川塵録

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ペンネームのジャーナリストは存在してはいけない

2023年08月15日 | メディア/SNS
ペンネームのジャーナリストは存在してはいけない。

そんな仮説を立てている。

ペンネームのいわくつき「ジャーナリスト」鈴木エイト氏が、12年半拉致監禁された被害者の後藤徹さんを、公然と「引きこもり」呼ばわりして、その真意を問われて「どーでもいい」「被害者面」「被害者アピール」と侮辱三昧。

Twitter民からは人非人扱いされている。

なんでこんなエイト氏のような人格ができあがってしまったか。

結論を言うと、エイト氏が「ペンネームであること」が、一つの、いや、最大の理由と思われる。

最高裁で2200万円の勝訴判決を勝ち取った後藤徹さんを、エイト氏は、昨年、「引きこもり」と揶揄していじった。このいじりは、彼のいじりエンタメ体質から来る、行き過ぎた勇み足としてまあ解釈できる。

しかし、今年7月末、その「引きこもり」発言の真意を問われて、エイト氏は、「どーでもいい」「被害者面」「謝る気はない」などと開き直り続けている。

これは、常識人の感覚から、実に不可解で面妖。

なんでこんな人間ができあがっちゃったのか。

そのヒントは、彼(本名:田中清史)が鈴木エイトというペンネームであることにある。

ペンネームを使うと、自分のほんとうの人格とは乖離した、別の人格ができあがっちゃう。

具体的には、「鈴木エイト」は、10年以上、いじりネット新聞で、マニア/オタク相手に独りマスターベイションするようにシコシコ書いて独り溜飲を下げていた。いじり人格。おちょくり坊主。

もう、いじることが決定づけられた人格。いじらなければエイトではない、みたいな。鈴木エイトの存在意義からして、「いじる」ことが使命。

その「いじりエイト」の人格が、昨年の暗殺事件以降にチヤホヤされて、「山上特需」の時流に乗り、肥大化・強力化した。

そこで田中清史氏は、「しめたしめた。俺は鈴木エイトのままでいいんだ」と勘違いした。

マスかき活動が突如に脚光を浴び、陽の目を見て、もてはやされた。だからので、「あぁ、このまま気持ちよくマスをかいて(=イジって/おちょくって)いればいいんだ」と勘違いした。

つまり、田中清史としては「後藤さんに謝罪したほうがいいのかな」と思いつつ、「ええい、ままよ、俺はいじり屋鈴木エイトだ」と振り切っちゃった。

だから、エイト氏は、「謝罪も訂正もしない」傲岸不遜な鉄面皮を演じ続けている。

田中清史を取るか、鈴木エイトを取るか。

彼は後者を取った。「マスかきブログで気持ちよくマスをかいているいじり活動家・鈴木エイト」のまま、行けるとこまで行っちゃえ!と踏み出した。

リアルの人格よりも、ペンネームの人格を優先させた。

____________

一般論として、匿名やペンネームで活動すると、自分とは違う人格が出来上がる。特に、リアルではないネット空間を主戦場にしていると、露悪的な人格が肥大化する。

例えば私だって、リアルの中山達樹とネット(このブログとかTwitter)の中山達樹は違う。

ある意味、人格を使い分けている。私の場合、「普通の中山達樹」はネットに顕現化させない。そんなの面白くないし、誰も期待していないだろうから。

つまり、「本当のリアルの中山達樹」の中の、尖った部分、人とは違った部分しか、ネット上には表していない。

私のことはともかく。

本名とは別にペンネームで活動している人はなおさら。

田中清史氏は、きっと、「田中清史と鈴木エイトは異なる」と感じて、シチュエーションによって、巧みに使い分けている。

ペンネーム氏は、リアルの人格では担保されない安全地帯にいる。またはそう思っている。だから、時に、歯止めの効かない、露悪趣味で、非倫理的な発言をする。

だから、世上、ペンネームのジャーナリストは存在しない。

ペンネームの人は、信頼されない。

徹頭徹尾「リアル」であるべきジャーナリズムにおいては、実名であることが、ほとんど絶対条件。

思い起こしていても、立派なジャーナリストで、匿名・ペンネームの人はいない(はずだ)。

1人、橘玲さんが例外か。でも、彼は、2002年の『マネー・ロンダリング』で知られた作家。公式サイトでも自らを「作家」「経済作家」と名乗っている。こちら

作家とジャーナリストは違う。

作家は、空想の世界。実名である必要はない。ペンネームでいい。司馬遼太郎、城山三郎、、みんなペンネーム。

ジャーナリズムは、リアルの世界。実名でないといけない。

大作家が、ジャーナリスト的に振る舞うことはあっても、それは例外。綿密な取材をして、膨大な資料を読み、広く理解される立派な文章を書き、広く支持される作家は、信頼されるに値する人格を身につけている。ペンネームでも。

だから、作家(ないしは大作家)は、ペンネームのままでも、ジャーナリスト的に活動することが許される。

しかし。

鈴木エイト氏は、大作家ではない。昨年の暗殺前に、彼の記事が新聞に出たのは、1記事だけ。「ジャーナリスト」としては全く認知されていなかった。

ペンネーム氏が、「ジャーナリスト」と名乗ることは許されない。マスメディアも、ペンネーム氏を、「ジャーナリスト」扱いしてはいけない。

ペンネームのジャーナリストは存在してはいけない。

ペンネームであることが、そもそも「ジャーナリズム」に反するから。

これは私の個人的な希望的見解なのですが、人を活かしもし、殺しもする「ジャーナリズム」は、社会の木鐸たらんとする、プロフェッショナリズムに近いものであるべき。

ペンの力は時に肥大化し、巨大化し、凶器にもなる。そのペンの力に対して「畏れ」を抱く者のみが、「ジャーナリスト」であるべきではなかろうか。
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なお、橘玲さんも、その公式サイトで、「匿名の人間が、実名で社会生活を送るひとに言いがかりをつけるのはやはり公平性を欠く」と公式ブログで述べ、実名人を批判しないことを自らに課している。

すばらしき自制心と自律心かな。

(とはいえ、現在の世評からして匿名人たることを余儀なくされている被害者の方は、遠慮なく匿名で言論活動を続けてください)


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