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とりあえず西洋絵画から始めて、現代日本作家まで

不動明王

2011-12-23 | 神仏や 神話の人物

 

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不動明王 (ふどうみょうおう)、梵名アチャラ・ナータ (अचलनाथ [acala naatha])は、仏教の信仰対象であり、密教特有の尊格である明王の一尊。また、五大明王の中心となる明王でもある。


概要 [編集]密教の根本尊である大日如来の化身、あるいはその内証(内心の決意)を表現したものであると見なされている。「お不動さん」の名で親しまれ、大日大聖不動明王(だいにちだいしょうふどうみょうおう)、無動明王、無動尊、不動尊などとも呼ばれる。アジアの仏教圏の中でも特に日本において根強い信仰を得ており、造像例も多い。

また、日蓮宗系各派の本尊(いわゆる十界曼荼羅)にも不動明王が書かれているが、愛染明王と同様、空海によって伝えられた密教の尊格であることから、日蓮以来代々種子で書かれている。なお日蓮の曼荼羅における不動明王は生死即涅槃を表し、これに対し愛染明王は煩悩即菩提を表しているとされる。

三昧耶形は利剣(倶利伽羅剣)、羂索。種子(種字)はカーン (haaM)、或いはカンマーン (hmmaaM)。真言は、一般には小咒(しょうしゅ)、一字咒(いちじしゅ)と呼ばれる「ノウマク サンマンダ バザラダン カン」(namaH samanta vajraaNaaM haaM)が用いられる。

また、真言には、大咒(たいしゅ)、火界咒(かかいしゅ)と呼ばれる「ノウマク サラバタタギャテイビャク サラバボッケイビャク サラバタタラタ センダマカロシャダ ケンギャキギャキ サラバビギナン ウンタラタ カンマン」(namaH sarvatathaagatebhyaH sarvamukhebhyaH, sarvathaa traT caNDamahaaroSaNa khaM khaahi khaahi sarvavighanaM huuM traT haaM maaM)、 中咒(ちゅうしゅ)、慈救咒 (じくしゅ)と呼ばれる「ノウマク サンマンダ バサラダン センダンマカロシャダヤ ソハタヤ ウンタラタ カンマン」 (namaH samanta vajraaNaaM, caNDamahaaroSaNa sphoTaya huuM traT haaM maaM)も知られる。

縁日は毎月28日である。

 


 背筋がブルっとしたのは


起源 [編集]梵名の「アチャラ」は「動かない」、「ナータ」は「守護者」を意味し、全体としては「揺るぎなき守護者」の意味である。チベット仏教などではこの名よりもチャンダ・マハーローシャナ (चण्डमहारोषण [caNDamahaaroSaNa])即ち暴悪忿怒尊の名でより知られる。しかし、こちらは三眼で毛皮を身に纏い髪が逆立っているなど、日本に伝えられた不動明王とは図像的にやや異なるものである。

 

 
   不動智神妙録

 

空海(弘法大師)が唐より密教を伝えた際に日本に不動明王の図像が持ち込まれたと言われる。「不動」の尊名は、8世紀前半、菩提流志(ぼだいるし)が漢訳した「不空羂索神変真言経」に「不動使者」として現れるのが最初である。「使者」とは、大日如来の使者という意味である。

密教では三輪身といって、一つの「ほとけ」が「自性輪身」(じしょうりんじん)、「正法輪身」(しょうぼうりんじん)、「教令輪身」(きょうりょうりんじん)という3つの姿で現れるとする。「自性輪身」(如来)は、宇宙の真理、悟りの境地そのものを体現した姿を指し、「正法輪身」(菩薩)は、宇宙の真理、悟りの境地をそのまま平易に説く姿を指す。これらに対し「教令輪身」は、仏法に従わない者を恐ろしげな姿で脅し教え諭し、仏法に敵対する事を力ずくで止めさせる、外道に進もうとする者はしょっ引いて内道に戻すなど、極めて積極的な介入を行う姿である。不動明王は大日如来の教令輪身とされる。煩悩を抱える最も救い難い衆生をも力ずくで救うために、忿怒の姿をしている。

また、釈迦が成道の修業の末、悟りを開くために「我、悟りを開くまではこの場を立たず」と決心して菩提樹の下に座した時、世界中の魔王が釈迦を挫折させようと押し寄せたところ、釈迦は穏やかな表情のまま降魔の印を静かに結び、魔王群をたちまちに超力で降伏したと伝えられるが、不動明王はその際の釈迦の内証を表現した姿であるとも伝えられる。穏やかで慈しみ溢れる釈迦も、心の中は護法の決意を秘めた鬼の覚悟であったというものである。他にも忿怒の相は、我が子を見つめる父親としての慈しみ=外面は厳しくても内心で慈しむ父愛の姿を表現したものであると言われる。


伝承 [編集]「底哩三昧耶経」には大自在天(ヒンドゥー教の最高神シヴァ)を不動明王が調伏する説話がある。

それによると、大日如来が悟りを開いて仏陀になったとき、ありとあらゆる三界の生き物たちが集会に来たが、自分こそ三千世界の主と考え慢心する大自在天だけは招集に応じなかった。

 

 
 降三世明王立像

 

大自在天は「持明者(インドの魔法を使う精霊、ここでは夜叉明王)が使いとして来るだろうが、奴らは不浄なものを嫌うから、不浄なものを幻術で作り出し四方に張り、その中にいれば持明者の明術も役に立つまい」として結界を張り、近寄れないようにした。

不動明王が大自在天を呼びに行くと不浄の結界で覆われていたので、不動明王は不浄金剛(烏枢沙摩明王)を召還し、不浄を食らい尽くさせた。そして、ただちに不動明王は大自在天を捕らえて仏陀の元へ連行する。

しかし大自在天は「汝らは夜叉に過ぎぬが、私は神々の王なのだ」と言い何回も逃げ続けた。仏陀が「断罪すべし」と命ずると、大自在天とその妃(ウマー)を踏み殺し絶命させたのだった。(降三世夜叉明王)

そして、大自在天の処分を尋ねると仏陀は「蘇生させよ」と言うので、法界生真言を唱えて復活させた。大自在天は喜び不思議がり「この夜叉は何者なのでしょうか?」と尋ねると、仏陀は「諸仏の主である」と答えた。大自在天は感激し、万物の全てにおいて尊い諸仏の上に、さらに諸仏の主がいることを知り、また彼が不動明王という「大王」のお陰で将来仏になれる授記をも得たのだった。

ここでは、不動明王のことを、夜叉、大王、諸仏の主と呼んでいるのが特徴的である。

 

 

像容 [編集]蔵密教の明王像は多面多臂の怪異な姿のものが多いが、不動明王は一面二臂で剣と羂索(けんじゃく、縄)を持つのを基本としている(密教の図像集などには多臂の不動明王像も説かれるが、立体像として造形されることはまれである)。剣は竜(倶利伽羅竜)が巻き付いている場合もあり、この事から「倶利伽羅剣」と呼ばれている。

また、その身体は基本的に醜い青黒い色で表現される像容が多い。これはどぶ泥の色ともいわれ、煩悩の泥の中において衆生を済度せんことを表しているといわれる。しかし底哩経などには、身体の色は青黒か赤黄とあり、頂は七髷か八葉蓮華、衣は赤土色、右牙を上に出し左牙を外側に出す、というのが一般的とされる。

人間界と仏界を隔てる天界の火生三昧(かしょうざんまい。人間界の煩悩や欲望が天界に波及しないよう烈火で焼き尽くす世界)と呼ばれる炎の世界に住している。不動明王は多くの明王の中でも中心的な存在であり(五大明王の中でもリーダー格である)、像容は肥満した童子形に作ることが多く(『大日経』の出典による)、怒りによって逆巻く髪は活動に支障のないよう弁髪でまとめ上げ、法具は極力付けず軽装で、法衣は片袖を破って結んでいる。その装束は古代インドの奴隷ないし従者の姿を基にしたものとされ、修行者に付き従いこれを守る存在であることを表している。右手に降魔の三鈷剣(魔を退散させると同時に人々の煩悩を断ち切る)、左手に羂索(けんじゃく。悪を縛り上げ、また煩悩から抜け出せない人々を救い上げるための投げ縄のようなもの)を握りしめ、背に迦楼羅焔(かるらえん。迦楼羅の形をした炎)を背負い、憤怒の相で粗岩(磐石、ばんじゃく。「金剛石」とあるのでダイヤモンドの原石である)の上に座して「一切の人々を救うまではここを動かじ」と決意する姿が一般的である(日本では坐像の他、立像も数多く存在している)。

インドで起こり、中国を経て日本に伝わった不動明王であるが、インドや中国には、その造像の遺例は非常に少ない。日本では、密教の流行に従い、盛んに造像が行われた。日本に現存する不動明王像のうち、平安初期の東寺講堂像、東寺御影堂像などの古い像は、両眼を正面に見開き、前歯で下唇を噛んで、左右の牙を下向きに出した、現実的な表情で製作されていた。しかし時代が降るにつれ、天地眼(右眼を見開き左眼を眇める、あるいは右眼で天、左眼で地を睨む)、牙上下出(右の牙を上方、左の牙を下方に向けて出す)という、左右非対称の姿の像が増えるようになる。これは10世紀、天台僧・安然らが不動明王を観想するために唱えた「不動十九観」に基づくものである。

☆☆


フランス・アカデミズム

2011-12-21 | アカデミズム

 

  ダヴィッド

 

アカデミック様式の発展

プッサン派・ルーベンス派論争以来、多くの画家たちがこの2つの様式の間で仕事をした。しかし、19世紀の論争の時は、2つの様式、つまり新古典主義とロマン主義を統合しようという試みがなされた。それを成し遂げた画家として評論家たちが名前を挙げた中には、テオドール シャッセリオ  、アリ・シェフェール、フランチェスコ・アイエツ、アレクサンドル=ガブリエル・ドゥカン、トマ・クチュールらがいる。後期のアカデミック画家、ウイリアム・アドルフ・ブグロー は、良い画家である秘訣は「色と線を同じものとして見ること」とコメントした。トマ・クチュールは美術技法について書いた本の中でそれと同じ考えを推奨し、こう主張した。この絵は色がより良い、線がより良いと言うのはナンセンスだ。なぜなら色が素晴らしく見えるのは線がそう見せているからで、逆もまたそうである。実際には、色は形の「色価(value)」について語る方法である。

 

この時代の進展には、もう一つ、絵に描かれた「時代」を示すための様式、つまり「歴史主義」があった。それを良く表しているのがジャメ・ティソ(James Tissot)の影響を受けたジャン・オーギュスト・エンドリック・レイスの作品である。さらにNeo-Grec(新ギリシア)様式の発展もあった。歴史主義は、異なる過去の絵画の伝統の新機軸を結合・調和させるべきとするアカデミック絵画に関連した信念および実践をも指すものだった。

 

主要な作家 [編集] フランス [編集]アルフレッド・アガッシュ(Alfred Agache)画家
ルイ・エルネスト・バリアス(Louis-Ernest Barrias)彫刻家
ポール・ボードリー、画家
アルベール=エルネスト・カリエ=ベルーズ(Albert-Ernest Carrier-Belleuse)彫刻家
ウィリアム・アドルフ・ブグロー、画家
シャルル・エドワール・ブーティボネ(Charles Edward Boutibonne)
シャルル・ジョシュア・シャプラン(Charles Joshua Chaplin)画家
ピエール・オーギュスト・コット、画家
トマ・クチュール、画家
アレクサンドル・カバネル、画家
アレクサンドル=ガブリエル・ドゥカン、画家

ポール・ドラローシュ、画家

レディー・ジェーン・グレイ の処刑


デルフィン・アンジョルラス(Delphin Enjolras)画家
アレクサンドル・ファルギエール(Alexandre Falguière)彫刻家

ジャン=レオン・ジェローム 、画家・彫刻家
ジャン=ジャック・エンネル(Jean-Jacques Henner)画家
ポール・ジャマン(Paul Jamin)画家
ジャン=ポール・ローランス(Jean-Paul Laurens)画家・彫刻家
アントナン・メルシエ(Antonin Mercié)彫刻家
エミール・ムニエル(Emile Munier)画家
ギヨーム・セイニャク(Guillaume Seignac)画家

 

 ナポレオン

 

 William Adolphe Bouguereau
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The Three Graces

2011-12-18 | Galleries

Galleries 

 

 

三美神 The Three Graces

ギリシア神話とローマ神話に登場する三人の美しい女神。
ラファエロ・サンティの作品やサンドロ・ボッティチェッリの 「春」 にも描かれている。

 

ギリシア神話に登場する三美神で、それぞれ魅力(charm)、美貌(beauty)、創造力(creativity)を司っている。一般的には、ヘーシオドスの挙げるカリスのアグライアー、エウプロシュネー、タレイアとされている。一部には エウプロシュネー、カレー、パーシテアー の 3柱を三美神とする説もある。また、美しさを競う ヘーラー、アテーナー、アプロディーテー も指す。

ローマ神話に登場する三美神で、それぞれ愛(amor)、慎み(castitas)、美(pulchritude)を司っている。ギリシア神話の三美神と対応させて、主にユーノー、ミネルウァ、ウェヌスが有名。
(wikipedia)

 

 

三美神【クラナッハ】 The Three Graces クラナッハ

 

 

 ルーベンスの三美神【Baroque】

 

 

ピカソ1934年の素描【ぜ~んぶが、 ヘンテコなのよ。】

 

 

 

 

 

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悪徳の栄え

2011-12-15 | 映画など

 

 

 

Vice and Virtue (original French title: Le Vice et la Vertu) is a 1963 war-time French film starring Annie Girardot as Juliette (Vice), Robert Hossein as the sadistic German officer and Catherine Deneuve, in her first notable film role, as Justine (Virtue).

It was directed by Roger Vadim and inspired by some of Marquis de Sade's characters.
http://en.wikipedia.org/wiki/Vice_and_Virtue

 

 

サドの代表作 『悪徳の栄え』 『美徳の不幸』 を、ナチス支配下時のフランスに置き換えてヴァディムが撮った、バロック的官能美に満ちた傑作。美貌と大胆さでナチ将軍の情婦に成り上がる姉ジュリエットにA・ジラルド。レジスタンスの恋人を奪われ、姉のもとに直訴に来たところを、冷酷な将校シェーンドルフに見そめられ、高官の慰み者に仕立て上げられる無垢な妹ジュスティーヌにC・ドヌーヴ。妹が幽閉されるスイス国境の騎士館は同じ境遇の女たちの“園”と化していて、その辺りの描写にヴァディムのイズムが覗く。姉と将校の屈折した関係の捉え方も巧い。甘美なテーマ曲がドラマを盛り上げ、歴史の大波に翻弄される健気なヒロインを際だたせる。可憐だが堂々としたドヌーヴ。ヴァディムに私生活の上でも愛されているせいか、カメラを見つめる瞳のゆらめき、艶めき、尋常でない。
http://www.allcinema.net/prog/show_c.php?num_c=591

 

 

 

2012 03 29 悪徳は いつまでも 栄えない 悪徳は いつまでも 栄えない わが郷

 

 

 

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映画 渚にて

2011-12-08 | 映画など

 

 

 


人類なんてそのように軟(やわ)な存在ではない。

ヘイワ主義のシャーレの中で、純粋培養されれば生命体としての、免疫系が成長しない。人々はあたかも、工場で育成されたカイワレ大根のように、真っ白で美しい根っこを、液肥で伸ばさせられるだけ。 (此処で言われるところの、人々とは主にサヨクノ連中のこと。ご存じ日本共産党とか、社民党あるいは民主党の支持者は、我が郷は足日木の垂水のほとりはの、左近尉の言うところでは、教師とか官公労の特権層である。あるいは自動車労連とか、家電などの旧同盟系。刑事事件を起こさないかぎり、どのような能無しでも一生を安泰に暮らせる、「戦後レジーム」という名の、ガラスの培養瓶の中で育てられた。)


名画とされる 『渚にて』 は、軍産が東西冷戦の茶番劇を仕立てて、核兵器を大量に作っているぞ詐欺で大儲け(本当に中身がきっちりと詰まった、真正の核弾頭を作ったのかは、極めて疑わしい。しかしアポロ計画のデタラメを信じる、羊たちはお目出度い。簡単に騙される) このデタラメを大衆の判断力から逸らさせるために作られた、詐欺師の台詞を映像化しただけのもの。一般大衆は、キリスト教の聖書が説くように、ひ弱な羊でなくてはならない。東西冷戦の対立構造で、軍産が大儲けをする。この構造を知られてはならない。そもそも、核兵器を打ち合って、北半球が完全に汚染される。なんてことは、まじめに考えれば、ありえないことなのだ。広島や長崎に投下された、核弾頭が破壊した地域は、それぞれの市街地ほどの広さでしかない。つまり、20㌔トンの核弾頭で、広島市だけではなく広島県全域を全滅させるには、少なくとも、10発の核弾頭が必要となる。つまり日本国全土を完全に沈黙させるには、1,000発の核弾頭が必要なのだ。

 

各国・地域情報 各国・地域情勢 

ならば世界の広さをイメージして見る。

アメリカは大ざっぱにいえば、日本の30倍もある。海洋部位も考えれば、50倍以上である。つまり米国を灰燼に帰すには、5万発の核ミサイルを用意して、これを効果的にいっせいに投射せねばならない。そして次には、全世界、「渚にて」では消滅させられたのが北半球だから、そのやはり十倍とする。ならばナント、50万発の核爆弾が必要となる。

 

  月の石なんてぇ、トンデモな与太もあった。

 

つまり、このデタラメな宣伝映画の描く、人類最後のソドムとゴモラの火の玉を、人類は用意できない。しかし、一般大衆の脳みそは、この欺瞞を暴けるだけの、知性を持ち合わせていなかったのか。否、当ブログの管理者が思うに、人はそれほど全部が全部して馬鹿ではない。しかし、大衆情報システムは、ほとんどがユダヤ系統によって、専横されてしまっている。とりわけ、日米とか西ヨーロッパでは、完ぺきに近く金融資本によって占領されている。ところが、最近はネットが出来て、様相は一変しつつある。

 


原子爆弾では核分裂による放射能汚染が人々を苦しめる。

しかしその与える損害の範囲は限定的だ。

 

ならばと、さらに強力な水素爆弾を使うとする。

だがこれでは、日本で言えば、一つの県とかを物理的に破壊するだけだ。つまり放射能汚染はそれほど、深刻にはならない。つまり水爆は比較的、放射線に関して言えば、言っちゃなんだが綺麗な核兵器なのだ。


人類が平穏に心安らかに暮らすには、もちろん核兵器などあってはならない。

しかし米国もロシアも、これを完全に廃棄するつもりは無い。

ならば、核兵器と戦争に関して、人類はもっと、もっと賢くならねばならぬ。

戦争は支配者の金儲けのためにある。

もうひとつ、支配者の権力を維持するために、軍隊はある。


だが世界に敷衍しつつある民主主義は、人々の権能により政府を選択できる。
つまり、人々が賢くなれば、核兵器は全廃できるのだ。

しかし是、薄甘サヨクの白昼夢。現実世界は、日本とドイツなどの枢軸国側を、核保有の連合国側が搾取する構造になっている。つまり、この構造を打ち壊さねば、米国など連合国側の核保有を止めさせることはできない。

 

 
  John Martin "Sodom and Gomorrah" 背筋の寒くなる、「狂人日記」ですね より


 

とか書いてきたが、核にも効用はある。

これを撃たれれば、たとえば頑丈なシェルターでも、直撃を喰らえば破壊される。それに丁寧に同所へ、10秒間隔で十数発の核弾頭を撃ち込まれれば、指令所なり避難壕は、蒸発して消滅する。つまりかつての日本軍のような、戦時国際法に則った軍隊に攻撃されれば、テロリスト国際金融の手先の敵陣は消滅して蒸発するのだ。これでは、彼らの戦争目的が、金儲けで自分らだけ良い思いをするだから、この計画は間尺に合わない。国際金融の糞どもは、わがヨーメン防衛隊によって、なぶり殺しにされる。それでやっと因業な金貸したちも、核軍縮に舵をシフトした。しかしだ、一定の核弾頭は、保存される。

 


このことで、枢軸国側は一方的に不当な扱いを受けることとなる。

そのことに日本の人々が、気が付いてしまった。
(気が付かない、阿呆もいるにはいるが、………。)

日本人は自沈などしないのだ。

 

 復活の日

 

参考資料

 http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2012/05/post-3253.html

http://movie.goo.ne.jp/movies/p6581/comment.htm

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駅馬車

2011-12-07 | 映画など

 映画など

『儂らの神聖な土地に、

煙を吐くムカデの化け物を走らせる。』

 

『許せぬ事だ。』

『邪教徒の教会の屋根には、人間を殺す、その十字架までかかげる。』

 

 

 

 

           source

22006 01 27  キリシタンが日本の娘を50万人も海外に奴隷として売った事 【株式日記と】

 

 

 

 

 

 

                                                   マッカーサーの戦後政治【歴史】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2千700万人の 命の芽を摘む【わが郷】 2700万人の 命の芽を摘む 【わが郷

 

 

 

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