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山之内一豊とその妻・千代のお話(前編)

2021年05月20日 | 歴史
(千代は非凡という「うわさ」を黄金十枚で買った)
伊右衛門(一豊)が黄金十枚で馬を買ったといううわさは、長浜城下だけでなく、安土城下にもひろまった。
「ほほう、山之内伊右衝門とはそれほどの男なのか」
伊右衛門を知る者も知らぬ者も眼をみはった。

もともと平凡な男、という印象しか家中の者はおもっていない。このうわさで、人々の心のなかにある伊右衛門像がいっぺんに修正されてしまった。
人が、他人を見ている眼は、するどい一面もあるが、他愛もないうわさなどで映像をつくってしまうようである。千代は、そういうことを見ぬいていたようであった。

言っておくが、人々は、奥州産の駿馬を手に入れた、というそのことに驚いたのではない。
「黄金十枚」
に衝撃をうけたのである。

この時代の人は、黄金という稀少金属に対して夢のようなあこがれを抱いていた。
桃太郎が、鬼ケ島からもってきた宝物は、金、銀、珊瑚、綾錦である。室町時代から戦国初頭にかけて世にひろまったこのおとぎばなしは、当時の人の宝物へのあこがれをあらわしている。

貨幣としての黄金を武士が蔑視するようになったのは江戸時代になってからで、戦国時代にはそういう精神習慣はなかった。むしろ無邪気なあこがれだけがあった。黄金十枚、といううわさを聞いたとき、それだけで織田家の家中の者は伊右衛門が英雄にみえたであろう。

ああ、もう一ついっておかねばならない。
黄金を天下流通の貨幣にしたのは、秀吉である。秀吉の天正大判がそうである。家康がそれをまねて、慶長大判、慶長小判をつくった。

したがって、千代がその鏡の箱にしまっていた黄金は、そういう正式通貨ではない。ただ金塊を槌(つち)で打ち平めたもので、天正大判のように規則ただしい槌目もなければ、何両とかいた墨字もなく、極印もない。しかし量目は、のちの天正大判とおなじように、一枚四十匁(もんめ)ぐらいだったらしい。千代の当時、四十匁で、黄金一枚、と俗称していたようである。

とにかく、たいしたものである。
「伊右衛門は、二千石の身上で三千石の身代相応の兵を養い、なおかつそれほどの財貨をもっていたのか」
非凡、という印象をあたえた。

それがやがて、
-内儀がもっていたらしい。といい伝わったとき、うわさは一層に感動的なものになった。
「伊右衛門殿は、よい妻女をもたれている」
そういううわさほど、山内家というものの奥行きの深さを印象させるものはない。

織田家の戦闘員は、五万である。三人ずつの家族をもっているとして、十五万人が伊右衛門のうわさをした。
娯楽のすくないころだから、他人のうわさが、劇、小説などの役目をはたしている。山之内一豊夫妻のはなしというのが、当時はおろか、こんにちまで人に知られ、戦前は小学校の国定教科書にまで載った、というこの挿話の根強き生命は、右の理由によるものだ。

千代は、馬などよりも、その「うわさ」を黄金十枚で買ったといっていい。馬は死ぬ。
うわさは死なないのである。
伊右衛門は、家中で名士になった。

---owari---
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