀”と表記)によれば、
日孁=日女=ヒルメ
となる。書紀が「日孁」を、注をつけて「比屡咩(ひるめ)」と訓んでおり、万葉集の「日女」も「ひるめ」と訓めるから、奈良時代には、アマテラスは、「オオヒルメ の ムチ」というように呼ばれていたことになる。
「日」はふつう「ひ」と訓むが、「ヒル」と訓むこともある。たとえば、万葉集に
赤根刺あかねさす 日者ひるは之弥良尓しみらに 烏玉之ぬばたまの 夜者よるは酢辛二すがらに (巻十三・3297)
というように「日」をヒルと訓む例が出てくる。3297番の歌の場合、後の「夜」との関連やヒと訓むと六音の字足らずとなるので、この「日」はヒルと訓むのはまず間違いがない。
『時代別国語大辞典 上代編』は「ひる」について、
ひる[昼](名) 昼。ひるま。日が出てから没するまでの間。ヨルの対。ヨに対するヨルと同じく、日ヒから派生した語か。
というように説明している。「ヒル」は「昼」という漢字を用いるのが普通であるが、「ヒ」と「ヒル」は語源的に同じで異形態(Allomorph)と考えられるものである。
この「ヒル」の「ル」については、日本古典文学大系本『万葉集 上』などは、助詞ノ(“私の本”における助詞の“の”こと)と同意の古語であると考えているが、これは語の起源とも関連する問題であり、起源的には単語の末尾についていた“r”音によるものと考える方がよいと思う。
pir(“日”を意味する非常に古い形) → pi (日)
pir(“日”を意味する非常に古い形) → piru (日)
と考える。(*注1)
さて、書紀の編者の考えに従うと、「大日孁貴おほひるめむち」のヒルメは、「日ひる女め=ヒルメ=日ひる孁め」となる。書紀の編者は「靈(“霊”の旧字体)+女」で「女巫」を示そうとした、ということは前述したのであるが、ここでさらに考えてみたい。
頭注は、「孁」という文字は書紀の筆者のつくり出したものであると考えているのであるが、もう少し単純に考えることができるのではないだろうか。
単純に考えると、「霝」と「女」の(意図的ではないかもしれない)合字と考えられないだろうか。つまり、
霝 + 女 → 孁
となる。「霝」は当時、存在した文字で、「霊(=靈)レイ」と同音で「したたり落ちるしずく」を意味するが、この文字を「霊」として使い(一種の仮借)、下に「女」を続ければ、「霊女」つまり、「ミコ(巫女)」を意味する「孁」ができあがる。
【「日孁」は記紀以前の古い用字ではないか】
『魏志』「倭人伝」に出てくる国名の「対馬」は現在でもまったく同じ用字で使われている。この用字は、編纂当時に残っていた史料にもとづいて編者の陳寿が使ったものである。「対馬」は邪馬台国と接触していた帯方郡の役人が使った用字とふつう見なされている。が、当時の倭人は魏との外交による接触で、漢字を使いこなせる階級もいたとする説があり、「対馬」もその漢字を使いこなせる倭国側の人間が書いたと見る人もいる。
小松格氏は「卑弥呼は漢字が読めた」(『季刊邪馬台国 33号』)という論文の中で、
『魏志』「倭人伝」の「対馬」は、中国側が倭人の発音を聞いて文字表記したのではなく、倭人側(たぶん邪馬台国の役人たちであろう)から示された文字をそのまま使用したものと考えられる。・・・・・・・・
現在でも対馬島は二個の島からできている。つまり「対馬」とは音表記ではなく、訓表記であったのである。
(※下線は筆者の永井による・・・漢字の音を利用した音訳であると同時にその意味を利用した訳(訓訳)も含んでいると考えた方がよい。「訓表記」という表現は「訓仮名」を連想させるので適当ではないように思われる。
という趣旨の記述をしている。
私も、邪馬台国時代の一部の倭国の役人(官僚)は漢字を自由に使いこなすことができたものと考えている。「対馬」は中国の役人が倭人の発音を聞いて表記したと見ることもできないわけではないが、小松氏が言うように倭人側の用字である可能性が高いように思う。
「対馬」は上古音、中古音で「トマ」「タイマ」と読め、「ツシマ」に近く読んでも「ツマ」「ツイマ」としか読めないが、対馬の地形をとらえて〝北島と南島が対になっている島〟というような意味を含んでいるとしたら、倭人側の表記である可能性が高くなるように思う。対馬が「倶楽部(クラブ)」のように英語のclubを漢字で音訳すると同時に漢字の意味からその内容を示すようにしたもの(倶楽部=ともに楽しむところ)としたら、中国側の役人の表記と考えるよりも、日本側の役人が島の地形の状態を考えてのつくり出した表記とする方がよいのではなかろうか。
漢字はそれを母国語としないものには習得が難しいが、いったん習得すると、その漢字を組合わせて新たな漢字を創り出すことが比較的容易にできるようになる。
「躾(しつけ)」や「榊(サカキ)」、「峠(トウゲ)」「畠(ハタケ)」、「働(ハタラク)」などは日本人が創り出した見事な“和製漢字=国字”である。邪馬台国時代の漢字を使いこなした倭人の役人は「対馬」という用字で「ツシマ」を表記できたと考えてよいのではなかろうか。
さて、卑弥呼の時代から日本側に漢字を使いこなせる人がいたとしたら、『日本書紀』の「日孁ひるめ」の「孁」をどのように考えることができるだろうか。
先に示した日本古典大系本万葉集の頭注が説くように、「孁は書紀の筆者が女巫を意味的に示そうとした文字」であろうか。「対馬」が邪馬台国時代の用字であり、もし倭人側の用字であって後世に伝えられていたものなら、「日孁」も書紀編纂時の筆者の用字ではなく、もっと古い時代から伝えられてきた用字である可能性も出てくる。
712年に成立した『古事記』の序文には、
日下くさか 帯たらし
というような用字は元のままに使って改めないと書かれている。つまり、『古事記』は参考にした古文献中の〝慣用的な訓み〟はそのままにしていたことが分かる。この慣用的な訓みがどこまでさかのぼれるのかは判然としない面があるが、『古事記』以前の古い時代にこのような慣用的な訓み、表記が存在したのであるから、書紀の「日孁」という用字も、書紀以前の慣用的な表記を示している可能性がかなりあると言えないだろうか。「日孁」の「孁」はかなり複雑で画数の多い漢字である。このような複雑な漢字を書紀の編纂時に創作する必要性がはたしてどれほどあるのだろうか。ヒルメという音を示すだけならば、
比流売、卑留咩…音仮名を用いた表記
日留女…訓仮名、音仮名を用いた表記
というように、比較的に画数の少ない簡単な文字を選ぶことができるはずである。もし、「巫女」の意味を示したいのであれば、「孁」という国字をつくらなくても、
靈女、霊女
というような文字、当時の“辞書”にも存在する文字を用いることができたはずである。「日孁=日ヒ孁ルメ」とするなら、「ヒルメ」は
日靈女、日霊女
というように表すこともできたのではないだろうか。が、書紀の編者がそうはせず、「孁」といような文字を創作したように見えるのは、「日孁」が「日下くさか」や「帯たらし」と同様に古い時代から伝わってきたものであったからではないのか。
「日孁」が書紀編纂時の用字ではなく、もっと古くからの用字として存在していたと考え、書紀の編者が示す「大日孁貴、此をば於保比屡咩能武智おほひるめのむちと云ふ」というように、「日孁=ヒルメ」とする読みを捨て去ると、
孁=靈女=女巫=巫女=みこ ∴日孁=日(ひ)巫女(みこ)
と簡単に読める。「日」をヒ、「孁」をミコと訓むのは素直な読み方である。
『古代日本正史』(同志社刊 平成元年)の中で、原田常治氏は、古事記以前の「天照大御神」は、「天照国照あまてらすくにてらす日子天火明ひこあめのほあかり奇甕玉くしみかだま饒速日尊にぎはやひのみこと」であったと述べ、現在、伊勢皇大神宮に祀られている「天照大御神」は、
御名 大日霊女貴尊おお ひ みこむちのみこと (250頁より)
であるとし、
「霊女」は今でも「ミコ」と読む。「霊女」を略字で「巫女みこ」とも書く。これに「日」を加えて「日霊女」(ヒミコ)と読むのが正しい。もしも、倭人伝にあるように、女王から中国の皇帝に送った文書が現在残っていたら、きっと「日霊女」と署名されていると思う。それを中国のほうで「卑弥呼」(ヒミコ)と当て字したものと思われる。
と説く。「霊女」という原田氏の用字は「孁」という書記で用いられている文字を原田氏流に書きかえたものと思われるが、「霊」ではなく「靈」を用いて「靈女」という用字にした方がよいように思う。それはともかく、原田氏はアマテラスを邪馬台国の女王の「卑弥呼」とし、書紀に示されているアマテラスの名前の「日孁 (=日霊女)」を「ヒミコ」と読む。原田氏は「日孁」という用字は邪馬台国の時代から使われていたと考えているようである。
※※この小論を最初に書いて2001年の日本語語源研究会の機関誌で発表した時には考えていなかったことであるが、「日孁」の「孁」という用字は、先に少し検討したように、
“霝(レイ、リョウ:雨粒の義)”と“女”の合字 (* 注3)
と考えた方が良いかもしれない。「靈(=霊)」や「霝」に「雨」というかんむりがついているのは語源的に関係があると考えられる。藤堂明保氏の『漢字語源辞典』(学燈社刊)によると、「靈(霊)」は{LEMG, LEK, LEG}という発音の単語家族に属し、「澄んできれいな」という基本義を持つ。これに密接に関連するのが「令」や「霝」の{LENG,LEK}という発音の単語家族で「数珠つなぎ」という発音を持つ。この二つのグループは発音的にも酷似し、意味的にもつながっていると考えてよいだろう。
そうすると、「孁」という字は「霝」と「女」の合字であり、「霝」は「靈(霊)」の意味で用いられて、「女」と合わせて「孁」という和声漢字が創られたということになる。つまり、「日孁=日靈女=ひみこ=“卑弥呼(魏志の用字)”」となる。
神功皇后を『魏志』の「卑弥呼」に比定した書記の編纂者は神代紀のアマテラスの「日孁」が「ひみこ」と読めることに気づいていて無視したのか、まったく気づかなかったのか、どちらであろうか。
【「ミコ」の語源】
「巫女(ミコ)」の語源について、『日本国語大辞典』は、
カミコ (神子)の上略。ミコ(御子)の義。
という二つの語源説を挙げている。『日本国語大辞典』は、「御子」の語源について、
「み」は接頭語
という語源的説明を述べているだけである。『岩波古語辞典』は、
みこ[御子]《ミは霊力のあるもの、神や天皇を指す》 ①神の子。天皇の子。男女共にいう。・・・②親王。・・・③【神子・巫女】神に仕え、神の託宣を伝える女性。・・・
というように説明をしており、「ミを神や天皇を指すことば」とし「御子」と「巫女」を同源の言葉と見ているようである。
私も「御子」と「巫女」を同源とする考え方に基本的に賛成であるが、ヒミコの「ミコ」に関しては、さらに考慮すべき点があるように思う。
「ヒジリ(聖)」という言葉がある。この語源は、
日(ヒ)・知(シリ) [漢字の「智」の構成要素を〝知∨日〟というように読んだもの](* 注2)
と私は考えている。万葉集の巻一・29番の柿本人麻呂の歌に、
橿原乃かしはら の 日知之御代従ひ じりのみよゆ (橿原の聖天子[神武天皇]の御代から)
とあり、人麻呂は「ヒジリ」を「天皇」の意味で用いており、その語源は「日知り」であるとして、この「日知」の用字を使っているものと考えられる。縄文時代の終わり頃から米の栽培が始まり、弥生時代には「米を制する」ものが支配者となったと考えてよいだろう。日本列島で継続的に安定して稲作をするのには一年のうちのいつ種を蒔くか、いつ収穫するか、いつ水田から水を抜くか、収穫したモミはどういうふうに貯えるか、というような多くの知識と技術の集積が必要であり、そのためには一年の長さを知り、一年の始まりとすべき何らかの時期を正確に知らなければならない。したがって、稲作が行われていた弥生時代には、中国の暦法が日本に導入される以前ではあるが、基本的な(冬至、夏至、特別な星の運行などを知る)太陽暦が存在したと考えるべきであろう。その太陽暦を熟知した人が「ヒジリ(日知り)」と呼ばれたのではないだろうか。つまり、古代においては〝太陽の運行を知る者〟は農耕社会において不可欠であり、
古代の指導者=太陽の運行を知る者=日知り=天皇
というような経過で、「ひじり」が天皇の意味で使われたのではないだろうか。
さて、「ヒジリ=日知り」として、「ヒミコ(卑弥呼)」の語源はヒジリと意味的に共通で、
ヒミコ=ヒ(日) ミ(見) コ(子)
と考えられないだろうか。つまり、古代の支配者は、太陽の運行を熟知する人物であるから、〝太陽(日)を見る人(子)〟と理解するのである。太陽の運行を知るためには、常に日を見る必要がある。
四千年ほど前に、古代エジプト人はシリウス(天狼星)が明け方、太陽が出る直前に東南の地平線に見えはじめるころに、ナイル川が増水(氾濫)することに気づき、それを利用して一年の長さが365日であることを知り、ナイル川の増水時期も予想できるようになり農耕開始の時期を誤りなく知ることができるようになった。これは、太陽とシリウスをの関係を利用した「太陽暦」と言えるものである。
日本では「スバルまんどき粉八合」という俚諺や稲刈りの時期を教える「スバルが二丈ぐらいに達した時」というような言い伝えがあることから、スバル(昴)を利用した太陽暦が中国暦法が入る前には存在した可能性がある。日本は湿度が高く、大陸の乾燥した地域のようには星や星座がよく見えないこともあって、名前が星や星座についていないことも多いのであるが、スバルの名は『皇太神宮儀式帳』に「天須(あまつす)婆留女(ばるめ)命(のみこと)」とあり、古代人の生活にとってスバルが非常に重要な意味を持つ星であったのでこのように固有の名を残しているのであろう。
邪馬台国の女王のヒミコ(卑弥呼)は、指導者として太陽の運行を知るために日々、太陽(と関連する特定の星)を観察していたので、
日(ヒ)・見(ミ)・子(コ)=邪馬台国の最高指導者 cf. ヒジリ=日知り=最高指導者の天皇
と呼ばれたのではないだろうか。そして、別に、書紀にも示されているように、太陽との深い関連を示す
日(ヒル)・女(メ)
という名前もあったと思われる。もちろん、ミコは「御子」の意味や「巫女」の意味を、邪馬台国の時代にも有していたと思われるので、「ヒミコ=日御子、日巫女」というように理解する人々もいたと思われる。つまり、卑弥呼は、
ヒミコ=日見子、日巫女、日御子
というように重なった意味(語源)を持つ名前として人々に理解されていた可能性がある。
書紀に出てくる「大日孁貴」の「日孁」は「ヒミコ」と訓まれるべきものではないだろうか。アマテラスは「ヒルメ」と「ヒミコ」という二つの名前を持っていたものと思われる。また、「アマテラス=ヒミコ」ということと、安本年代論から、邪馬台国の女王の卑弥呼は書紀の「天照大御神(アマテラスオオミカミ)」のことであると考えられる。
「日孁」をヒミコと読むのは原田常治氏の説であり、「アマテラス=ヒミコ」とするのは安本美典氏などの説である。私はこの二つの説を強く支持している。
本論文は、「ヒミコ」の語源を中心にして邪馬台国の女王の卑弥呼とアマテラスの関係を追求した。語源的見地から「卑弥呼=ヒミコ=日孁→ヒルメ=アマテラス」となり、安本年代論による結論と一致することになる。
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(*注1) 日本語は開音節語(CV語)で英語は閉音節語(CVC語)であるとよく言われますが、厳密な意味での開音節言語は世界に存在しません。英語の“pet”はpとcが子音(Consonant)でaは母音(Vowel)で、子音・母音・子音と並びCVCの形となります。一方、日本語の「蚊(カ:ka)」はそのローマ字をみれば、kは子音、aは母音であるから、CV語となるのですが、厳密には違います。
大阪や京都では蚊を「カー」と発音することが多く、私は大阪人ですので「カーが飛んでる」などと言う場合が多いと思います。この「カー」は発音記号で書くと「ka:」と書けますが、厳密には、
kaa ※このa は無声化したaで下に。を付けて表記するのが通常ですが、文字が見あたりませんので aで代用しました。
このaは無声化したもので/ah/と書く方が正確です。つまり、最後は無声化したaが息の音hで終わり、厳密には母音で終わっていません。次に「カ」と発音し延ばさない方の「蚊」ですが、「kaʔ」というように最後に(軽く、人によっては強く声門破裂音になっている場合あり)声門閉鎖音(glottal stop)が入っています。つまり、人間は厳密な意味で開音節語を話すことはできないのですが、h音(息の音)や声門閉鎖音ʔは考慮せずに日本語は開音節言語であると言っているのです。
「日」の非常に古い形は“pir”とし、末尾に“r”が付いているのは人間(人類)の発音の仕方として異様なことではありません(むしろ自然なことです)。日本語の非常に古い形の単語には(文献で証明できることではありませんが)“r”や“ng(=ŋ)”などが単語の末尾についていたと考えられます。そして、この末尾子音が、「ろ」や「の(な)」や「が」などの助詞を生み出したのではないのか、と私は考えています。
(* 注2) 漢字の構成要素を読んでいると考えられる言葉には次のようなものがあります。
娶…め(女)+とる(取)[取✓女]
袷…あはせ(合)+の+ころも(衣) [つるはみの袷衣~(万葉、巻十二・2965)]
艤…ふな(舟)+よそひ(義) [義✓舟(義=儀よそふ)][(万葉、巻十・2089)]
(* 注3) 合字には二、三種類あると考える方がよいと私は考えています。
① 901年に完成した『新撰字鏡』には「榊」の字が確認できます。この「榊」は、明らかに、「木」と「神」とからつくられた合字で和製漢字(国字)です。
② 海で潜水をして魚介類などをとる「アマ」がいます。表記は、海人、白水郎、泉郎などがあり、書紀では「白水郎」と出てきますが、万葉集では稿本によっては、白水郎ではなく“白と水”が一文字となり泉となって「泉郎」で「アマ」と読んでいます。
③書紀の推古天皇の16年のところに、「僧 日文」という言葉が出てきますが、次の舒明天皇4年のところには「僧 旻」と出てきます。この「日文」と「旻」は仕事の内容、事績から同一人物であることがわかっており、「旻ミン」という一文字表記が正しいとされています。これは一文字の「旻」を二文字の「日文」に分解した例でしょう。
上の①は明らかな和製漢字(国字)です。②は筆写などによって合字になってしまった例になると思われます。③は合字ではなく、“逆合字”つまり、“分解文字群”ということになります。
そして、この合字に気づかないために生じている混乱が、日本書紀と古事記で起こっている部分があると私は考えています。それは、次の機会に述べたいと思います。(2022年5月22日記)