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とりあえず西洋絵画から始めて、現代日本作家まで

黒田清輝

2010-06-16 | 日本人作家

 ご案内

黒田清輝【日本人作家】 黒田清輝 日本人作家

 
  湖畔 (The Lakeside) 1897年
  69×84.7cm | 油彩・画布 | 東京国立博物館

 いつの頃だったのか、ずいぶんと昔のことなのだが、とある田舎の老舗ホテルで、この絵を見かけた。昭和帝のよくお泊まりになられる、有名な御宿のロビーに飾ってあったので、さもありなんと思った次第。しかし薄暗い、人気のないロビーに無造作に掛けてある。

 絵に詳しい知人に後でそれを話した。

 「そんなはずはない。あれは確かもっと別な所にあるはずだ」

 

 

 

 智・感・情

 (Wisdom, Impression, Sentiment) 1897-99年
各180.6×99.8cm | 油彩・画布 | 東京国立文化財研究所

 

  誤解は世の常。六階はエレベータなんぞを付けねば、建築基準法律違反となる。むかし東京にいたころ、新宿副都心の高層ビル群が真正面に見える、マンションとまでは呼べないが、鉄筋コンクリートのビルに住んでいた。これにはエレベーターも、エスカレーターもなかった。それで毎日、登ったり降りたりで、足腰の鍛錬になった。

  仏教には、「五戒」と呼ばれる戒めがあって、キリスト教には「六戒」に「汝、殺す無かれ」がある。


 お釈迦様は、殺すな、嘘をつくな、盗むな、姦淫するな、そして酒を飲むなと、「五戒」を定めたんだと謂われている。よく里人は、 『 おシャカになる 』 といったりする。これ、駄目になることなので、けっしてとっても偉くなることではない。

 酒飲むなの時点で、ほとんどの日本人はアウトである。
 
  殺すなならば、大概はセーフなのだが、牛馬を殺すな等は江戸時代まで。さいきん家の近くの牛舎では、牛の数が半分に減った。つまり放射線汚染の話も下火になって、メデタく出荷の運びとなったのだろう。つまり日本人は当たり前に、牛を殺して喰っている。

 姦通罪 なんテェのは、戦後すぐに廃止されてしまった。

 つまり戦後の日本国には、『知』などという上等な観念は不要とされたわけなのだ。

 つまり是、カネと権力を持った、進駐軍とその眷属は、他人の女でも好き勝手できるようになったのだ。

 

 

 

 

 

立位

 

 

 

 裸体婦人像

    

裸美人(白馬会)黒田清輝

中央新聞 | 1901/10/31 | 1頁 | 図 |

 

 

 黒田清輝 1866 ~ 1924 黒田清輝 日本人作家

 

 

 黒田 清輝(くろだ せいき、1866年8月9日(慶応2年6月29日) - 1924年(大正13年)7月15日)は、鹿児島県鹿児島市出身の洋画家である。薩摩藩士黒田清兼の子として生まれ、伯父の子爵黒田清綱(江戸時代の通称は嘉右衛門)の養子となる。通称は新太郎。「せいき」はペンネームで、本名の読みは「きよてる」である。

 出自 [編集]黒田家は本姓佐々木源氏で、福岡藩藩主家黒田家の遠縁にあたるが、清輝の先祖で薩摩藩史上で名が知られるのは黒田嘉右衛門が記録奉行や蒲生郷地頭(現在の鹿児島県姶良市)に就任したあたりからで、その弟で養子の黒田才之丞は近思録崩れの最中に山本伝蔵の後任として教授になり、兄の死後に帖佐郷地頭に任じられる。その子新之亟(嘉右衛門とも)は記録奉行を勤め、新之亟の次男が清輝の父である。


略歴 [編集]1872年(明治5年)に上京。小学校卒業後は二松学舎に通う。1878年、高橋由一の門人・細田季治につき、鉛筆画ならびに水彩画を学ぶ。上級学校進学を意識し、当時の受験予備校であった共立学校、すぐに築地英学校に転校、その後は東京外国語学校を経て、1884年から1893年まで渡仏。当初は法律を学ぶことを目的とした留学であったが、パリで画家の山本芳翠や藤雅三、美術商の林忠正に出会い、1886年に画家に転向することを決意し、ラファエル・コランに師事する。

1893年に帰朝すると、美術教育者として活躍する。1894年には芳翠の生巧館を譲り受け久米桂一郎と共に洋画研究所天心道場を開設し、印象派の影響を取り入れた外光派と呼ばれる作風を確立させ、1896年には明治美術会から独立する形で白馬会を発足させる。また同年には東京美術学校の西洋画科の発足に際して教員となり、以後の日本洋画の動向を決定付けた。1898年、東京美術学校教授に就任。1909年には洋画家として最初の帝室技芸員に選ばれ、また帝国美術院院長などを歴任した。1917年には養父の死去により子爵を襲爵する。1920年には貴族院議員に就任している。

 

   朝妝(ちょうしょう)(1895年)
 

代表作 [編集]
湖畔(1897年)アトリエ(1890年、鹿児島市立美術館)
読書(1892年、東京国立博物館)
朝妝(ちょうしょう)(1895年)
湖畔(1897年、東京文化財研究所黒田記念室、重要文化財) - モデルは友人の画家安藤仲太郎が紹介した芸者で、当時23歳の金子種子。のちに清輝の妻となり照子と改名した。縦69cm×横84.7cm。描かれた地点は、箱根芦ノ湖の観光船の乗り場や箱根駅伝スタート地点のすぐ近くである。
夕陽(1898年、豊橋市美術博物館)
智・感・情(1899年、東京文化財研究所黒田記念室、重要文化財)
花野(1907年 - 1915年、東京文化財研究所黒田記念館)

 

桜島爆発図 (1914年、鹿児島市立美術館) 

 

梅林(1924年、東京文化財研究所黒田記念館) - 絶筆。

 

 

参考URL

http://www.city.hiratsuka.kanagawa.jp/press/pre20070084.htm
http://d.hatena.ne.jp/setsu19410330/20070504/p2
http://www.itempost.jp/detail/2/PA01047075/11429658
http://www.itempost.jp/detail/2/PA01047075/16535176
http://www.tobunken.go.jp/kuroda/archive/at_newsp/hakuba06/hkb0632.html

 

 フォンタネージ は1878年(明治11年)9月に帰国している。この当時黒田は、高橋由一の門人・細田季治につき、鉛筆画ならびに水彩画を学んでいた

 その後、黒田はフランスに渡り、ラファエル・コラン  に絵を学んでいる。

 

ラファエル・コラン 『フロレアル(花月)』
ラファエル・コラン 『フロレアル(花月)』 1886年 アラス美術館

 

 

 

 

読書【黒田清輝】 読書 黒田清輝 

カンバス・油彩
98.2 横78.7
明治24(1891)

 

 

 五戒

 

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