古稀を過ぎた主夫の独り言日記

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在りし日の我が家のジャカランダ

2012-03-22 21:43:31 | 日記
在りし日の我が家のジャカランダ
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今は亡き我が家のジャカランダ~2007

2012-03-22 17:51:12 | エッセイ
 1978年10月、私は青年海外協力隊の隊員として赴任地マラウイに向かう途上にありました。場所はケニアのナイロビ。トランジットの2日目だったでしょうか。異国、大都会の公園で紫色の桜が見事に咲き誇っている。もちろん初めて見た華ではありましたが霞むようなその淡い紫色は日本の四月を思い起こさせました。それがジャカランダという花だと知ったのは赴任地に到着してからです。現地語を習得するため、ブンダ山麓の村にも見事なジャカランダが咲き誇っていました。このジャカランダが、我が家のジャカランダの親となるのです。
 美しいものは誰の目にも美しいわけではありません。日本人は四月になると桜を愛でます。この慣習は千年以上前の貴族社会にはありました。しかし、庶民はどうだったでしょうか。その日その日を生き抜くために労働を強いられている。桜を見上げる気力すらなかったかもしれません。山麓の村人もかつての庶民と同じでした。村人に見向かれもしないその華の下で、私は毎日立ち、見上げるのでした。ある日ふと下を見ると煎餅のような、不思議な丸いものがいくつか落ちている。これはジャカランダの種に違いない。私は目についた幾つかの煎餅を拾って、ポケットに押し込みました。
 部屋に戻ると、その煎餅を観察しました。直径7センチメートル程度のそれは磨くと見事な飴色に光りました。爆ぜ掛けた煎餅があったので一枚の煎餅を二枚の煎餅のようにはがしました。するとそこには沢山の種が並んでいます。大煎餅の中に沢山の子煎餅。丸い茶色に透き通った羽を纏った小さな種たちは、子煎餅として詰まっていました。本当ならば木に成っているときに大煎餅が開き、子煎餅が風に舞って遠くに運ばれるに違いない。ところが、何かのはずみにこの大煎餅は開く前に地面に落ちたのだろう。
 私はこの種をマッチ箱にいっぱい詰めて、郵便で親元に送りました。両親はその種を大切に育ててくれ、二年後家に帰ったときは数本の苗になっていたのです。「これはとても素敵な華が咲くんですよ。あんな素敵な華をきっと見ていただきます。」
 数年後、鉢植えのジャカランダは数輪の花を咲かせました。嬉しかったですが、私の望んでいたあの素敵な華ではない。私は地に下すことを決めました。そのジャカランダは15年後見事な花を咲かせたのです。この花を見て数年後父は他界しました。
 大木に育ったこの木は、つましい我が家の庭には大きすぎました。六月になると遠くからこの木を鑑賞に来てくれるファンもいたのですが、素晴らしい姿を見せる南側にはいつしか何軒もの家が建ってしまいまいた。さらに追い打ちを掛けたのは台風です。大風は脆いこの木の大枝を何本もへし折りました。心を痛めながら私は大枝を総て落としました。この惨めな木を見上げる度に、可哀想なことをしたと心を痛めているのです。
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記念すべき第一号は・・・

2012-03-22 12:55:39 | エッセイ
 昨日、特殊な土木作業機械を製造販売している会社を訪問した。ここの社長は私の中学来の友人である。
 実は、彼からあることを頼まれた。頼まれると「いや」と言えない性格で3週間ほど彼のために動き回っている。簡単に言えば仕事と人のマッチメーカーだ。ボランティアでやっているが、そんなことは今はどうでもよい。
 昨日もデザイナーを同行した。マッチメークする手始めに、社長が仕事の内容に深く入り込んだ。私は元技術屋であり、企画マンでもある。うずうずするものが抑えられない。工場見学に至ってアドレナリンがどんどん分泌される。興奮が抑えられない。定年退職して半年以上たつが、これまで仕事のことを振り返ることはなかった。仕事に戻りたいと思うことすらなかった。私はきわめて健全だと考えていた。
 ところが仕事の現場に入り、専門的な話になって行けばいくほど、話題にのめりこんでいく自分がいる。『還暦でスパッと仕事はやめるのだ。』『これからは全く別の生活を始めるのだ。』と言っていた半年前の気持ちとは裏腹、『俺も仕事好きなんだ』と気が付いた。
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