和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

安房へ銚子の医師団来援。

2024-03-07 | 安房
パラパラ読みだと、肝心な箇所を読み逃したりします。
けれど何気に印象深い箇所を読めたりもするのでした。

安房郡の関東大震災に、銚子からの救援が来た箇所などは
最初に読んだときから、印象深い箇所となっておりました。
ということで、だいぶ長くなりますが引用してみることに。

「安房震災誌」にはp244に出てきますが、
「大正大震災の回顧と其の復興」下巻の、記述が詳細でした。
下巻のp1352~1355に、本銚子町青年団報の文が載っています。

まずは、救援にゆくまでの経緯が語られております。

「 彼の9月1日の地震は銚子地方は左程のものではなかった。 」

とはじまっておりました。

「・・・東京地方の大震火災の報が夜に入って頻々と伝はって来た。
 今両国駅が火災に包まれた。国技館は全焼だなど始めはマサカと
 思ったが事実と信ずるより外ない有様となった。

 翌2日に至って県下南部の震災も確実に伝へられ
 人心恟々たる内に郡役所より通牒あり。安房郡の
 震害甚しき故救護班を組織して出動せよとの事であった。

 仍て早速青年団員中より有志を募集して15名を得た。
 此の外に医師5名と総計20名で班は組織された。

 愈々出発となったが汽車は日向以西は不通と聞いて
 銘々自転車を準備して明朝を待った。翌9月3日早朝
 出発日向駅から自転車で夜来の雨に道路泥濘幾多困難を
 凌ぎつつ漸く千葉に着いたものの西海岸も矢張り汽車不通
 已むを得ず其ものまま巡査教習所に泊ることにした。  」

はい。この『 本銚子町青年団報 』は、印象深くって、
その印象は、丁寧に引用をしてゆくことに限るように思いますので、
長いですが続けてゆきます。

「 不安と焦燥の一夜を明した。あくれば4日である。
  今度は千葉駅前に自転車を預けおき、汽車で成東まで引返し
  更に勝浦までは汽車、之より自動車で天津へ着いた。
  最早日は暮れてゐるが前途が急がれて宿泊など出来ない。
  徒歩鴨川着、小学校の庭にしばし假寝の夢未だ結ばれぬに
  2時間計りにて又出発、和田町役場の庭に天幕あるを幸、
  ここに又1時間計りの假寝をしたのは夜半であった。

  かくの如くにして漸く北條に着いたのは実に5日の午前11時頃であった。
  途中勝浦より千倉まで舟行された救護班長小野田周齋外4名の医師及
  団員1名は茲に合体したのである。

  吾等の班は救護班としては第一着であった。そして
  最惨害を極めた那古船形方面へ行くことになった。 」


はい。ここからが救護の実況と、不逞漢に間違わてたり、と
さまざまな状況が、簡潔で素朴に書き記されてゆきますので、
当ブログスペースを幸いに引続き引用を続けさせて頂きます。

「 船形町にはさいわい船形倶楽部といふ
  劇場が残ってゐたから之を仮救護所に充てた。
  船形目貫の場所は不幸火災を起し焦土と化してゐた。
  夜通行すると異臭鼻を衝いて実に悽惨鬼気人に迫るの感がした。

  那古町には殆ど建物が残ってゐなかったので
  附近で倒潰した旅館の襖障子など借りて来て病舎を那古寺の庭に造った。
  床は樹枝を列べ其の上にムシロを敷くといふのだから処々凹凸あり、
  患者には気の毒であったが此の場合已むを得なかった。

  団員は盥に紐をつけたものや戸板に縄をつけて
  担架を造り傷病者の収容に努めた。

  兎まれ既に負傷後5日も経過してゐるので傷口が化膿して
  目も当てられぬ有様、中にはボロに包んだ傷を開くと
  蟲がポロポロ落ちるといふのもあった。生きた人間に蛆がつく
  といふのはよくよくの事で医師達も之には驚愕された。

  或日団員の一部が正木区方面へ出動した時、不逞漢と誤られ、
  鐘を鳴して村民を集め手に手に鐵砲竹槍を携へて取囲まれ、
  一同すっかり閉口して種々弁明之れ努むるも中々諒解せず、
  其の中正木区の青年団長を見付け出し、説明して漸く合点が行き、
  斯くては誤解の恐れありとて態々赤十字の救護班旗二旒を贈られ、
  更に茶菓の饗宴を受けたといふ喜劇もあった。

  この旗は今尚毎年9月1日会場に飾って紀念会を開くことにしてゐる。 
  尤団員は数日間着のみ着のままで汗みどろの活動をしてゐたので、
  容貌といひ服装といひ不逞漢と誤られるに充分な素地は持ってゐたのであろう。

  かくて一週日活動せる内救護したるもの総計5412名に達した。
  此の内重傷にて収容後死亡したるものが2名あった・・・

  療養者の中には痛いよ痛いよと泣く子もあれば終日呻吟する老人もゐる。
  誠に酸鼻の極みである。今でも眼に残ってゐるのは
  老翁が其の手厚い看護の甲斐もなく死亡した老妻のなきがらを負うて、
  迎へに来る人もなくて淋しく帰りゆく。・・後姿である。

  かくて其の後、旭町及匝瑳郡の青年団員が続々来房せるにより
  之に引継いで帰途につく事にした。さいわいにも館山から
  一等駆逐艦に便乗させて貰ひ、大貫へ着くことが出来た。
  之より復興した汽車で無事帰着したのである。・・・   」(~p1354)


このあとにも、引用したい箇所がありますが、
ここまで、次の機会に引用したいと思います。
うん。ここだけでも引用できてよかった。

 





コメント
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