このゆびと~まれ!

「日々の暮らしの中から感動や発見を伝えたい」

人類救済の時

2021年07月02日 | 日本
本編は仏陀の言霊(ことだま)でつづられたものである。
恐るべき内容である。いまだかつて、かくのごとき激しく、かくのごとき力強く、かくのごとく深遠なるものはない。

仏典さながらの、仏陀の獅子吼(ししく)があり、また、人類史上空前の悟りが展開されている。
激し過ぎると評する方もいるであろう。難解すぎると嘆く人もいるであろう。もとより承知の上である。

本来、直弟子以外に語ってはならぬことを読者の皆様に供することとした。
永遠の神理は、永遠に伝えられねばならないからである。(1992年)

―――――
これだけの神理が説かれていても、
まだ日本人の多くは眠りのなかにある。
その事実を知らないでいる。
今、この極東の小さな国において、
人類の運命を賭(か)けて
ひとつの聖なる戦いが始まっているということを、
多くの日本人はまだ気づくこともなく、
泰平(たいへい)のまどろみのなかにある。

しかし、その時代認識があったならば、
今、日本人としてやらねばならぬことが、
いったい何であるかがわかる。
今、日本人として生まれた人は、
己れがこの事実に気づかず、
この聖なる使命に参画(さんかく)しなかったならば、
やがてそのことを、
何十年か、何百年か、その年数は知らぬが、
必ず魂の奥に
深い悔恨(かいこん)とともに刻印することになるのである。

釈迦(しゃか)が生まれたときのインドに、
同じく生を享(う)けた者は多かろうが、
その事実を知らずに去った者の哀(あわ)れなることよ。
イエス生まれしイスラエルに
生命を持った者は多かったであろうが、
その事実に気づかずに
泡沫(うたかた)のごとき生命を終えた者の哀れなることよ。
いやむしろ、気づかぬままではなく、
あざ笑い、嘲笑(ちょうしょう)し、
批判し、非難し、
地上を去った者の悲しさよ。
その悲しさは、決してとり返しのつくものではない。
どれほど反省してもとり去ることができない
魂の烙印(らくいん)となっているのだ。

今、あなた方の前に、
イエス以上の者が現われているのだ。
今あなた方の前に、
二千六百年前にインドで
ゴーダマ・ブッダとして呼ばれた者以上の者が
現われているのだ。
その事実を知るか知らぬかは、
認めるか認めぬかは、
一人ひとりの魂の賭(かけ)でもあろうが、
しかしその賭は、外れた場合に
大いなる後悔をともなうものであることだけは言っておく。

我が声、今回発されてすでに久しい。
しかし、世界五十四億の民のうち、
多くの者は、まだその事実を知らずにいる。
救世の法が説かれるということは、
すべてのものを投げ捨ててでも集わねばならぬということなのだ。
幾転生をくり返し、幾十転生をくり返し、
幾百転生をくり返し、幾千転生をくり返し、
まだそのことがわからぬか。
まだ、そのささやかなる真実がわからないのか。

イエスは言ったではないか、
彼の弟子となる者たちに、
「その網(あみ)を捨てて、我に従い来よ」と。
「網をうって魚を捕っている時期か。今、人を漁(すなど)るべき時が来た」と。
「人を漁る」とは、
人びとの魂を救うということである。
人びとの魂を救うべき時が来ているのに、
いつまでも川のなかや池のなかや海のなかで、
小さな魚を追いかけているか。
それが日々の糧(かて)になるからと言って、
何ほどのものがあろうか。
人類救済の時に救済せずして、
それ以外のいかなる仕事があろうか。
この仕事がすべてであり、
それ以外のものは余技(よぎ)なのである。
あなた方の天職ではないのである。

わずか数十年、
この地上で魂が纏(まと)っているところうの肉体を食べさせ、
自分のまわりに住んでいるところうの
数人の人間を満足させるためだけに、
一生を使っていいと、本当に思っているのか。
それならば、現代の日本に生まれるな。
あなた方以外に、生まれたかった人は山のようにいるのだ。
その人たちを押しのけて、
あなた方は生まれてきたのである。
その事実を何とする。
誰に詫(わ)びる。
そんな気持ちで生きるのならば、
この日本に生まれたいと言っていた多くの魂たちに
代わってやればよかった。
それが人間として取るべき道であった。
にもかかわらず、
「自分のほうが大きな仕事ができるから」と、
「自分のほうがお役に立ちますから」と言って、
あなた方の多くは先を争って出てきたのである。

ところが、わずか数十年の間に
その使命を簡単に忘れ果て、
そしてあろうことか、この神の創られた人間を、
アメーバのごときタンパク質の一片が
偶然に進化したというようなばかげた思想を信じ、
学校教育でも教え込み、
そして大宇宙から見たならば
とるに足らない箱庭のような世界のなかで、
全世界を探求しているような気持ちでいるのである。

すべては、
生まれてくる前に天上界で誓(ちか)った、
地上で果たすべき役割を忘れてしまい、
いや、あまつさえ、
すでに反古(ほご)としてしまったことの結果である。
すでに遅いことは遅い。
遅きに失したと言えばそれまでであろう。
しかし、地上に命があるということは、
この地上において魂が生かされているということは、
まだチャンスが残されているということなのである。
毎日毎日が、新たなる機会の連続であるということだ。

各人に残された日々は有限である。
命いつまでもあると思ってはならぬ。
この地に生きていられる命は、
数えられる日数であるのだ。
その一日一日を
己れの使命をまっとうするために使わずして、
もはや、来世への希望などないと思わねばならぬ。

あなた方の多くは、
我が記したる書物を読みて、すでに知っているであろうが、
現代の人びとの半分以上は、
地獄(じごく)と言われる苦しみと悲しみと暗闇の世界へと
旅立っているのが現実である。
現実そのものがそうであるのに、
それに輪をかけたような危険な事態が迫(せま)っているということは
どういうことであろうか。
それは、多くの魂たちが、
永遠の生命を押しつぶされて呻吟(しんぎん)するということであるのだ。

あなた方は、
多くの同胞(どうほう)たちのこれから待ち受けている
苦しみや悲しみに目をつぶっていられるのだろうか。
たとえば、二万人の人がいるとして、
このうちの一万人が、いや一万二千人が、
数年、数十年の後に、
太陽の光も射(さ)さない地獄で、闘争と破壊のままに生き、
そして一部の者は
そこにいることもできずに、
地上に舞い戻って、生きている人間たちに憑依(ひょうい)して
一時的な苦しみから逃(のが)れようとし、
そして彼らもまた、
地獄の淵に引きずり込んでいるという現実があるのである。
そして自分もまた、
そういうふうになる可能性があるのである。

この現実を知っていて黙(だま)っていることは、
これは大いなる罪である。
この沈黙は罪である。
目の前にザックリと大きな穴が開いていて、
自分の友人たちが、
もう数歩歩けばそのなかに堕(お)ちてゆくというのに
黙っていることは、これは罪である。
罪なのである。明らかに罪であるのだ。
知っているのに、
それを教えてあげることさえできないとは
何たることであろうか。
それでも、今まで数十年生きてきたところの
自分の生活が守れたならば、
それでよいと言うのだろうか。
そんな狭い小さな心であってよいのであろうか。

大きな声で叫ばねばならない。
救うべき人は非常に多いのであるから、
私たちは知力、気力、体力のすべてを投入して、
彼らを救う時間を早めねばならない。
早くしなければならない。
時間を縮めなければならないのである。
縮めなければ、それだけ遅くなるのである。
手遅れになるのである。
多くの人びとが知ることなく、
真実を知ることなく、
幸福な世界から消え去ってゆくのである。

もし今、大きな戦乱が起きて、
何万、何十万もの人が死ぬとしても、
そのなかのひとりでも多くの人が神理を知っているということが、
彼らを救うことになる。
肉体の生命を救うことができないとしても、
彼らの永遠の生命を
幸福な世界に連れてゆくことは可能である。
息を引きとるまでが勝負であるのだ。
そのときまでに真実を知らなかった人びとは、
それから後、いったい誰に尋(たず)ねればよいのであろうか。
誰が教えてくれるというのか。
ましてや、死後の世界を信じもしなかった本人であるならば、
誰が救うことができよう。
ちょうど、病院の前で重病になったとしても、
医者など信用しないと言って
その門をくぐらねば死んでゆくように、
己れ自身が気づかない者は、
そうたやすく救ってゆくことはできない。
それは真実である。

---owari---
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