いや、唯の思いつきの思考なんですが・・・敢えて信じるという時はどこかで疑っていやしないか、と思ったんですがどーなんでしょうか?
あれです、裏切られるなんて露ほども思って居ない間柄に信じるなんて言葉は無用なわけでして、そもそも信じるとか疑うなんて感情は存在しないと思うんであります。
なんと申しましようか、空気みたいな存在とか関係と申しましても状況は様々でして、よく言われる長年連れ添った夫婦なんてのがそれでありましょうが、知り合いとか職場の関係なんてのでも空気みたいな存在は在るわけです。
で、それらは表面から見ると希薄な関係と言えなくも無いと思うんであります。
しかし、希薄な関係というとどーでも良いのかというとそんな事では無く、まさに空気的で、それが無ければ窒息してしまうんだけれども、生活の中での意識には無い存在、と言えるかと思うわけです。
いや、この論は冒頭に述べた、疑ってるからこそ信じるなんて言葉が出る、が全てなんですが、敢えて屁理屈を続けると、信じるとは願望でして我儘な感情だと思うわけであります。
さらにいうと、あなたを信じると言った場合、相手に裏切らないでと釘を刺してもいるわけで、私の考えでは、どーしても我儘な願望としか見えないわけですが如何でありましょうか?
いや、信じないと話は進まないのが世の中だというのは理解しつつ語っているわけですが、例えば商取引などを考えれば明白なんですが、約束は破られるから署名してハンコを押して固めてしまうわけであります。
なんと申しましょうか、ここまで考えると、信じるなんて言葉はひょっとすると最低最悪の言葉じゃ無いかと私ゃ思うわけであります。
さて、曖昧なうちに落ちに行くわけですが・・・。
信を分解すると、人と言でありまして、人の言ほど怪しいものはなく、だからこそ信となったんじゃ無いかと。
だから、信じるというのは疑うと同義語であると思うのであります・・・なんちゃって。
いや、単なる言葉遊びなんですけれどもね、歳をとったら人を信じる事が無くなったと言いますか、その手の表現を使う場面が無くなったなと、ふと思ったわけであります。
で、信じる事が無くなったのか、と考えたら、逆に疑う事が無くなったに行き当たったわけでして、だったらそれは同じ事だったのであるな、と私の中でまとまったんですが・・・はい、そこのあなたの異議は認めません。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます