和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

椀に、われ鍋・破れざる。

2024-05-18 | 安房
「安房震災誌」に、
「米の欠乏と罹災者の窮状」という箇所があります。
そのはじまりは、

「安房郡の全体からいふと、米は平年に於て、自給自足の土地である。

 此の大体論から推察すると、安房は大震災があっても・・・
 米の欠乏は左まで甚だしくない筈である。と、思はれるのである。
 ・・・然し・・・外観上の皮相論に過ぎない。 」(p258)

こうして、実際の窮状を指摘しておりました。

「 9月1日の震災の当時まで持越されるやうなものは
  大体に於て、殆ど総てが籾(もみ)米である。

  籾米が即刻の役に立たぬのはいふまでもない。
  加之ならず、籾摺器も、収納舎も、悉く地震で破壊されて了ったのだから
  手の着けやうがない。それでも、純農家の方は、辛くも一時の
  凌ぎやうもあらうが、被害の激甚な土地は、

  鏡ケ浦沿ひの市街地であり、漁村である。

  平素に於て、農村地から米の供給を仰いでゐるのである。
  多少の買置き位は兎も角も、それすら、倒潰家屋の下敷となって、
  物の役に立つべきものがない。

  突如として起った大震災である。・・激震地に米のないのは不思議はない。
  
  その上に道路も橋梁も破壊されて、
  米の輸送の途は絶対に断たれて了ってゐる。

  安房は自給自足の國だなどとの悠々閑々たる皮相論は、
  此の大震災に直面しては、何処へも通用ならぬのである。
  米騒動の起らなかったのが仕合であった。  」(p259)


ここに、『 米騒動 』という言葉が出てきておりました。

井上清・渡部徹編「米騒動の研究」第一巻(有斐閣・昭和34年)の
「騒動の構造」のなかに、いくつかに分けられる構造のひとつが
印象に残ります。そこを引用。

「・・・・この型では・・市町村当局や有力者に生活救済を嘆願するが、
 家屋や器物の破壊など暴動にはならない。・・・・

 また富山県下では、女の集団が椀をもって資産家の門前に立ちならび、
 救済要求の沈黙の示威をしている例もあるが、この形は同地方では、
 この年以前にも何回かおこなわれている。

 ・・古い例では、富山県ではないが、佐渡の相川で明治維新前にもあった。

  『 安政元治の交(1854~64年)米価暴騰のさい、
    窮民の婦女ら数十百人相集まり、
    人毎に椀一個を持ちて役所の前に集まり、
    組頭役の出庁を伺い、之を囲繞して
    無言にて椀をささげ飢餓の状を訴え・・ 』(「相川町史」)。  」
           ( p105~106 「米騒動の研究」第一巻 )  

はい。あらためて思い浮かんで来たのは
『安房震災誌』のこの場面でした。それをまた引用して終ります。

「 9月2日3日と、瀧田村と丸村から焚出の握飯が
  沢山郡役所の庭に運ばれた。・・・・・・・

  兎角するうちに肝心な握飯が暑気の為に腐敗しだした。
  郡役所の庭にあったのも矢張り同然で、
  臭気鼻をつくといったありさまである。

  そこで郡長始め郡当局は、・・・・
  その日の握飯の残り部分は、配給を停止したのであった。

  ところが、われ鍋や、破れざるなどをさげた力ない姿の
  罹災民が押しかけて来て、
  
     腐ったむすびがあるそうですが、
     それを戴かして貰ひたい。

  と、いふのであった。
  それは、多くは子供や、子供を連れた女房連であった。
  その力なきせがみ方が如何にも気の毒で堪らなかった。
  ・・・・・・・         」(p260「安房震災誌」)
    

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