学年だより「天才の証明(2)」
大学は、自分は何の「天才」なのかを見つけにいく場所だ。
だから、何学部の何学科に進むか、将来やりたい仕事は何かなど、今の時点で限定する必要などまったくない。
それは既存の枠に自分を押し込めるだけだから、むしろよくないことだ。
ぎりぎりまで粘ってみて、行ける大学を手に入れて、その後でいろんな経験を積んでみればいい。
その気になれば中学高校時代には想像もできなかった経験ができるし、結果として想像もしてなかった自分に出会える可能性がある。
現在における世の中の基準では、今一つ自分の評価は低そうだと思えるなら、新たな評価軸をつくってみたいと考えることが許されるのが若者だ。
~ あまりにも当たり前のことなのに、人は往々にして、既存の評価軸で合わない(勝てない)にもかかわらず、「これがルールだから」と、そこに合わせないといけないとがんばってしまいます。Aという会社で出世した人が、Bの会社に転職して同じように出世するとは限りません。その人は、「A社で出世する能力」がずば抜けていた可能性が高いからです。つまりは、何事も適材適所。このことに気づけるかどうかが重要です。
さらに言うと、多くの人が自身に備わった才能について、大まかに分けて見すぎています。例えば、「サッカーの才能がある」とのとらえ方はざっくりしすぎ。解像度が粗すぎます。「自分にはどんな才能があるのか」について、もっと精緻に見るべきです。
プロサッカープレイヤーでも、ある能力とない能力の組み合わせです。得点を重ねることと、守備でポールを奪うことが全く別の能力であることは容易に想像がつきます。より細かく見ていくと、ディフェンダーの中でも、1対1になったときにボールを奪うことに秀でているのか、空間で相手の動きを把握して指示を出し、チームで動いて攻撃を止めることに秀でているかは別の能力です。同じポジションであっても、この2つは違う能力であると気づくことが大事。 (中田敦彦『天才の証明』日経BP社) ~
「医者」になりたいという人がいる。しかし小児科のお医者さんと麻酔科のお医者さんとでは、やってることが全然ちがう。オーケストラでバイオリンを弾く人も、笙の演奏家も、YOSHIKIも乃木坂も「ミュージシャン」というくくりに入るが、その生活はまったく異なる。
「エンジニア」しかり「商社マン」しかり。
何百、何千という職種がこの世にはあり、さらに細分化された仕事の中身がある。
学生生活を終えて社会に出て行くことも、自分の「天才」を見つけるプロセスだと言えるだろう。
自分に「合う」仕事を探すのではなく、たまたま出会った仕事の「天才」になるか、新たな仕事を生み出すかだ。