和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

郡長と、宮澤賢治に貴島憲

2024-05-19 | 安房
資料の裏付けがない癖して、身近で、
あれこれ結びつけたくなるのでした。

今日思い浮かぶのは、米騒動と農学校設立でした。

米騒動が、1918(大正7)年にあったということでした。
それでは、大橋高四郎はそのころどうしていたのか?
取敢えず、山武郡の郡長をしていた頃と重なるような気がします。
そこでの、大橋高四郎は農学校の創立に尽力されていたようです。
そうして、大正9年12月、大橋氏は安房郡長として赴任し、
安房では、安房農学校の設立にかかわることになります。

ここでもって、思い浮かべるのが、宮澤賢治でした。

1920(大正9)年・・盛岡高等農林地質学研究科を終業した賢治でした。
1921(大正10)年9月、妹トシの病報を受け花巻に帰ってきます。

「そういうとき・・郡長の葛(くず)博、農学校校長の畠山栄一郎が
 賢治を農学校教諭にむかえたいといってきた。・・ 」
         ( p187 堀尾青史「年譜宮澤賢治伝」中公文庫 )

1921年12月3日 25才になる賢治は、稗貫郡立稗貫農学校教諭となる。

賢治が農学校の教諭になるさいに、
郡長からどのような言葉をかけられたのか、わからないながら気になります。
貴島憲が安房農学校の教諭になる、そのキッカケならば、
安房農学校の記念誌に、貴島氏の回顧文が載っておりました。

今回は、その回顧文を引用しておわります。

「 大正10年の春、時の安房郡長の大橋さんの電報で、
  私ははじめて北条の郡役所にやって来た。
  そこが安房農業水産学校の創立事務所になっていた。

  郡役所の玄関の前に大きな辛夷が一ぱいに花をつけていたから
  3月の中旬の事であったであろう。

  そこで大橋さんから学校に関して色々なお話を承った。
  何でも此の新しい学校は、今度新に文部省で制定された
  五ヶ年制実業学校として、全国に率先して創立されたもので、
  其期する処は、従来の様な不徹底な到底役に立つ筈のない
  下手な技術員養成でもなく、又それかと言って今の中学の様な
  ・・・・ものでもなく、将来社会の中堅として役立つべき青年に
  直に基礎的な普通教育を与へる学校、つまり農村的漁村的公民学校
  というべきものでなければならないという事であった。

  私はどうもこれはむつかしい仕事だと思った。
  併し同時に大変大切な事で、もしそれが全国に普及し
  よく運用されたなら、かの豆粕程のデンマークをして
  世界に重きをなさしめた国民高等学校のような働き、
  此の行き詰まった貧乏国家を一新せしめるような
  働きをなさないものでもない、
  吾々もまあ精々椽の下の力持を勤める事にしようと考へた。

  大橋さんの清新溌溂たる精神に感服すると共に、
  私自身も大に愉快になってきた。     」
       ( p76 「千葉県立安房農業高等学校創立五十周年記念誌」)
 
  

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 椀に、われ鍋・破れざる。 | トップ | それから丁度4年目のこと。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

安房」カテゴリの最新記事