和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

青木君は。

2009-01-29 | Weblog
松永伍一著「青木繁 その愛と放浪」(NHKブックス)は、
まず、房州布良への写生旅行からはじまっておりました。
そこに、一緒に出かけた坂本繁二郎の語りを紹介しておりました。
興味深いので、その箇所だけ引用しておきます。

 『海の幸』の描かれた背景や事情を知っている坂本は、その作品を認めることができなかった。そして「『海の幸』は画としていかに興味をそそるものであっても、あれは真実ではない。大漁陸揚げのありさまは、私も二カ月くらいいてただの一度しかみていない。青木君はまったく見ていないはずだ。青木君があれを直接見ていたら、画はもっと変っていたにちがいない。惜しいことでもある」と批判した。・・・またこうも言っている。「ある日、漁師たちが浜に船を着けて獲物を引揚げました。大漁でしたね、そりゃあもうおびたたしいほどの魚を引揚げて処分するんです。生きているフカやサメなんかをナタをふるって殺すんです。そりゃもうすさまじい光景でしたね。あたりは一面、血の海です、修羅場でしたね。その獲物を漁師たちや家族が、ひっかついで帰るんです・・・・」「それでそのことを宿に帰って青木君に話したんです。見たとおりのことを正直に話しました。青木君は黙って聞いていましたが、そのあと一週間ばかりで、さらさらっとあの絵を描きました・・・」・・(岩田礼著「坂本繁二郎」)と。私(;松永伍一)もこれと似たような語り口で、この話を坂本から直にきいたことがあった。


以上は、p21~22にあります。さて、
そういえば、とあらためて思うのですが、「海の幸」は男たちの裸姿が描かれております。同時代の日本の西洋画には、めずらしいのじゃないでしょうか。同年(1904年)の卒業制作の自画像を描き終わって、青木繁は布良へ来ておりました。そこは素っ裸の漁師が、普段の姿として風景に収まっているよな世界だった。そのように考えたら、青木繁の絵ごころにどのような作用を及ぼしたのかが、すこしは想像できそうな気がします。

「木村伊兵衛写真集昭和時代第一巻(大正14年~昭和20年)」(筑摩書房)に一枚の写真(p125)があります。全長28メートルはゆうにあろうかと思える木造船を砂浜に陸揚げしている写真でした。丸裸の男たちが手前では3人がロープを全身を傾け右足を砂地に踏ん張って引っ張っり上げております。中央では、船の底に丸太を押し当ててテコの要領よろしくやはり、3人が船首の向きを変えようと、二人は丸太を肩にあて、最後のひとりが両腕を斜め前に持ち上げて踏ん張っています。いまにも船首が動きだしそうな気配を感じるのでした。その船首を直接両手で押している頑強な姿もあります。右足をふんばり、体全体を傾けて右足から右手にかけて突っかい棒のように斜めに押し当て、左足はくの字に曲げて、船全体を台座へと誘い込む格好です。白黒写真なのですが、画面の左から日が差しており(朝日でしょうか夕日でしょうか)裸の体の筋力の躍動とともに、陽の明暗でくっきりと男たちの姿を浮き立たせております。

そう。まるでギリシャ彫刻でも連想しそうな、直截な力動感があります。
西洋画を学び卒業したばかりの青木繁が、西洋画のデッサン力で、漁師の力動感を吸い込むようにして構図に収めようとしている姿。その姿が、そのままに「海の幸」の筆致には残されております。その筆致がまた、構図に抑え込むようにして定着させようとした躍動感としてなま生しく残されているわけです。画中の一人の人物がこちらを向いて観客にメッセージを送っているように、まるで、筆致の荒々しさが漁師町の漁場のかもす雰囲気を直接に伝えでもしているような、テーマと筆致との幸福な一期の出会いが、ここにはあったように思えてくるのでした。
「海の幸」全体には、漁を終えた達成感ともいえる雰囲気が、陽を受けながら漂っております。サメでしょうか、それを背負ってあゆむ姿に、西洋画を何とか抑え込もうとしている若い力が、それぞれデッサンのような人物像に、布良の漁師に見た躍動感を、短期間に封じ込めようとした、その格闘の後のような雰囲気が見てとれます。西洋画で培ったデッサン力が、描く対象を得た時の、喜びに似た躍動感。それを短期間に封印した一枚として価値があるのでしょうか。
う~ん。こんなことは、何とも言えるのでした。
 ただひとつ、まことに残念なことは、私がその実物の絵を見ていないことなのでした。


コメント
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