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エリーザベト

2012-08-21 | 肖像画

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エリーザベト・アマーリエ・オイゲーニエ【わたしの里の美術館・肖像画】1837 ~ 1898 エリーザベト 肖像画索引

 

 


エリーザベト・アマーリエ・オイゲーニエ

Elisabeth Amalie Eugenie von Wittelsbach18371224日 - 1898910
オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝(兼国王)フランツ・ヨーゼフ1世の皇后。
ハンガリー語名はエルジェーベト(Erzsebet)。
「シシィ」(Sissi, Sissy, Sisi)の愛称で知られる。
(Wikipedia)

 


 

エリーザベトはバイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家傍系のバイエルン公マクシミリアンとバイエルン王女ルドヴィカの次女として生まれた。幼少の頃は父マクシミリアンと共に街に出かけ、チター奏者に扮した父の傍らでチップを貰う少女に扮したり(もちろん住民は、王家に連なる極めて身分の高い公爵と公女であると知りつつも知らぬそぶりで歓迎していた。エリーザベトは後年、私が唯一自ら稼いだお金と言ってそのチップを大切に保管していた)、また狩りに行くなどしていた。王位継承権からは遠く公務とは無縁の彼らは、自由を満喫していた。

 拡大 (1547年時点でのハプスブルク家の領土)

 

そんな生活が終わるのは、1853年8月、本来エリーザベトの姉ヘレーネの見合い相手だった、母方の従兄である皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に見初められ、求婚されたからである。エリーザベトは婚約が決まった翌日からお妃教育を受けさせられたが、不真面目で勉強嫌いの彼女は何度もヒステリーを起こしていたという。しかし、彼女にとって生涯忘れられない出会いもあった。お妃教育の一環として彼女に広大なオーストリア帝国の歴史を教えたマイラット伯爵は、彼女が最初に出会ったハンガリー人だった。伯爵は共和制の素晴らしさを彼女に密かに吹き込む等、彼女に多大な影響を与えた。1854年4月、エリーザベトは16歳で結婚、オーストリア皇后となった。


  拡大

しかし、自由人だった父の気質を多く受け継いだ彼女は、母方の伯母で姑であるゾフィー大公妃がとりしきる宮廷の厳格さに耐えられず、人前に出る事を極度に嫌がり宮廷生活や皇后としての義務や職務を嫌い、大西洋に浮かぶマデイラ諸島などに療養に行く、夫に同行してイタリアを訪問する、あるいは個人的に旅行に出かけたり病院を慰問したりと、生涯に渡り様々な口実を見つけてはウィーンから逃避し続けた。


 

 

ジュラ・アンドラーシ伯爵
特にエリーザベトが心安らぐ最高の場所としたのは、当時オーストリア帝国の一部であったハンガリーであった。ゾフィー大公妃がハンガリー人嫌いだった事もあり、エリーザベトは死ぬまでハンガリーを熱愛し続けた。穏健独立派のハンガリー貴族ジュラ・アンドラーシ伯爵と知り合い、1866年の普墺戦争敗北を受けて、翌1867年にハンガリーの自治権を認めたアウスグライヒ(妥協)を締結するにあたっては陰の推進者の役割を果たした。アンドラーシはアウスグライヒ後のハンガリー王国の初代首相、帝国外相となる。

 アンドラーシ・ジュラ / 1870年撮影の写真

エリーザベトの晩年最大の悲劇は、息子ルドルフ皇太子の自殺であった(1889年、暗殺説もある)。夫の死後喪服を着続けた女帝マリア・テレジアに倣い、その後彼女は死ぬまで喪服を脱ぐ事はなかった。

1898年9月、旅行中のジュネーヴ・レマン湖のほとりで、イタリア人の無政府主義者ルイジ・ルケーニに鋭く研ぎ澄まされた短剣のようなヤスリで心臓を刺されて殺害され、その生涯を閉じた。

 

 

エリーザベトは当時のヨーロッパ宮廷一といわれた美貌に加え、身長172cmと背が高く、ウエスト 50センチで体重は 50キロという驚異の体形の持ち主だった。美貌と痩身であることに執念を燃やし過酷なダイエットや美容方法でそれを維持していたが、年を取るにつれて皺とシミだらけになった顔を分厚い黒のベールと革製の高価な扇や日傘で隠すようになり、それが彼女の晩年の立ち居振る舞いを表す姿として伝説となっている。

                                                         エリーザベト【わたしの里・肖像画】当時のヨーロッパ宮廷一といわれた美貌に加え、身長172cmと背が高く、ウエスト 50センチで体重は 50キロという驚異の体形の持ち主だった。 

 


交友関係では、ヴィクトリア女王 とは親しくなかったが、その息子のエドワード7世とは、ルドルフ皇太子と共に親しかったという。他には、フランツ・ヨーゼフ1世の弟マクシミリアンの妃で義妹のベルギー王女シャルロッテとの仲は険悪だったが、同名のルーマニア王カロル1世妃エリーザベト(カルメン・シルヴァの筆名で知られる)とは、ドイツ王家出身、皇后でありながら君主制・貴族制度の否定、王侯貴族に対する激しい憎悪、王侯貴族等の気に入らない人物に対する辛辣な批判、浪費癖、現実離れした夢想家、破綻した結婚への嫌悪感、宮廷での孤立、死への異常なまでの関心、詩作、古代ギリシア文化への傾倒等、数え切れない程多くの共通点があり親交があった。彼女は詩人の中では、「革命詩人」と呼ばれるハインリッヒ・ハイネを好み、彼の事を深く尊敬し、「師」と呼んでいた。また、エリーザベトはハイネの作品を知り尽くしていて、専門家として彼女に教えを乞いに来る人もいた程だった。


従兄の子で「狂王」と呼ばれるバイエルン王 ルートヴィヒ 2世とも一時期親しかったという。彼らは世間や堅苦しい宮廷を嫌って逃避行を繰り返し義務を放棄して快楽に耽り、精神を病んで奇行を連発する桁外れの浪費家同士で意気投合したとされるが、ルートヴィヒ2世は彼女に片思いをしていたため(ルートヴィヒ2世は同性愛者だったため、あくまでも純粋な友情に過ぎないとする説もある)、王の前途を心配したエリーザベトは妹のゾフィーと婚約させようと計画した。しかし、ルートヴィヒ2世は全く関心を示さず、婚約は破棄された。エリーザベトはこれに激怒し、二人の仲は険悪になり、それが後にルートヴィヒ2世急速に現実逃避を悪化させ国費を浪費する遠因になったとも考えられる。だがエリーザベトは、ルートヴィヒ2世が逝去した際にはたいへんなショックを受け、家族の皆が深刻に心配する程精神状態が悪化した。

 


1865年には、前年にエリーザベトの肖像画も描いた宮廷画家ヴィンターハルターから彼女の話を聞いたフランス皇后ウジェニーがエリーザベトに興味を持ち、翌年オーストリアのバート・キッシンゲンで保養に行く際に私的に表敬訪問したいと申し出たが、彼女は気乗りがしなかったらしくこの申し出を断っている。しかし1867年6月19日、ナポレオン3世がメキシコ皇帝の座に就けたマクシミリアンがケレタロで銃殺刑に処されたため、この年の8月にナポレオン3世とウジェニーが、オーストリアとの一種の調停訪問をもくろみ、ザルツブルクでの2人の美貌の皇后の対面が実現した。マクシミリアンの事があったため、ザルツブルク市民はフランス皇帝夫妻を冷ややかに迎えたが、2人の美しい皇后が見られるという事には大変関心を寄せた。そしていざ実物を見てみると、王族の出ではないウジェニーではあったが、エリーザベトの生まれつき兼ね備えた威厳と美しさに何ら遜色ないと市民達の目に映った。ただし保守的なザルツブルク市民達は、ウジェニーの服装が最新のパリ・モードにそってスカートの裾があだっぽく絡げてあるため、足がのぞいて見えるのをはしたない事と見なした。2人の皇后が並んで立つと、長身のエリーザベトに比べ、ウジェニーの方がだいぶ小柄だったという。
またエリーザベトはイギリスのアレクサンドラ妃の美貌と自身の美貌とどちらが優れているかを気にしていたが、実際はアレクサンドラは非常に背が低く胴長短足である上、首に醜い手術痕があり、頭には奇妙なへこみがある等、容姿はエリーザベトより劣っていた。しかしエリーザベトにも、面長で顎がしゃくれている点や、極端な撫で肩、鼻の穴が大きい(ヴィクトリア女王も「鼻の形は美しくない」と漏らしていた)、手足が丸太のように太いという欠点があった。特に本人が最も気にしていたのは、歯並びが悪く黄ばんでいる事だった。見合いの席でゾフィー大公妃はそれを指摘し、彼女に「歯を磨くように」と言いつけている。エリーザベトはそれを気にするあまり、毎日懸命に歯を磨き、人前では常に口をきつく結んで殆ど話さず、話す時には扇子で口を隠していた。しかし、肖像画ではこれらの欠点は見事に隠され、美化されている。
夫のフランツ・ヨーゼフに宛てて書いた手紙の確かにヴィクトリア女王はとても親切な方でした。でも、私にとっては得体が知れないのです…という言葉からわかるとおり、エリーザベトは人の好き嫌いが激しく気難しい性質だったので、ゾフィー大公妃の選んだ気に入らない女官を全員解雇して周囲をお気に入りのハンガリー人侍女のみで固め、女官には徹底的に控えめに振舞う事、ウィーンから離れた生活に耐え自分の旅行について来続ける事、数時間ぶっ続けの激しい速歩について来続ける事、生涯独身を貫く事等を要求した。また自分とは正反対の、良妻賢母として知られる女帝マリア・テレジアを敬愛し、病人や障害者、貧しい民衆に同情するなどの一面もあったが、最後まで皇后・妻・母としての役目を果たすことを一切放棄かつ拒否し続け、欲望のままに放縦な生活を送り続けた。
エリーザベトの贅沢ぶりは凄まじく、宝石・ドレス・名馬の購入、若さと美しさを保つ為の桁外れの美容への出費、ギリシアのコルフ島に絢爛豪華な城「アキレイオン」の建設、彼女個人あるいは皇室の所有するあらゆる宮殿・城・別荘の増改築、彼女専用の贅を尽くした船や列車を利用しての豪華旅行等を税金で行っていた。たが、生来の気まぐれな性質から一箇所にとどまる事ができず、乗馬や巨費を投じて建てたアキレイオン等にもすぐに飽きてしまった。

 

皇后でありながら君主制を否定した「進歩的な女性」と評されることもあるエリーザベトだが、実際の彼女は尊大、傲慢、狭量かつ権威主義的であるのみならず、皇后・妻・母としての役目は全て放棄かつ拒否しながら、その特権のみほしいままに享受し続け、皇后としての莫大な資産によってヨーロッパ・北アフリカ各地を旅行したり法外な額の買い物をしたりする等、自己中心的で傍若無人な振る舞いが非常に多かった。当時のベルギー大使夫人は、この女性は本当に狂っています。こんな皇后がいるのにオーストリアが共和国にならないのは、この国の国民がまだ寛大だからですと書いている。ただしハンガリー統治に関しては非常な関心と情熱を傾けたため、過去に近隣の大国に翻弄され、分割・被支配と様々な苦難の歴史をたどったハンガリーが現在平和な独立国家となった礎を築いた人物として、今もハンガリーの人々には慕われている。そして彼女が嫌ったウィーンに於いても観光のシンボルとして肖像画を見ることが出来る。

 

 

 

 

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久慈 暁子

2012-08-20 | Talent

 

2017 11 11 凋落を防ぐには、……【わが郷】

 

久慈 暁子(くじ あきこ、1994713日 - )は、フジテレビの女性アナウンサー。元女性ファッションモデル。
(wikipedia

 

 

 

 

 

 

 

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鼻の表情

2012-08-15 | supplement

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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クリント・イーストウッド Clint Eastwood

2012-08-05 | Talent

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 クリント・イーストウッド Clint Eastwood【わたしの里・Talent】

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Clint Eastwood

クリント・イーストウッド・ジュニア(Clint Eastwood、本名:Clinton Eastwood, Jr.、1930531日 - )映画俳優、映画監督、映画プロデューサー、作曲家、政治活動家。公称身長188 cm。

1960年代は西部劇の、若造役で人気を得てきた。マカロニ・ウエスタンで主役の地位を確立。『ダーティハリー』の型破りな刑事ハリー・キャラハンを演じて、トップスターの地位を確立した。監督としても『許されざる者』『ミリオンダラー・ベイビー』でアカデミー賞作品賞と監督賞を2度受賞するなど、現代のハリウッドを代表する人物と目されている。

アメリカ合衆国カリフォルニア州、サンフランシスコ出身
(wikipedia)

 

 

Clint eastwood Celebrities

 

2011 10 29  やるならヤッテみなよ Well do ya, punk   わが郷

2011 09 06  『 Do I feel lucky ? 』 Well do ya, punk !  【わが郷

 

 

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黒田 福美

2012-08-03 | Talent

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黒田 福美【Talent】1956~ 黒田 福美 タレント

 

 黒田 福美

黒田 福美(くろだ ふくみ、本名 同じ、1956721日 - )は、日本の女優、エッセイスト、翻訳家である。所属事務所は、キャストパワー。20082月末まではアミューズに所属していた。東京都立豊多摩高等学校、桐朋学園芸術短期大学演劇学科卒業。趣味は三味線、華道、茶道、朝鮮語。
(wikipedia)

 

 

 

 

 

 

 

 

2017 02 07 風を 読む。【わが郷・歴史】 

 

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