Smudge!!

泥だらけになってでもやるしかない。

3年。

2014-03-11 23:44:34 | 東日本大震災

あれから3年。
3年前の今頃は何をしてただろう。

この3年で良い意味でも悪い意味でも変わったこと、変わらないこと、変わってしまったこと。。
「3年」で一区切り的な報道のされ方もあったけど、個人的にはそんなことはあんまり感じられなくて「まだ3年」って感じ。
でも、3年前に中学生になった子が今年高校受験だったわけで、今年の県内高校入試で倍率が一番高かったのが農業高校だったり、母校に災害科設立の準備が進んでいたり、「3年」の変化はこんな面でも出てきてるんだなぁ。
一方で仮設住宅で生活しているのはまだ約26万人の人がいて、災害公営住宅の整備が完了したのは全体の2%。住環境が整うのには「3年」じゃまだまだで、時間はかかりそうだ。

最近、あれから3年間一度も触っていない釣り道具を手入れしようかなと思えるような時が出てきた。自分の中でもそんな変化が出てきたことに少し驚いている。


「今日は良い一日だった」と言える明日になればいい。


あれから

2013-03-11 22:58:18 | 東日本大震災

2年が経ち、明日から3年目が始まる。
当時の嫌なことはあまり思い出さないようにと、きっと無意識に封じ込めてしまおうとしてたと思う。でも、色んな人に助けられて感謝しなければいけないようなことまで一緒に封じ込めてしかけてたかもしれない。
でも、今日はしっかり思い返そう。
今日、祖父の葬儀に参列したことも色々と考えるきっかけの一つになった。

斎場に向かうのに乗ったバスのナンバーが「311」だった。


あの日のこと。あの日からのこと。

2012-03-14 01:04:05 | 東日本大震災

あれから1年が過ぎ去った。
振り返ってみると、今までで一番多く泣いた1年だった。
当時の映像を見たり、話をしたり聞いたりすると、やっぱり泣いてしまう。あの時の怖さだったり不安、安堵した時のこと、色んな気持ちを思い出すと、だめだ。まだまだ困難な状況に立たされている人のことを考えると尚更。
受けとめきれないことが沢山起きたけど、沢山の辛いことも、その中で生まれた嬉しいことも、感謝することも、全てもれなく抱えて持っていく。

あれから仕事で県外へ行くことになって、「地元を捨ててきた」なんて笑えない冗談(のつもり?)を言われたり、「頑張って捜索してくださいね~」とか、なんか軽々しく聞かされて酷く残念な思いをしたこともあった。そんなに軽く発言できる台詞じゃないハズなのに。

結局のところ、気持ちの整理への手段で一番なのは「時間の経過」なのかな。
11日の午後2時46分は外出していたので、道路で黙祷。これも気持ちの整理へ手段の一つに含まれるんだろう。
その日、鎮魂の意味を含めた花火も打ち上がった。
大きく打ち上がった花火はきっとあいつらにも見えただろう。
花火が見えないとブーブー言うあいつらには、あのくらい大きく、高くないとダメだ。
あのくらいならきっと空からでも見えただろう。
あいつら、花火、けっこう好きだったから。


あんまり強くは思い出したくはないのが本音だけど、忘れないで欲しいとだけは強く思う。

2011-11-12 14:00:57 | 東日本大震災

昨日で8ヶ月が経った。

こちらでは、「今日で8ヶ月か」と言ってもピンとこられません。
西ではもうみんな忘れてしまったのでしょうか。
たまたま、その人だけだったことを願います。

先日発表された流行語大賞候補から「3.11」を外してほしい。


今日と言う日。

2011-09-11 20:03:15 | 東日本大震災

あの日から半年。

あの日のことも、

あの日からのことも、
忘れない。

忘れちゃいけない。

そして、これからのことも。

震災の影響とは言え、こういった状況の後に家(東北)から離れると言うことにずっと負い目を感じていた。
だからと言って、宮城にあのまま居たとしても震災復興最前線で動いていたとは言いきれない。実際のところ、あの状況で仕事をしていくのは厳しかったので、西へ行くことになった。自分の生活もあったし、さらには仙台支店で働く人たちの生活にも関係していたのは事実だったから。

福島を離れた友人も同じようなことを言っていた。

地元に残った人も動いた人も、残らざるをえなかった人も動かざるをえなかった人も、各々、環境が違うので、その正解はないのを知っている。

「半年」と言うのはただの時間の経過。
この震災を九州では現実のものとして捉えきれていない人はいた。
それは仕方ないとは思うし、それをどうのこうの言う気もない。やっぱりテレビ画面を通してだけ見て、同じように感じてもらうのは無理だもの。
ただ、それをどういう風に感じてくれるかで、ボクらは有り難く感じたり、悲しく感じたりする。

東北を離れたとしても、生かされた人間は知らない人たちへ伝えていくことも正解の一つなのかなと思う。


東北六魂祭

2011-07-16 23:52:43 | 東日本大震災
東北6県のお祭りが仙台に集まるなんて、なでしこのW杯決勝進出と同じくらいスゴイ
行ってみたかったな

青森 ねぶた祭り
秋田 竿燈まつり
盛岡 さんさ踊り
山形 花笠まつり
仙台 七夕まつり
福島 わらじまつり

ニュースでチラッと見たけど、予想通り、たくさん人が来たみたいだね

前向きに

2011-05-14 12:54:40 | 東日本大震災

震災から2ヶ月が経った。
今回の震災で沢山の悲しい話も聞いたし、沢山の安心できた話も聞いた。
「あの後、あそこへ向かわなかったら…」、「あの時、あそこへ飛び移っていなかったら…」、「午前と午後の予定がたまたま入れ替わって…」
助かった人もそうでなかった人もその結果になったのは紙一重だった。
全ての出来事が中立に起きるならば、どんなに悲劇的なことが起こったとしてもそれから前へ進むには、それを前向きに捉えられる・前向きに対応することが前へ進むことへの唯一の方法なのだろう。

2ヶ月前の震災をそう捉えられるにはまだまだ時間がかかる人は沢山いるだろうし難しいだろうけど、立ち上がるには泥だらけになってでも前を向くしかない。
テレビ画面に映っていた避難所の人が「大きくしゃがんだから大きくジャンプ出来ると信じている」と話していたのを聞いた。


馴染みの店

2011-04-24 21:49:44 | 東日本大震災

金曜日にお店から、「電気・水道・ガスが復旧し、全てのサービスが利用できるようになりました」とメールがきて、震災後、初めて髪を切りに行った。
昔から通っていて、地元にあるそのお店は海に近く、津波で壊れたかなと心配していたがなんとか無事だったようだ。しかし向かいの塾や隣の飲食店はシャッターがグチャグチャだったり壁が壊れたりしているのに何故かそのお店だけポツンと無事だった。もちろんガラスが割れたりしたらしいが、営業再開できる範囲の被害だった。
店内は半分くらいしか使えず、壁の150cmくらいの高さの所までにはしっかり浸水した水の跡が着いていた。店内の物も流されたようで、道具も不足気味だった。幸い、スタッフの人たちは全員無事で、地震直後の話を聞いたら地震後30~40分後くらいには津波が来たらしい。ちょっとした判断の遅れが大きな運命の分かれ道だった。
お店は駅の近くだし、ついこの間、電車も通ったのでその辺りも少しは通常に戻っているかと思いきや信号もまだだし、いろんなお店もやっていないので人がいなくて静かだった。コンビニや駅の裏のスーパーは未だに店頭販売。道路には津波でボロボロになった車もまだ残っていたりする。塩竈市内でも海から少し離れれば、そんなことはないのに。塩竈には本屋が少ないので、スタッフの人は仕事的にも個人的にも本や雑誌が読めないのがケッコー辛いと言っていた。
前回は次来る時はさらにパーマを強くして、くるんくるんにしようかと思ってたけど、今はそんな気にもなれないのでやめた。
スタッフの人とも話したが、震災後はなんだか物欲が弱まった。今必要かは前以上に考えるようになったのはもちろん、手に入れてもまたすぐ地震がきて、また壊れちゃうんじゃないかとか考える。まぁ、それでも、必要な物はちょっとずつ手に入れたりしてきている。
ここ数年、けっこー通っていたアジア雑貨のお店が昨日から営業再開したが、震災の影響で閉店することになった。本格的な家具を揃えていたお店は他にないので残念だ。本格的な物だけあって、お値段もなかなかで、ボクにはなかなか手の届きにくかっただから、手を出していたのはもっぱら小物だ。全品半額からスタートした閉店セールは初日の昨日ですでにありえない人の多さだった。来店した昼頃にはすでに家具のほとんどに「売約済み」シールが。ボクは地震の被害で壊れてしまった、ゴミ箱(籠)と食器などの必要な物だけを買った。お香立ても壊れたので、それとついでにお香幾つかと小物を買った。全て半額だったから、普段の状況だったらあれもこれもとなってしまったかもしれない。別の場所で営業してくれたらいいのになぁ。


雪です。

2011-04-19 21:20:12 | 東日本大震災

今日は寒かった。気温も8℃くらいまでしか上がらなかったようだ。そして夕方から雪が降っている。今夜はこれから風も強くなって天気は荒れるようだ
地盤沈下が酷い石巻のある地域はただでさえ一日二回、満潮時にしっかり冠水するのにそれに加え今夜の大シケ。怖いだろうな。
始業式を迎えた学校も出始め、そして給食も始まった学校もあるらしい。しかし、ニュースで見た献立はコッペパン1個と牛乳1本。まだ給食センターが復活してない理由に加え、食べ物の有り難みを感じさせることと、この際、朝食をしっかり食べる習慣を身につけさせる意図があるらしい。けど、小学生高学年くらいにもなると完全に量は足りないだろうな。可能なら、もう少し増やしてあげてもいいような気もするけど。
塩竈までやっと電車が通ったらしい。


あれから1ヶ月。

2011-04-11 20:53:01 | 東日本大震災

この1ヶ月、まだまだ余震は続いていて、揺れない日はないけど少しは落ち着いた。
あの日は、大きな揺れの後、空は急激に暗くなりモサモサの雪が降りだした。まるで、漫画に出てくる地球最後の日のようだった。携帯電話はすぐに繋がらなくなった。通話もメールも不通で、センター問い合わせは、電池を消費するばかり。ボクは電池が切れる前に家族や親戚、親しい人の電話番号を紙に書き写した。震災翌日の自宅へ帰れた時に、釣り用にしまってあった懐中電灯や携帯ラジオを引っ張り出した。携帯できる食べ物はなく、そういった物は少し常備させておくべきだったと思う。貴重品はある程度まとめておいたので大丈夫だった。そしてブレーカーを下ろして避難所へ戻った。(停電解除になった時に室内の電気コード等が傷ついていた場合、火事の恐れがある)
つい先日の震度6強の余震は23時半頃だった。寝ていたので、揺れで目が覚めた。揺れがおさまり、外に出ると両隣の部屋の住人も外に出ていた。互いの安否を話していたら、片方の部屋に住むおじさんの左腕がザックリ、パックリ切れていて、血がダラダラ流れていた。腕のことを話すと、おじさんは自分の腕が切れていることに気づいていなかった。それほどパニくっていた。ボクはすぐに部屋に戻り、タオルを持って出ておじさんの腕に巻いた。駐車場に降りると外は停電で一帯がまた暗く、近辺の家の人達もとりあえず外に出てきていた。津波警報が出て、あの暗闇の時間帯に津波が来るのかと思うと怖すぎた。海側の人は一斉に移動した。1ヶ月前のあの日があったから。1ヶ月前のあの震災時間がこんな時間帯だったら、もっともっと被害は大きかったんだろう。恐怖。
ついこの間、津波被害が甚大な県北地域の友人の安否の確認がやっととれて、すごく安心した。彼の「t9さん、うちの町、何もなくなっちゃいました」と言う言葉に上手く声をかけてあげられなかった。慰めたらいいのか、励ましたらいいのか。でもどんな言葉も適切じゃない、足りないんじゃないかと思ってしまい、言葉につまってしまった。
別の友人は、あれ以来、地震があると体の震えがとまらなくなってしまう。また津波が来て、何もなくなっちゃうかもしれないと思ってしまうようだ。
目の前で家が流されたり、隣で命の火が消えたり、逆にたまたま出会った命をつなぎ止めることが出来たり。必要以上の過酷な経験をした人が多すぎる。
家族が無事だったり家が残ったようなボクは、それだけで十分だと思う。
家を失った友人は、家族が無事だっただけで十分だと言った。
家族を失った知人は遺体が見つけられただけでもマシだと言った。
遺体が見つかった別の知人はお葬式をあげられただけでも良かったと言った。
家族を探していたテレビ画面に映っていた人は、家族は見つからなかったけど、自衛隊へ捜索してくれたことに感謝していた。
生き残ったボクらは本当に生かされた命だと感じる。
津波は感情なく、町を飲み込み、感情なく去っていった。人間が作った物しかないのに残ったのは無音の風景。
多くの支援物資、人、気持ちに助けられた。ありがとうございます。
それでも時間が経過した分、頑張るのにも少し疲れてきたと感じる時もある。しかし、被害が軽いボクらが動かなきゃ、被害の大きい人達はもっと辛くなる。少しずつ、出来ることは出来るだけフツーに行っていきたい。そして引き続き、被害の大きい地域の人達を考慮した行動をとるようにしたい。
国内の「自粛」に優しさを感じたりもしたけど、「復興」へはそろそろ力不足になってきたんじゃないか。
現場で活動している人は信頼できるが、国はあまり信用できないのが本音。特に漁業・農業関係の人たちの今後にはどう考えたって国の支援が必要。しっかりしてくれ。
津波や震災被害で苦しむ宮城県内や岩手の人、東北地方、さらには原発関連で苦しい思いをしている福島や液状化関連で苦しんでいる北関東の人、みんな諦めずに生きましょう。頑張るのを少し休んでもいいから諦めずにいきましょう。

知ってる人も多いかもしれませんが、このような素晴らしい人たちに助けてもらいました。
http://blog.goo.ne.jp/flower-wing/
ありがとうございます。


悲しみの果て

2011-03-31 20:39:43 | 東日本大震災

悲しみの果てに
何があるかなんて
俺は知らない
見たこともない
ただ あなたの顔が
浮かんで消えるだろう

涙のあとには
笑いがあるはずさ
誰かが言ってた
本当なんだろう
いつもの俺を
笑っちまうんだろう Oh yeah...

部屋を飾ろう
コーヒーを飲もう
花を飾ってくれよ
いつもの部屋に

悲しみの果てに
何があるかなんて… oh yeah
悲しみの果ては
素晴らしい日々を
送っていこうぜ Oh Baby!
Ah...

悲しみの果ては
素晴らしい日々を
送っていこうぜ Oh yeah...


ラジオから流れてきたエレカシ。
響くね。


震災20日目の返却

2011-03-30 22:45:55 | 東日本大震災

今日、近くの小学校では離任式が行われたようで、朝、小学生が登校していた。学校近くの交差点に学校の先生が立っていて、それを見て思い出した。ボクはカバンから一つのカッターを取り出す。

震災当日、小学校へ避難して来たボクは知り合いも当然いないので、廊下の空いているスペースに一人座り込んでいた。しばらくすると抱えきれないくらいの大きさのダンボールに詰められた毛布が運び込まれてきた。たまたま周りには赤ちゃんを抱いたお母さんや老夫婦、怪我をしている人しかいなかったので、一人でそのダンボールを開け始めた。ダンボールにはナイロンのテープ(あの薄くて硬い)が巻かれていて、ハサミかカッターがないとキツいなと思いはしたけど、素手で開け始めた。苦戦してテープ、ダンボールを攻略すると今度は真空パックにされた毛布が出てくる。これまた素手では開けにくかったけど、気づけば周りには毛布を待つ人だかりが出来ていた。鍵など使って、焦りながら開け続けた。知らずに腕についた傷はこの時のも多いんだと思う。
4~5箱開けたくらいに、状況把握に校内を見回っていた小学校の先生が来た。その時に、ボクが素手で作業していたことに気づき、カッターを持ってきてくれて手渡された。「引き続きここの辺りで何か作業等がある時はお願いします」、と言うことで。
しかしその後、ボクはそのまま避難を繰り返していたので、返せていなかった。
カッターの裏には名前が書いてあったので、その先生(?)に返してもらえるよう、交差点に立っていた先生にお願いした。

避難所で1枚の毛布を共有したおばあちゃんは無事にしているだろうか。


TEAM AS ONE

2011-03-29 23:08:48 | 東日本大震災

今日は日本代表対Jリーグ選抜のチャリティーマッチ。
こんな気持ちでサッカーを見たのは初めてだった。
サッカー界においてチャリティーマッチが行われることは珍しいことじゃない。
それでも、こんな気持ちでサッカーを観たのは初めてだった。
サッカー界が、日本全体が、被災地を応援してくれている。
まだまだ厳しい現状は続いているけど、ありがとう。
諦めるな被災地。
がんばろう日本!

先日の選抜高校野球開会式の選手宣誓にもグッときた。


こんな状況なのに

2011-03-25 23:34:45 | 東日本大震災

事務所の補修作業がまだで、割れた窓ガラスにはゴミ袋を貼ったりしているが、だいぶ壁も歪んでしまって隙間風もある。もちろん燃料がなく暖房は使えないので、今、職場は寒い。
職場の髪が長めだった人は風呂に入れないのでってことで、地震後、坊主にしてきた。室内でもニット帽にマフラー。燃料関係の問題が少しでも早く解決されるといい。
地区毎に被害の具合も復旧の早さもケッコー差がある。
みんな被災者なのは確かだけど、部屋の本が崩れたくらいで自分の被害っぷりをギャーギャーと話すのは勘弁してほしい。それを話す職場の女子は比較的震災の被害が軽かった地区に住んでいて、話を聞くと断水もしなかったし、停電も1~2日後に復旧したくらいだったらしい。元々無口な方だったのに、仕事が再開してからの職場では、よく喋る気がする。自宅に親戚10人以上が避難してきて食糧確保に追われている人や子どものいる人、みんなそれぞれがこんな状況で疲れ気味で閉口気味なので、余計にそう感じるのかもしれない。各地の被害情報やら何やら色々テンション高く話してくるし、福島の実家の家族だか親戚だかの避難の話をしていたが、もはやネタにしてるようにしか聞こえない。こんな事態になっても家族を気遣わない話なんて聞きたくもない。
彼女の「全国各地に満遍なく友達がいる」と言う以前の発言と地震直後に真っ青な顔をしてとにかくPCの心配しかしてなかった言動から、彼女にとってPC(の世界)はとても大切なんだろう、と勝手に思っている。夜更かしもよくすると言っていたことがあった気もする。もしかしたら昨日もそうだったのかな。勝手な想像なので誤解しているかもしれないが、でも・・・。
こんな状況でも仕事させてもらっているのに、寝坊で半日休むとか、どーなの。こんな時でも発生しているその寝坊癖は、あなたのサラリーだけでなく確実に“信頼”も削っていますよ。