和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

安房高女の関東大震災。

2024-03-16 | 安房
千葉県立安房南高等学校に勤務されてた
高木淳教諭による資料がコピーされてありました。
「 校友会雑誌第6号(震災紀念号) 」のコピー。

そこに、「破壊から復興へ」とあり、
今回は、そこから引用をしてみます。

9月1日(土曜)晴午前大驟雨

  ・・好い塩梅には始業式後、既に余程過ぎた後であった為、
  居残ってゐた生徒は二三名に過ぎず、然もそれは微傷も負はずに
  難を避ける事が出来てゐた。幾度か念を押した後校舎に残った者は
  外には一名もない事も解り、其の方は一先づ安心する事が出来た。

  然し寄宿舎生の方はといふに。
  人数が多いだけ急には安否を知ることが出来なかったが
  その中に外出中の生徒が追々帰って来た・・・
  結局する所総人員68名の内2名だけはとうとう足りなかった。
  4年生 伊豆章枝  2年生 村井敏子
  2名は此の日、禍の犠牲となって了ったのである
  
  舎監の西林先生は舎監室の中に残って居られたが
  幸に怪我もなく屋根の破れた所から出て来られた。・・・・

 職員中には死傷はなかったけれど、自宅にはどんな事変がないとも限らない
 ので気が気ではなかったけれど・・・・
 ・・圧死者の遺骸捜索に夢中となって帰る事も忘れて日暮近くまで働いた。

 けれども2人の遺骸は見当らなかった。で明朝早く
 瀧田村の村井敏子の叔父さんといふ方が人夫を連れて来て
 捜索する事にして、職員は一先づ宅へ引取った。

 舎生66名と舎監の先生2人と其他大野、金子、新井、中田等の諸先生
 並にその家族とが運動場に集って握飯1個宛の夕食をすました。

 所々に火の手が闇を赤く彩ってゐた。
 舎生の父兄が心配して1人2人づつポツポツ尋ねて来られて
 伴れて帰って行かれる。

 そのうちに津浪の噂が耳に入った。
 舎生たちの恐怖は其極に達した。・・・
 残ってゐた職員が一張の提灯を力に一同をつれて
 ゾロゾロと鉄道線路を伝って安布里山の方へと逃げた。御真影を背負って。

 路傍には筵の上に死体を置いて闇の中に通夜してゐる家もあった。
 遠い西北の空が真赤に彩られて見えた。・・・・


9月2日(日曜)晴

   安布里山の下で夜を明かして泰明に学校の運動場へと戻って来た。
   舎生の大半はそれぞれ父兄の迎へを受けて帰って行った。

   未明に村井の叔父さんと平群村の青年団の人達が
   十五六人で倒れてゐる寄宿舎の所々を破って捜索せられた。
   2人の遺骸は間もなく取り出された惨状言ふに忍びない・・・

   夜が明けると職員はみな学校へ集った。
   夏井先生は自宅で重傷を受けられた。
   また先生方の家族の中には令閨の負傷された方もあり、
   令孫の死亡せられた方もあり、
   母堂の負傷せられた方もあった。

   住宅はみな倒れた。
   鶏小屋に寝られた方などは上等の部であった。
   しかし睡ったものは一人もなかった。


     ×  ×  ×  ×  ×

   生徒は居らず、校舎は倒れた廃墟の様な学校へ職員は毎日出た。
   そして潰れた家根をはがしては重要書類、校具器具等を取出し、
   またそれを整理する為に物置等を作ったりした。
   又折々には唯一つ残ったトタン葺の体操教室に会議を開いて
   前後策を講じたりした。

   在郷軍人及び地方青年団員の献身的の援助があった為、
   整理は(勿論応急ではあるが)思ひの外早く進行した。

   そして世人の心も大方平静に復しかけて来たので、
   一応全校生徒を召集し、其の状況を聞かうではないかとの議が起り、
   20日午前10時出校するやう通知状を発する事になった。
   それは9月15日の事であった。


またしても、引用ばかりになりました。
安房郡役所から大山村へと出張していた平川氏が当日北條町に戻ります。
瀧田村の村井敏子の叔父さんは、瀧田村へと当日夜に戻り、翌朝未明に
平群村の青年団の人達と捜索にあたっておりました。
個々別々に、北條町近辺の大震災状況は知るところとなっていたわけです。

コメント
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