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とりあえず西洋絵画から始めて、現代日本作家まで

高橋 由一

2010-04-28 | 日本人作家

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 高橋由一「栗子山隧道」(1884) ?

104.4×151.5cm


1881(明治14年)-82 (M14-15)  東京国立博物館 ← (ヴァージョンのデータ ? )

明治14年(1881年)より山形県令であった三島通庸の要請により、三島の行った数々の土木工事の記録画を描いている。代表的なものとして 『 栗子山隧道図西洞門 』 がある。

 
花魁」(明治5年(1872))
所蔵 東京芸術大学、重要文化財

鯨の「タレ」
」(明治10年(1877年)頃)
所蔵 東京芸術大学、重要文化財

以下は、Wikipediaよりのメモ

高橋 由一(たかはし ゆいち、文政11年2月5日(1828年3月20日) - 明治27年(1894年)7月6日)は江戸生まれの日本の洋画家。幼名は猪之助、名は浩、明治維新後に由一を名乗る。

近世にも洋画や洋風画を試みた日本人画家は数多くいたが、由一は本格的な油絵技法を習得し江戸後期から明治中頃まで活躍した、日本で最初の「洋画家」といってよいであろう。


略歴 [編集]父は新陰流剣術師範の佐野藩(佐倉堀田藩の支藩)士で、由一は江戸藩邸に生まれた。幼児の頃から日本画(狩野派、北宗画)を学ぶが、石版画に接して強い衝撃を受けて洋画の研究を決意。文久2年(1862年)に蕃書調所の画学局に入局し、川上冬崖に師事した。本格的に油彩を学ぶことができたのは、慶応2年(1866年)、当時横浜に住んでいたイギリス人ワーグマンに師事したときで翌年にはパリ万国博覧会へ出展している。

明治時代に入り民部省の吏生や大学南校の画学教官など官職を務めるが明治6年(1873年)には官職を辞して画塾である天絵舎を創設し、原田直次郎や高橋源吉ら多くの弟子を養成する。明治9年(1876年)には工部美術学校教師として来日したイタリア人画家アントニオ・フォンタネージに師事する。

明治12年(1879年)に金刀比羅宮で開かれた第2回琴平山博覧会では天絵舎に資金援助してもらうため作品を出品し、会期終了後に全作品を金刀比羅宮に奉納した。そのため金刀比羅宮は由一の作品を27点収蔵しており、現在は金刀比羅宮境内にある由一の個人美術館「高橋由一館」に展示されている。

人物、風景などの作品もあるが代表作として筆頭に挙げるべきは『鮭』であろう。極端に縦長の画面に縄で吊るされ、なかば身を欠き取られた鮭のみを描いたこの作品は西洋の模倣ではない文字通り日本人の油絵になっていると評されている。明治12年(1879年)には元老院の依頼で明治天皇の肖像も描いた。

回想記に『高橋由一履歴』がある。洋画家の安藤仲太郎は甥。


 「花魁」(明治5年(1872年))(東京芸術大学、重要文化財)
「不忍池」(明治13年(1880年)頃)(愛知県美術館)


 参考資料 [編集]古田亮「狩野芳崖・高橋由一 日本画も西洋画も帰する処は同一の処」ミネルヴァ書房 、平成18年(2006年)
山梨絵美子『日本の美術349 高橋由一と明治前期の洋画』至文堂、平成7年(1995年)

 安藤仲太郎
黒田清輝


佐野藩

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