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和牛はなぜ美味しいのか(後編)

2020年09月16日 | 日本
(前田周助と但馬牛ものがたり)
江戸時代、香美町小代区は小さな田畑で農家を営む谷間の村で、けっして裕福な村ではありませんでした。そこに住む前田周助という牛飼いは、小さな頃から大の牛好きで、よい牛を見定める眼を持っていました。頭もよく、知恵の働く人だったといわれています。

周助さんは、良い牛をつくり売ることで村の暮らしをより豊かにしたいと思いました。いちはやく「良い母牛からは、良い雌牛(めうし)が生まれる」と気付き、良い牛が生まれたと聞きつければ、生まれた日付や父牛、所有者など細かく記録を付け始めます。そして私財を投売り、3歳の雌牛の逸物(いちもつ:優れた牛)を、破格の値段で買い入れて優良牛の生産に成功しました。現在「系統」の基礎となっている母牛には、今の価値にして2,000万円もの大金を払ったと言われています。

そして、とうとう『但馬牛』とよばれる前の『小代牛』の基礎となる母牛に出会いました。この牛が産む子牛はみんな母牛に似た良い牛になり、またその牛も良い牛ばかり産みました。他の地域から、これらの母牛を売って欲しいと切望されましたが、周助さんは、絶対にこれらの牛を小代から出さず、小代の中で「小代牛」の一大系統を作ることに成功しました。

これらの牛は「*周助蔓(しゅうすけづる)」とよばれ、優れたメスの血統集団として知られるようになりました。こうして、周助さんの努力で小代の谷の子牛は、その後高値で飛ぶように売れ、『小代牛』は但馬の牛の代表となったのです。

(牛を愛する人々が育んだ『但馬牛』)
但馬牛はもともと田畑を耕すために飼われていて、小柄で小回りがきき、とてもよく働きました。田植えの時期が終わるとえさの草刈り、牛舎の掃除で管理が大変なため、昼間は集落から離れた山の上の放牧場で飼われていました。小代では集落から4km、標高500mの場所で放牧されていました。

但馬では「弁当忘れても傘忘れるな」と昔からいわれるほど、雨の多い地区で、昼夜の寒暖差も大きいのが特徴。山々には豊富な水と、その恵みの野草や薬草も豊富にありました。美方郡の植生(しょくせい:ある地域に集まって生育している植物の集団)は屋久島や小笠原諸島にも並ぶほど、豊かだという報告もあるのです。

但馬牛は、夏の間は、その柔らかくて栄養豊富な野草や薬草を食べ、毎日険しい山を往き来することで、足腰の強い、健康で丈夫な牛となっていったのです。
また雪の多い冬は「まや」と呼ばれる牛の寝床で飼われ、栄養が少なく硬い稲わらや干し草を与えられていたので、辛抱強く粗食にも耐えられる牛になったのです。

そうして鍛えられたしなやかな筋肉と、寒さから身を守るために細かい脂肪が入り、肉質に『霜降り』状態がうまれたといわれています。
また、愛情を込めて飼われていた牛は、毎日のように丁寧にマッサージをしていたため、皮膚や毛が柔らかくなり、肉質も柔らかくなったと考えられています。

大事な働き手で、子牛を産んで生活を支えてくれる牛を家族の一員として、同じ屋根の下の一番日当りのいい場所を牛の寝床にし、愛情深く育てていました。
小代では、硬い稲わらや干し草を、囲炉裏の鍋で何時間も煮て、柔らかくしたり、家族のご飯を牛のために茶碗一杯分残して、食べさせたりもしていたそうです。

長い年月、豊かな自然環境の中、何代にもわたって良質な草を食べ続けたおかげで、肉質は柔らかく、良質になり、毎日の運動で鍛えた体は健康で美しくなりました。なにより、家族の一員として、愛情たっぷりに育てられてきたため、おとなしい、飼い主のいうことをよく聞く、働き者の牛となったのです。

 小代の牛は、閉鎖された、しかも素晴しい環境の中で、日本一の牛となるべく、守られ続けてきたのです。霜降りの入る能力を持つ但馬牛は、山に囲まれた但馬地域の中だけで1200年以上も前から交配を重ね続けて生まれた品種です。これを「閉鎖育種」と言い、現在では血統の差別化を保つために、意図的になされますが、小代の小さな谷で、偶然にも、優れた遺伝子がよい形で引き継がれてきたのです。

新しい但馬牛の血統は、その基礎となった牛『あつ』と、牛たちが暮らしていた『熱田村』にちなんで『あつた蔓』と名付けられました。
 現在、全国の黒毛和牛の99.9%がその子孫と判明した名牛『田尻号』は、この『あつた蔓』の中から生まれたのです。

(究極の牛『田尻号』の存在)
『田尻号』は田尻松蔵さん宅に昭和14年に生まれました。
『田尻号』は他の種オス牛の倍の年月を病気することもなく、昭和29年まで活躍したのです。田尻号の優れた点は、遺伝力の強さ。特に肉質に関する遺伝的能力は優れ、世界に誇る和牛肉の原点は、この『田尻号』にあると言ってもいいでしょう。

但馬牛の歴史を語る上でなくてはならない人物…その二人目が、この田尻松蔵さんです。松蔵さんも、周助さんと同じように、小さい頃から大の牛好きで、良い牛を見る眼を持っていました。そして、田尻号の母牛「ふく江」に出会い、松蔵さんも、多額の借金をして、「ふく江」を手に入れたそうです。よほど素晴しい母牛だったのでしょう。「ふく江」を大変かわいがり、毎日運動、マッサージを欠かさず、良い草を食べさせるために、山を切り開いて草地まで作ったそうです。

 田尻号はこの「ふく江」が生んだ4頭目の子牛でした。松蔵さんは、この子牛が良い種オス牛になると信じて疑わず、「ふく江」と同じように、毎日運動と、手入れを欠かしませんでした。
 
田尻松蔵さんと但馬牛の「ふく江」号   但馬牛のルーツ「田尻号」
(名牛「田尻」号の母牛)

松蔵さんの日々の努力により、田尻号は生まれて半年で美方郡の種オス牛候補として認められ、現在の但馬牛の元祖となる第一歩を踏み出したのです。
松蔵さんは、田尻号を生産した功績が認められ、昭和30年に黄綬褒賞を受賞しています。

 
(名高い『但馬牛』の礎を築てきた小代)
小代の地に、優良牛を生産するのに適した自然環境と地理的環境が揃っていたこと、そして、前田周助さんや、田尻松蔵さんのように、良い牛を見極める力を持ち、優良牛生産に情熱を注いできた人々の努力があってこそ、生まれた『但馬牛』。

そして、今もなお、愛情を注がれて大切に育てられている『但馬牛』。
 「和牛のふるさと」として、繁殖農家は今も神戸、松坂への和牛の出荷をしている。

 小さい規模の農家が多く、棚田の畦(あぜ)の草を牛の飼料にしたり、牛堆肥使用など農畜連携の循環型農業が根付いている、という点が評価され、平成24年に『日本で最も美しい村』連合に加盟が認められました。また、『美方郡の但馬牛システム』が日本農業遺産にも認定されたのです。

小代の「奇跡の4頭」と呼ばれる牛たち。そして「田尻号」。この牛たちがいなかったら、現在世界中に広がる「和牛」は存在していなかったでしょう。

世界に誇る和牛ブランドの生みの親『但馬牛』は、何百年もの間、豊かな自然と、心から牛を愛し育てる人々の惜しみない努力によって、生まれたのです。

---owari---
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