Smudge!!

泥だらけになってでもやるしかない。

寝食のある有難み

2011-03-22 00:29:46 | 東日本大震災

歩いたりもしたので、自転車で約2時間かかって、明日からの仕事に備えて実家から自宅に帰ってきた。
実家のある塩竈市はまだコンビニもほとんどやっている様子もないし、信号もまだ復旧していない所も多い。海の近くの方では岸壁の上にだけじゃなく、数年前に出来た海近くのスーパーの駐車場にまで船が打ち上げられ、車道の両脇には津波の犠牲になった車の骸や様々な残骸。道路一面を覆っているのは海底のヘドロや砂浜の白い砂、色んな砂や土。瓦礫も山積みで、片付けもまだまだ進んでいない。町は灰色になった。
そして去年まで住んでいた多賀城市も海に近い方は壊滅的。引っ越していなかったら、危なかったかもしれなかった。今日の帰る途中に給水車を見かけたので、まだ断水が続いている地区があるのだろう。きっと皆、ボクの地元の人と同様にあれから未だにお風呂も入れてないんだろう。早く復旧されるといいなと思う。一部の地区では下水処理が追いついていなく、下水がマンホールから溢れている。
塩竈市や多賀城市は仙台市に比べたら、まだ食料や燃料、日用品などの物資が届いていない。しかし、この問題も少しずつではあるが確実に解消されてきていると聞いた。とにかく今は我慢するしかないようだ。
ボクは地震が発生して、小学校、児童館、車、知人宅で夜を過ごした。
地震発生直後の避難所での生活はとにかく寒く、そして暗い。ボクが避難した小学校は体育館が破損し、教室の窓も割れたりしていたので、廊下などに人が溢れていた。廊下は底冷えもあるし、どうしても昇降口が開いているので寒い。そして、明かりがない状況が不安と余震による恐怖を余計に膨らます。食事は赤ちゃんやお年寄りが優先されるので、男性は断られたりもした。それでも一日に一口は口にしないと、この先(いつまでこの状況が続くのか分からなかった)体力がもたないと思い、もらえそうな所(公園での炊き出し)・タイミングを探した。
車で過ごした夜も寒かったが避難所の寒さに比べたら、と思い、耐えた。
知人宅でお世話になった時は、電気等もなかったけど、だいぶ救われた。家族の人たちにも温かく、優しくしてもらえた。これは本当に感謝している。食料は買うのに毎朝、一店舗最低3時間くらいは並び、数少ない商品を制限のある中で購入。自分の車じゃないけど、ガソリンに並んだ時は「ガソリンありません」の看板があっても「開くかもしれない」と言うほとんど0の可能性にかけて毎日並び、累計24時間以上の並び時間で入れることが出来た(それでも最後はガソスタ関係者からの有力な情報に救われた)。
雪が降ったり、強風だったり、過酷な状況で並んでいた時もあった。それでもジッと待つしかない。
明日から仕事が始まるとスーパー等に並べないので一人暮らしは食料確保の手段がない。


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