ケンブリッジ大学のダニエル・ウォルパートさんらによる中枢神経系の運動制御ならびに運動学習の最適化を求めた計算機モデル*01では、必要な運動指令を発し、実際に四肢の筋肉を収縮させる逆モデル(inverse model)と、その遠心性コピーを使って運動系の次の状態を予測する順モデル(forward model)という、二種類の、自身の身体ならびに身体の外部世界との相互関係をあらわす内部モデルが想定されています。このモデルの特徴は、順モデルの予測結果が望まれる状態と比較され、不一致が検出された場合、逆モデルによる再調整が行われる*02ということです。そしてこのプロセスは繰り返され、ループを構成*03することになります。
生き物の振る舞いは、より高いレベルの振る舞いが低いレベルの振る舞いをつつみ込む―すなわち各層の目的は下位層の目的を包含している振る舞いの階層構造をつくっている、といわれています。ウォルパートさんらが提示したこの逆モデルと順モデルという内部モデルは、生体を構成するそうした幾層もの振る舞いレベルの各層において適用することができます。それは細胞レベルの単純な反応から、腕の動きや眼球の動きなど部位ごとの高度な振る舞いの制御、環境中におけるその生き物全体の動きや感情レベルの振る舞いまで、生体へ与えられる刺激の度合いに応じた無数の階層レベルでこのモデルは働いているのです。
ウォルパートさんらのこのモデルを有効なものとしているのは、それが地球上の生き物に課せられた「有効時間内での対処」に対応することができるということです。遠心性コピーによる運動指令の短絡化は、結果として運動を“予測”するのと同じ効果をもたらすことで反応の速度を上げることができます。素早く反応できればそれだけその生き物は生き残ることができるのです。
予測によって反応速度をあげることのできるこのモデルは必然的に、現実の反応信号ではなく、脳内にすでにある反応信号を参照することによって反応制御の内在化(私秘化)をもたらすことになります。そのもっとも結実した成果は、プリシェーピングやサッケードのようなルーティン化した運動指令群の形成にあります。生き物たちはそれらが並列に、そして幾重にも積重ねられた階層構造を永い時間をかけてつくりあげてきたのです。
ある層の振る舞いの中で、特に生体に重要な影響を与えるような信号が現れた時、それが階層を超えて振る舞いが包摂されるきっかけとなるのですが、この時の信号をダマシオさんはソマティック・マーカーと呼んでいます。ソマティック・マーカーは各層のレベルに応じて発現され、その都度、処理がより高次のレベルへと引き上げられていくことになるのです。
Filmed July 2011 at TEDGlobal 2011/ダニエル・ウォルパート: 脳の存在理由
*01:Wolpert,D.M.(1997).Computational approaches to motor control.Trends in Cognitive Science,1,209-216.
Wolpert,D.M.,Ghahramani,Z.,&Jordan,M.Ⅰ.(1995).An internal model for sensoriimotor integration.Science,269,1880-1882.
*02:私のような他者 私とは異なる他者-間主観性の認知神経科学/佐藤徳/ミラーニューロンと〈心の理論〉/子安増生・大平英樹編/新曜社 2011.07.15
*03:アントニオ・R・ダマシオさんはそれらを「あたかも身体ループ(as if body loop)」*04と呼んでいます。
*04:無意識の脳・自己意識の脳-身体と情動と感情の神秘/アントニオ・R・ダマシオ/田中光彦訳/講談社 2003