わたしの里 美術館

とりあえず西洋絵画から始めて、現代日本作家まで

メトロポリタン美術館

2018-02-25 | 美術館

美術館の ご案内

メトロポリタン美術館【美術館】 メトロポリタン美術館

メトロポリタン美術館

英:The Metropolitan Museum of Art、略称:The Met
ニューヨーク市マンハッタンにある世界最大級の美術館。
(wikipedia)

 

 

メトロポリタン美術館の設立構想は、1866年、パリで 7 4日のアメリカ独立記念日を祝うために集まったアメリカ人たちの会合の席で提案された。この会合の参加者のひとりだった ジョン・ジョンストン は、アメリカに国際的規模の美術館が存在しないことを憂い、メトロポリタン美術館の設立構想を訴えたが、この時点では美術館の建物はおろか、1点の絵画さえ所有していなかった。

           ジョン・ジョンストン

美術館は 4年後の1870年に開館。基金による購入や、さまざまなコレクターからの寄贈によって収蔵品数は激増し、現在では絵画・彫刻・写真・工芸品ほか家具・楽器・装飾品など300万点の美術品を所蔵。全館を一日で巡るのは難しいほどの規模を誇る、世界最大級の美術館のひとつとなっている。

 

カテュール・マンデスの娘たち【わたしの里・作品】 カテュール・マンデスの娘たち ルノアール


メトロポリタンの特色は、そのコレクションの幅がきわめて広く、あらゆる時代、地域、文明、技法による作品を収集していることにある。そして最大の特色は、これだけの規模の美術館が、国立でも州立でも市立でもない、純然とした私立の美術館である点。入館料が美術館側の「希望額」として表示されているのも名物で、懐事情の苦しそうな美大生だと少々欠けても大目に見てくれたり、いかにも裕福そうな紳士淑女には気前の良さを期待していることが言外にほのめかされたりする。

 

美術館の運営管理は理事会によって行われている。創立100周年の1970年から始まった大改修計画により、美術館の総床面積は倍増し、さらに充実した展示が可能となった。

ミュージアムショップの充実ぶりも有名。関連書籍、ミニチュア、雑貨などはインターネットによる通信販売でも購入できる。

また、マンハッタン北部、ワシントンハイツ地区のフォート・タイロン・パークにはメトロポリタン美術館の別館、「クロイスターズ」があり、フランスやスペインの廃僧院を解体輸送して再構築した建物内には、中世ヨーロッパ美術が展示されている。

 

 九月の朝【シャバ】 九月の朝 ポール・エミール・シャバ】 

 

 

 

 

 

 

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ウフィツィ美術館

2012-01-25 | 美術館

美術館の ご案内

ウフィツィ美術館【美術館】 ウフィツィ美術館 イタリアの画家

 

ウフィツィ美術館 (Galleria degli Uffizi) は、
イタリアのフィレンツェにあるイタリアルネサンス絵画で有名な美術館である。
1591年より部分的に公開されており、近代式の美術館として
ヨーロッパ最古のものの1つである。
またイタリア国内の美術館としては収蔵品の質、量ともに最大のものである。
1982年に世界遺産フィレンツェ歴史地区の一部として認定されている。
また、トスカーナ方言である Uffizi は英単語 office の語源になった。

 

メディチ家歴代の美術コレクションを収蔵する美術館であり、イタリアルネサンス絵画の宝庫である。展示物は2,500点にのぼり、古代ギリシア、古代ローマ時代の彫刻から、ボッティチェッリ、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロらイタリアルネサンスの巨匠の絵画を中心に、それ以前のゴシック時代、以後のバロック、ロココなどの絵画が系統的に展示されている。
(wikipedia)

 

 

 

美術館の建物は、ドーリア式の回廊の上に2階、3階部分が

建設されたルネッサンス様式の建築物で、

全体としては巨大なU字型をしている。

初代トスカーナ大公コジモ1世の治世下、ジョルジョ・ヴァザーリの設計で1560年に着工し、1580年に竣工したフィレンツェの行政機関の事務所がもとになっている。コジモ1世が当時あちこちに分かれていたフィレンツェの官庁をひとつの建物に収めさせたもので、建設時には周辺の一区画をすべて取り壊して建築が行われた。「ウフィツィ」の名はイタリア語の Ufficio (英語の offices (オフィス) にあたる語)に由来する。

アルノ川に面した川沿いの砂地に建築されており、基底部分は世界最初のコンクリート工法とも言われている。なお、コジモ1世とヴァザーリはともに1574年に没しており、建物の完成はコジモ1世の跡を継いだフランチェスコ1世と建築家ベルナルド・ブオンタレンティ(英語版)(1536-1608)に引き継がれた。

 

コジモ1世は住まいであったピッティ宮殿から、ベッキオ橋の2階部分を通り、毎日通う庁舎(現・ウフィツィ美術館)へ至る約1kmの通路(ヴァザーリの回廊)も造らせた。これもヴァザーリの設計で、1565年に半年足らずの工期で完成した。回廊の中には700点を超える絵画があり、中でも肖像画コレクションは有名であるが、ウフィツィ美術館本館とは別の扱いとなっており、見学にも別の予約が必要となる。

フランチェスコ1世は、1579年から1581年にかけて庁舎3階の廊下天井にグロテスク模様の装飾を施し、この頃からこの庁舎でメディチ家の持つ古代彫刻などの美術品を収容、展示するようになった。同じ頃、3階には美術品を飾る八角形の部屋「トリブーナ」を増築させ、ベルナルド・ブオンタレンティがモザイクや真珠貝象嵌によるこの部屋の装飾を担当した。その後1591年から3階部分を公開したのが美術館の始まりで、これらは建築当初からコジモ1世の構想にあったといわれる。

1737年、メディチ家出身の最後のトスカーナ大公であるジャン・ガストーネが後継者を残さず死去し、メディチ家は断絶した。メディチの血を引く唯一の相続人であったアンナ・マリア・ルイーザは、「メディチ家のコレクションがフィレンツェにとどまり、一般に公開されること」を条件に、すべての美術品をトスカーナ政府に寄贈した。

ウフィツィ美術館は1769年、ハプスブルク=ロートリンゲン家のレオポルド1世(後の神聖ローマ皇帝レオポルト2世)の時代に一般に公開されるようになった。彼は古代学者ルイジ・ランディを顧問としてコレクションの分類整理に着手し、それまで収蔵されていたマジョルカ陶器、武具類、科学部門のコレクションを他の博物館へ移管したり、売却したりした。19世紀後半には、ロマネスク以降の彫刻がフィレンツェ市内の国立バルジェロ美術館へ、エトルリアなどの考古遺物がフィレンツェ考古学博物館へ、それぞれ移管され、ウフィツィ美術館は絵画館としての性格を強めていく。この間にも絵画のコレクションは強化されていった。たとえば、レオナルド・ダ・ヴィンチの著名な『受胎告知』は、1865年に受贈したフェローニ・コレクションにあったものである。

1993年5月27日、美術館近くで自動車爆弾による爆発があり、通行人ら5人が死亡、50人以上が重軽傷を負った。建物の一部も壊れ、一部の美術品や資料も被害を受けた[1]。

 

 

 

 

ルクレティア Lucretia【言葉の説明】

 

 

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エルミタージュ美術館

2012-01-15 | 美術館

 美術館の ご案内

 

 


エルミタージュ美術館(Эрмитаж、Hermitage)は、サンクトペテルブルクにあるロシアの国立美術館。 1990年に世界遺産(サンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群)に包括登録されている。


正式名称 Государственный Эрмитаж
来館者数 2,426,203 (2009)[1]
開館 1764年
所在地 〒
38 Palace Embankment, Dvortsovy Municipal Okrug , Cental District, Saint Petersburg


 ロシア語の正式名称はГосударственный Эрмитаж(国立エルミタージュ)。「エルミタージュ」とはHermitage、(隠遁者/世捨て人)の部屋という意味である。

小エルミタージュ(Малый Эрмитаж)、旧エルミタージュ(Старый Эрмитаж)、新エルミタージュ(Новый Эрмитаж)、エルミタージュ劇場(Эрмитажный театр)、冬宮(Зимний дворец)の5つの建物が一体となって構成されており、現在本館となっている冬宮はロマノフ朝時代の王宮である。

1764年にエカチェリーナ2世がドイツから美術品を買い取ったのが、エルミタージュ・コレクションのはじまりである。[2]エルミタージュ美術館の起源はエカチェリーナ2世が1775年に建てた自身専用の美術品展示室であり、一般に公開はされていなかったが、1863年に初代館長となったゲデオーノフによって市民も観覧が可能となった。[3]

1917年のロシア革命後は貴族から没収されたコレクションの集積所となった。1918年には冬宮に存在したすべての研究、管理組織を建物ともどもエルミタージュ美術館として統合することが決定され、この統合作業は第二次大戦後に完了した。[3]

 

所蔵品 

イタリア・ルネサンス
レオナルド・ダ・ヴィンチ 『聖母ブノワ』『リッタの聖母』
ラファエロ 『コネスタビレの聖母』『聖家族』

ジョルジョーネ ユディト( Judith )
ティツィアーノ  『ダナエ』 『懺悔するマグダラのマリア』 

レフカダ島のサッフォー【ゲラン】 ゲラン レフカダ島のサッフォー 

カラヴァッジオ『リュートを弾く若者』

( wikipedia より抄出、画像の添付や加筆、編集をわたしの里でくわえた )

 

 

 

 

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イピゲネイア

2011-10-11 | 美術館

 ご案内

 

アガメムノンの故事  ( ※ 1 ) イピゲネイア

  トロイアへ向けて出航したギリシャ軍は、女神アルテミスの力によってアウリスに足止めされていた。女神は総大将アガメムノンの長女イピゲネイアを生贄に捧げることを要求。妻クリュタイムネストラの必死の嘆願も振り切りその要求に応えようとするアガメムノン。イピゲネイア本人も遂には軍のために犠牲になることを決意する。  

 

 

 

左近尉の手許に、 『 ギリシャ悲劇全集』 がある。

昭和35710日 初版発行 人文書院

 

アウリスのイーピゲネイア  呉茂一 井上一彦 共訳

その解題の部分を紹介する。

 

 文献の紹介です。 

  解 題

 パリスのために誘拐された妻ヘレネーの奪還を企て、兄アガメムノーンの指揮の下にギリシャ中から大群を募ったメネラオスは、いまアリウスの浜に軍勢を集めトロイアに向け船出しようとする。そのとき風凪がつづいて久しく船を出せないのに、占い師の力を借りると、これはアルテミス女神のたたりで、それを解くにはアガメムノーンの長女イーピゲネイアを女神へ犠牲に上げなければならぬという。王はついに決心して故郷に手紙を遣り、娘を呼び寄せる。もとよりこのことの次第は秘し、若大将アキレウスと婚儀をおこなうためと称する。母と共に賑々しく着いた王女はことの次第を悟ると悲嘆に暮れ、母の妃は憤りに燃える。アキレウスも様子を聞いて義憤を覚え娘をけっして祭壇には上がらせまいと誓う。しかしようやく事情の止むを得ぬのを知った王女は、心を変えて自分から国家のため身を棄てようと決心して、嘆く母をかえって慰め、アキレウスの申し出さえ優しく拒絶する。

 こうして事態は最後のカタストロペーへ運ばれるが、王の刃が乙女の頸にまさに触れようとするとき、女神はこれを憐れんで一頭の牝鹿を代わりに置き、イーピゲネイアの身は空中を遙かな黒海のほとりへ運び去られ、タウロイ人の国でそこなる女神の社の巫女として勤行を命じられる。しかし人々にはただ軌跡としてのみ、余の成行は知られないのであった。

  この劇は詩人の末年の作と覚しく、死後に 『 バッコスの信女 』  『 アルクメーネ 』 と共に、甥の同名詩人エウリピデスによって上演され、優勝を与えられたと伝わる。あるいはなお未完成だったのを、彼によって仕上げられたともいう。ヒロインの性格なり心境なりが前と後で変転するのは、いろんな批判と支持とを古くから与えられている。

 

 登場人物
アガメムノーン ギリシャ軍の総師。
老人            その召使い
メネラオス      アガメムノーンの弟、スパルタの王でヘレーネの夫。
クリュタイメーストラー アガメムノーンの妻、アルゴスの王妃。
イーピゲネイア アガメムノーンの長女。
アキレウス   ギリシャ軍第一の勇士、海の女神テティスの息子。
コロス     アリウスと海峡を隔てた向かいの町、カルキスの女たちより成る。
その他     幼児のオレステース、従者、番兵など。

 場所
 ギリシャ軍が屯するボイオティア海岸アリウスの浜、アガメムノーン王の幌舎の外。 

 文献の紹介終わりです。  m(_ _)m

 

古代の人々も現代人も、まともな感性ならば、『 無辜の人間を生け贄にする、ストーリー 』 なんて、認めるはずもない。

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2011 09 12  わが子を喰らう クロノス 【わが郷

 

 

Nickolas Muray

 

 

嫌いなものは キライ
  嫌いなものは キライ  【わが郷

 

 

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トロイ戦争

2011-10-04 | 美術館

ご案内

 
   The Persian Wars

☆☆

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トロイア戦争(Τρωικός πόλεμος, 英語 Trojan War)とは、小アジアのトロイアに対して、ミュケーナイを中心とするアカイア人の遠征軍が行ったギリシア神話上の戦争である。トロイア、あるいはトローアスという呼称は、後の時代にイーリオス一帯の地域につけられたものである。この戦役は、古代ギリシアにおいて、ホメーロスの英雄叙事詩『イーリアス』、『オデュッセイア』のほか、『キュプリア』、『アイティオピス』、『イーリオスの陥落』などから成る一大叙事詩環を構成した。またウェルギリウスはトロイア滅亡後のアイネイアースの遍歴を『アエネーイス』にて描いている。( Wikipedia )

☆☆

イーピゲネイア王女はトロイア戦争を始めるにあたっての
犠牲としてアルテミス女にささげられた。
 

ならばニューヨークの多くの市民たちは、
まぼろしの神官 『 アルカイダ 』 の名のもとに
異教徒への遠征攻撃の生け贄にされたのであろう。

アガメムノーン王の娘、イーピゲネイアは儀式の途中で、鹿とすり替えられたとの話もある。

つまりじっさい屠られたのは、牝鹿だったというのだ。
 ( わが子を喰らう クロノス )

 

 

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渡辺喜美氏への提言 

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  木内克 エーゲ海に捧ぐ

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