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言葉を介して仕分けられた自己の存在空間

 私たちの抽象的なことがらの認識過程の中では、「こと」が《もの》化し、《入れ物》化し、《中身化》していきます。それは抽象的な“意味”“理解”するにあたり、具体的に参照できる現実世界に則した“理解”でそれを間接的に類推した結果、といっていいでしょう。
 
環境の中の数多くの類似のイメージ(意味)の中から、経験値の積み上げによる〈重みづけ〉によって、“理解”としてのイメージが抽出される仕組みは、脳の神経回路の計算機モデルであるニューラル・ネットワーク・モデルによって明らかにされようとしています。このニューラル・ネットワーク・モデルによる画像認識の、類似のものを選択、抽出していくプロセスを見ていると、メタファーを生む脳内のシステムはその延長にあることが容易に想像できます。構文論的構造をもつ“言葉”によって考える「自己」意識を持った人類が、類似の“言葉”によって様々なものを結び付けるプロセスとは、脳内の神経回路のこのような働きから見ると、ある意味自明なプロセスといっていいでしょう。
 
環境にある“意味”の“理解”を操作するために生まれた言葉は、根本的に現実世界での経験値の積み上げ、〈重みづけ〉が不可欠で、逆に言えば現実世界に住み込むことによる現実世界との相互作用がいかに重要であるかを示しています。
 
抽象的な「精神的表現」は、身体的な「感覚的表現」とのからみによってはじめて理解可能な存在になる*01と瀬戸さんはいいます。そして、その媒介項が「空間」だ、と喝破するのですが、ここでいう空間とは、人間たちが住み込み、“意味”が生まれる物理的世界の中で、考える「自己」意識によって、言葉を介して、内-外に“意味”を分けるものとして仕分けられた、自己の存在空間のことをさす、といっていいのではないでしょうか。
 
瀬戸さん*01が指摘するように、抽象的な表現の理解には、空間的な表象が「決定的な」役割を果たしています。精神(抽象)と空間(具象)とのこの「共働」の全過程こそ、シンボル形式としての言語の意味形成基盤となる、と瀬戸さんは続けます。私たちが「心のなかで」という表現をするとき、「心」という精神的表現は、「入れ物」という空間的に知覚可能な感覚的表現の媒介を経て、はじめて私たちの認識の経路に入ってくる*01のです。


言葉を介して、内-外に“意味”を分けるものとして仕分けられた自己の存在空間

*01:空間のレトリック/瀬戸賢一/海鳴社 1995.04.12

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