美術とは趣味であり、あるいは学問でもあり
あるいは、慰みモノでもある。
強固な芸術的思念に裏打ちされた、思想であるばかりではなく、
社会的に厄介な問題を含み、ときには世情を騒がせたりもする。
修学旅行のバスの中で、戦場ヶ原は戦国時代の古戦場ではありません。などとバスガイドさんに教えられた。戦国時代より、もっともっと大昔の、神代のお話が伝えられている。下野の国と上野の山の神が、争ったところが戦場ヶ原なのだといふ。下野(しもつけ)つまり栃木県の山は男体山。 上野(かみつけ)の山は赤城山である。はじめは男体山が劣勢であったが、討つの宮の猿田彦が加勢して、赤城山のムカデを退治した。負うた神は沼田の老神温泉で傷を癒したといふ。
男体山の西側に広がる高層湿原であり、中央を走る国道の東側は開拓されてなのか、あるいはもともと男体山の裾野なのでなのか乾燥化が進んでいる。 標高は約1,390mから1,400mであり、広さは400haである。そのうち174.68ヘクタールの地域が、奥日光の湿原としてラムサール条約登録湿地に指定されている。
戦場ヶ原の右奥、船底形の山が、湖上山で。外山へと稜線が続いている。
2018 10 26 戦場ヶ原の中央を北上する、国道 120号から 東方、男体山方向
戦場ヶ原の北縁に、光徳牧場へ行く、T字路があり。そこから、南へ 300メートル程行くと、撮影ポイントがある。この辺りは、乾燥化が進んで、湿原ではなくなり。ズミや白樺、そしてカラマツの生える、林になっている。
林床にはクマザサが茂って、樹木が生えずに、笹原になっている場所もある。
上の画像で、トゲトゲした感じの灌木は、湿気った土地を好む、ズミである。秋から冬の間は、殺風景を絵に描いたような、景色にしているのだが。高原の春、6月の 10日頃には、白い花が一斉に咲いて、様相が一変する。
2020年は、特別な ズミ観覧の当たり年だった。
下の湯川の奥に、船底を見せているのも、湖上山であり。
この湯川の西には、山毛欅(ブナ)の林が広がっている。さらに西へ進むと、カラマツが多くなる。
やがて、小田代ヶ原に出る。
パリスの審判
Judgement of Paris
イリオス(トロイア)の王プリアモスにパリス(アレクサンドロス)という息子がいた。
ヘーラー、アプロディーテーそしてアテーナー(ローマ神話においては、ユーノー、ウェヌス、ミネルウァ)の三美神のうちで誰が最も美しいかを判定することとなった。
事の始まりはテティスとペーレウスの結婚を祝う宴席でのこと。
この集まりにすべての神々が招かれた。ところが、ただ不和の女神エリスだけは招かれなかった。のけ者にされたエリスは怒った。それで、「最も美しい女神にあたえる」と黄金の林檎を、この宴会に投げ入れたのだった。
この林檎をめぐってヘーラー・アプロディーテー・アテーナーが争った。ゼウスは仲裁するために「イリオス王プリアモスの息子で、現在はイデ山で羊飼いをしているパリス(アレクサンドロス)に判定させる」こととした(パリスの審判)。この時女神たちは様々な賄賂による約束をしてパリスを買収しようとした。アテーナーは「戦いにおける勝利」、ヘーラーは「アシアの君主の座」を与えることを申し出た。しかし、結局「最も美しい女を与える」としたアプロディーテーが勝ちを得た。「最も美しい女」とはすでにスパルタ王メネラーオスの妻となっていたヘレネーのことで、これがイリオス攻め(トロイア戦争)の原因となった。
なお古い伝承ではパリスがアプロディーテーの加護の下に置かれ、ヘレネーが連れ去られたとするが、後にゼウスの娘であるヘレネーは半神とみなされ、不敬を避けるためパリスが略奪したのは、ヘレネーに似せて作られた雲で出来た像であったとする説ができた。
Palazzo Massimo The Judgement of Paris
コガネタケの高貴な名前とは裏腹に、山道などの廃材とか畳などを捨てたような、路肩などに生えていたりする。ブログの管理者も採取して食べたことがある。天ぷらにして食したが、食べ過ぎると食あたりとか、生では駄目とかものの本には書かれいる。
泥棒貴族はどこに隠れている? 2009年08月19日で触れたことですが、当時は物価が300倍にもなった超インフレが落ち着いた頃なのでしょう。
仕事と言っても大量の引き揚げ者が付ける仕事はなかなか無い。そこで、荒れた国土を整えようと、治山治水の工事に千本株はかりだされたのです。砂防ダムや堰堤などの工事だったのでしょうが、子供故現地に行ったこともないので、詳細はわかりません。