ビバさんのさんぽ道

みやこの建物、お庭、お花、あれもこれも見てみたいと欲張りビバさんがでかけます

和中庵

2019-11-30 01:19:35 | 建物(京大以外の京都府の)
ノートルダム女学院の「和中庵秋の特別公開2019」が、2019年(令和元年)11月22日(金)~12月1日(日)に行われていたので、11月29日に行ってみました。

「和中庵」は、滋賀県近江五箇荘出身の繊維製造販売(スキー毛糸)業者、藤井彦四郎(1876年-1956年)が1926(大正15)年に鹿ヶ谷の山裾の林を開拓し、贅を尽くし、粋を凝らして建てた広大な庭園を持つ邸宅です。(京都市左京区鹿ケ谷桜谷町)
中庸から採った「何事にも偏らず公平に」をモットーに、「和中庵」と名付けられ、皇族を始めとして、多くの来訪者を迎えました。
1949(昭和24)年にノートルダム教育修道女会が取得、修道院として改造・利用した後、2008(平成20)年にノートルダム女学院中学高等学校に移管されました。


京都市バス5番系統の真如堂前または錦林車庫前から東に向かって坂を上がっていくと、徒歩約10分で着きます。

先ず、洋館から入ります。



1階南側の



階段を上って、



階段途中の上向きの灯りと羊頭の飾り。



二階のホール広間。修道院時代には聖堂として使われていました。



暖炉。



シャンデリア。



床板は寄木細工で模様が描かれていました。



聖堂を出ると、渡り廊下で客殿に繋がっています。



渡り廊下に入る天井の飾りは和洋折衷になっています。



渡り廊下から客殿を見たところ。



渡り廊下から見た洋館。
南側にノートルダム女学院中学高等学校の校舎、西側にははるかに市街地が見渡せます。



客殿の大広間。
修道院時代には、板張りになり、修道女の居室になっていました。
書院造りに欄間や床の間の天井に数寄屋風の意匠が取り入れられ、藤井彦四郎自身が設計に関わり、作り上げた見事な建築です。



客殿の東と南側に庭があります。
東山から清らかな水が流れ出し、石橋が架けられています。
南庭には大きな井戸のような設備があり、お茶室に行く手前のつくばいになっていたのかもしれないそうです。



洋館1階から下の段にあるお茶室に向かって下っていく階段がありました。



洋館の西側には洋館の二階から行き来できるように繋がっていた本館がありましたが、老朽化していて壊され、この蔵跡の建物だけが残っていました。


洋館、奥座敷(客殿9、蔵、お茶室が残り、2014年から2015年にかけて改修工事を経て教育施設として、活用されています。

藤井彦四郎は、1934(昭和9)年に出身地である滋賀県五家荘にも自邸を建て、客殿と洋館、琵琶湖を模した池のある庭園は、滋賀県指定有形文化財になっています。

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これでいいのか京都 シリーズ(6)仁和寺前ホテル建設地をウォッチング

2019-11-17 23:19:32 | これでいいのか京都
2019年11月16日、京都市美術館をウォッチングした後、西に向かい、御室仁和寺に行きました。


仁和寺の仁王門のすぐ前、バス道路を隔てた南側に、



広い空き地があります。ここにホテルが建てられようとしています。



仁王門から見ると空き地の奥には、兼好法師の徒然草で有名な双ヶ岡があります。
ここにホテルができると、双ヶ岡は隠れて見えなくなってしまいます。



西側を見ると、西山の山々が並んでいて、ちょうど日が沈むところでした。ホテルができると、この景色も見ることはできまくなります。
仁和寺の北側には御室八十八ケ所霊場の丘もあります。



空き地の南側は一段低くなっていて、そこには民家が並んでいますが、ホテルができるとこちら側からは仁王門は完全に見えなくなってしまいます。



この辺りは「歴史的風土当別保存地区」に指定されています。
さらに、世界遺産のバッファゾーンであり、風致地区、特別修景地域、歴史遺産第一種地域に指定され、敷地規模、景観眺望、住環境などに留意するように厳しい規制がかけられてきた所です。宿泊施設であれば延べ3000平方メートル以内しか建設できない第1種住居地域なのに、京都市がにわかに作った「上質宿泊施設誘致制度」の適用第一例にして規制緩和をし、延べ約5800平方メートルのホテルを建てようとしています。事業主は国内外でホテルや寮事業を手掛ける「共立メンテナンス」(東京都)で、地下1階、地上3階建てを計画しています。

景観問題の他にも、静かな住環境の破壊、仁王門前の道路の混雑、渋滞、交通事故の心配、地下水脈が断ち切られることへの不安などが考えられます。

京都市が率先して「上質宿泊施設誘致制度」を導入することで、ホテル業者などの事業者の金もうけが優先されようとしています。兼好法師の時代から受け継がれ、住み続けられてきた、仁和寺周辺の風情あるたたずまいは、一度壊されると二度と取り返すことができなくなります。
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これでいいのか京都シリーズ(5)改修中の京都市美術館本館をウォッチング

2019-11-16 23:41:13 | これでいいのか京都(京都市美術館)
改修中の京都市美術館、2020年3月21日のリニューアルオープンに先立って、2019年11月16日に一部の見学会が行われました。見学できるのは抽選に当たった人だけで、葉書で申し込んだけれど、外れたので、その日に外観だけ見に行きました。


正面玄関前の地面は掘り下げられて、スロープで降りて、地下から美術館に入ることになっていました。
あの堂々たる京都市美術館の建物が宙に浮いてしまって、地に足がつかなくなっていました。



地下はガラス張りの回廊があるように見え、玄関と売店等ができるようです。




敷地の西南角にあった富樫実氏作の石の建造物「 空にかける階段’88-Ⅱ」。
改修に当たって、切り刻まれたり、横向けに展示する、別の場所に移すなどが企てられていましたが、作者や多くの人の反対で、やっと元の場所に元の姿のまま展示させることができました。    



「京都市美術館」の名前は一企業・京セラに売られ(50年間50億円のネーミングライツ売却で)「京都市京セラ美術館」となってしまいました。



美術館の前で「京都市美術館の名前を奪わないで」と訴えました。

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同志社フレンドピースハウス展

2019-11-14 00:30:30 | 建物(京大以外の京都府の)
2019年10月1日~12月1日に、同志社大学ハリス理化学館同志社ギャラリーで開催されていた「フレンドピースハウス~ハワイから同志社へ~」展を、11月13日に観に行きました。
月曜、日曜、祝日が休館、料金は無料でした。


フレンド・ピース・ハウスの建物は、1887(明治20)年、京都御所の東隣に同志社病院院長ジョン・C・ベリー(1847〜1936年)の自宅として建てられました。
設計は同志社創設期の教員で建築家でもあるD・C・グリーン。木造2階建ての瓦ぶきでありながら、洋風の開放的なベランダなどを備えた和洋折衷、白い下見板の壁に、緑色に塗られた柱や窓枠が特徴でした。面積は約250平方メートル。

1911年、ハワイのT・リチャーズ夫妻の呼びかけで設立されたフレンド・ピース奨学会の所有となりましたが、同奨学会が創立25周年を迎えたのを記念して、同志社に建物や土地の管理を委託し、留学生のための学生寮「Friend Peace House布哇(はわい)寮」として使われることになりました。ディレクター(寮監)のもと、奨学金制度により派遣された日系二世のフェロー(奨学生)と、同志社の日本人学生が共同生活を営んでいました。
1997年に改修工事がされ、国際親善と平和という理念を尊重して、その後はおもに国際交流施設として、共同研究室や会議室などに使われていました。
2006年に「洋風意匠を基調とした住宅」の好例として国登録有形文化財に登録されました。しかし、老朽化が著しく2016年3月で使用をやめていました。
建物の調査により、部材の3分の2が傷みで再利用できないことが判明し、2018(平成30)年に解体され、跡地に同志社幼稚園が建てられました。



フレンドピースハウスの建築部材や調度品の一部が、資料として同志社社史資料センターに受け入れられ、同時に、1920~40年代のフレンドピースハウス関係の文書資料の調査も進められてきました。今回の展示で、解体前のフレンドピースハウスの実像を伝えるとともに、フレンドピースハウス設立の経緯および草創期の歴史が表わされていました。



英国製の壁タイルや木製の欄間などの部材、解体調査で得た平面図などが並べられ、建物が和洋の要素を備えていたことを表しています。



会場のハリス理化学館。中は同志社ギャラリーになっていて、1階2階に同志社大学の歴史と現在を表す通常展と企画展が展示されています。



そのすぐ西側には、朝鮮語で詩を書いたことで捕えられ、獄死した尹東柱(ユン ドンジユ)(1917-1945)の詩碑がありました。


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これでいいのか京都 シリーズ(4)南禅寺参道のホテル建設地をウォッチング

2019-11-09 00:45:04 | これでいいのか京都
2019年11月8日、南禅寺参道の風致地区に、明治からの庭園別荘地の景観を壊してホテルが建てられようとしているというので、現地を見に行ってきました。


仁王門通り東大路から東に行くと、京都市動物園の向かい側、琵琶湖疏水を挟んで南側に、元料亭「ギンモンド」があった跡に、東京資本のヒューリックが4階建てのホテルを建てようとしていて、すでに周りが工事用の塀で囲まれていました。



東側は小道を挟んで、山形有朋の別荘「無鄰菴」に接しています。
無鄰菴の庭園から母屋の方を見ると、二階建ての和風の屋根の上にホテルの洋風の建物が聳えているのが見えて、無鄰菴の景観は台無しになってしまいます。ヒューリックは無鄰菴に面した側には大きな木を植えて目隠しにすると言っていますが、木は枯れたり、変形したり、光は透して目隠しにはなりません。



南側すぐ裏には料亭「瓢亭」があります。瓢亭の裏側のホテル建設現場には大きなクレーンが立っていて、異様な光景です。瓢亭は400年以上経った建物と苔むした庭園が微妙な光と風のバランスの中に独特の風情を醸し出しているところです。すぐ隣にホテルの光や熱や騒音が当たってきては、その趣はたちまち壊されてしまうことになります。



南側の民家の側にも出入口が付けられると南禅寺参道の静かな雰囲気はなくなってしまいます。

元々、ホテル予定地の土地は、琵琶湖疏水を作った時に掘り上げた土を盛ったので、周りの土地よりも約2メートルも高くなっており、無鄰菴、瓢亭、民家、隣のマンションとの間は擁壁で囲まれているのですが、工事に当たって、しっかりとした擁壁保護工事が行われていないので、とても危険な状態になりそうです。

岡崎南禅寺別荘群の景勝の地に、似つかわしくない高い建物が建てられようとしているのに、京都市は景観と環境を守ろうとせず、さっさと許可してしまうとは、観光を売り物にしていながら、自ら景観を破壊しているのは信じられない姿勢です。
せめて、建物の高さを3階以下にして、付近の景観に合わせた和風の建物に変えさせるなどの指導と規制をすることが必要です。

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東九条マダンに参加

2019-11-03 23:41:42 | ぶらり都めぐり
2019年11月3日に、京都市南区にある京都市立凌風小中学校で開催されていた第27回東九条マダンを見に行きました。

“マダン”とは“広場”の意味です。「東九条で、韓国・朝鮮人と日本人がひとつのマダンに集い、一つになってみんなのまつりを実現したい」--このような思いをこめて、1993年から毎年開催されてきています。今では、韓国・朝鮮人、日本人だけでなく、いろいろな民族の人々や障碍者・健常者もまつりに参加し、そのことを通して、それぞれの自己解放と真の交流の場を作っています。


第 27 回 東 九 条 マ ダ ン
2019年11月3日(日)午前10時~午後3時ごろ
主 催:東九条마당(マダン) 実行委員会
協 賛:凌風学園PTA
後 援:京都府・京都市・京都府教育委員会・京都市教育委員会
主 な 内 容:プンムルノリ、マダン劇、和太鼓&サムルノリ、シルム(相撲)大会、民俗あそびコーナー、タル(仮面)絵付けコーナー、楽器体験コーナー、出店、ほか
賛 助 出 演:ちゃんへん. :「大道芸ワールドカップ2002」で最年少17歳で第一位に、以来プロとなり、世界82ヶ国でパフォーマンスを披露してきたちゃんへん. さんのジャグリング等の芸が演じられました。


民族舞踊で使われる仮面を収集している方のコレクションが各地方ごとに展示されていました。



日本の獅子舞のような踊り。



韓国時代劇でよく王宮で演じられているような扇の舞。



チマチョゴリを着る体験ができるコーナーもありました。
いろいろな食べ物の屋台もたくさんあり、食べ歩きました。



日本の太鼓と朝鮮の太鼓が共演する「和太鼓&サムルノリ」。



やがて、日本も朝鮮も入り乱れて太鼓を打ち鳴らし、踊り、歌い、飛び入りもして会場全体で盛り上りました。
韓国時代劇のドラマや映画で見てきた大道芸の数々が目の前で繰り広げられて、楽しかったです。「王の男」でイ・ジュンギちゃんが演じた芸人もこんな風に太鼓を鳴らしていたなあ。

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旧御所水道ポンプ室

2019-11-02 01:58:05 | 建物(京大以外の京都府の)
びわ湖疏水船で山科四ノ宮から下ってきて、蹴上の終着点に着くと、そこには立派な旧御所水道ポンプ室がありました。九条山浄水場ポンプ室とも言われ、ここから御所へ流す防火用の水を大日山貯水池に汲み上げるためのポンプ室でした。


1912(明治45)年竣工。レンガ造り平屋建。琵琶湖第二疏水の工事に伴って完成し、設計は片山東熊と山本直三郎です。
御所に水を送るために、高い位置であるここに作られました。大正天皇が皇太子だった時に琵琶湖から船でここまで下って来る計画があり、到着時に高官達が入口前で揃って出迎えるために、疏水に向かって立派な玄関が作られています。中にはポンプがあるだけです。




船から見上げた玄関。円柱付きのバルコニーが玄関前にあるネオ・ルネサンス様式の造りです。



船から降りた場所が建物の真ん前で、狭い空間しかなく、建物全体の姿を撮るのが難しかったです。



疏水に面した正面の両側に張り出し部分があります。レンガ造りの隅は石積みになっています。



西面の入口。屋根の上にはドーマー窓があります。



南側に回り込んで敷地から出るあたりにも、コンクリート造りの変わった建物がありました。


最近、旧御所水道ポンプ室は文化審議会によって、国の登録有形文化財に指定するように答申されました。



すぐ近くにインクライン(傾斜鉄道)のレール跡があり、動物園前の船溜まりまで528mの間、三十石船を乗せて運ぶ台車が保存展示されています。



インクライン横の高台に本願寺に防火用の水を送る水源地の跡がありました。
京都駅近くにある東本願寺までも防火用の水が送られていたのです。

琵琶湖と東本願寺との高低差52.8mを利用して、自然水圧により御影堂の屋根まで水が噴きあがるという仕組みが、田邊朔郎の設計で作られました。ここで一旦水を貯め、専用の水道管(直径30cm)を、三条通、白川沿い、四条通、大和大路、五条大橋の下、河原町通りをへて東本願寺まで地面の下を通しました。3年の工期をかけて1897(明治30)年に完成しましたが、現在は管の老朽化で使われていません。



近くに田邊朔郎(1861~1944)の銅像もありました。片手に設計図を持つかっこいい姿です。

幕臣の家に生まれながら、東京帝国大学で土木工学を学び、第三代京都府知事北垣国道に引かれて、23歳の時から疏水工事に携わり、28歳の時に完成させました。

この時には見ることができなかったのですが、疏水合流トンネルの北口に田邊の揮毫した扁額「藉水利資人工(すいりをかりてじんこうをたすく)」(明治天皇の竣工式勅語より)があります。自然の水の力を人間の仕事に役立てるという意味です。

この近くに「疏水工事殉職者弔魂碑」があります。田邊朔朗が1902(明治35)年に自費で建立しました。田邊の筆で「一身殉事萬戸霑恩(いっしんことにじゅんじ、ばんこおんにうるおう)とあり、17名の殉職者を慰霊しています。



その辺りの高台からは向かいの蹴上浄水場や市街地を遠く眺めることができます。
今も疏水を流れてきた水が、京都市民の命の水となっているのです。



その近くに、「義経地蔵」という大きなお地蔵さんがありました。
遮那王(源義経)が金貸し吉次に連れられて奥州に向かうため、粟田口から九条山の坂に差し掛かった時、馬に乗った平家の武者9人とすれ違い、馬が水たまりの水を跳ね上げて遮那王に掛けてしまいました。平家の武者達の無礼な態度に怒った遮那王は、吉次の止めるのも聞かず、9人の武者達を次々と切り殺してしまいました。冷静になった遮那王は、自分の倒した武者達が哀れになり、街道沿いに9体の地蔵を建てて供養としました。この地蔵はそのうちの一体と伝えられているものです。「蹴上(けあげ)」の地名は、武者の乗った馬が水を「蹴上げた」事からこの地名が始まったとも言われています。

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びわ湖疏水船に乗る

2019-11-02 00:34:53 | ぶらり都めぐり
2019年11月1日に琵琶湖疏水を船で航行するクルーズに行ってきました。

琵琶湖疏水は1890(明治23)年に琵琶湖西岸大津と京都の蹴上を結んでできました。元は、琵琶湖の水を京都に運ぶとともに船を通行させて、水運をつなぐ役割も果たしていましたが、1951(昭和26)年に船の航行が途絶えていたのを、2018(平成30) 年から復活し、観光客を乗せて疏水船クルーズが年に数回行われるようになりました。

船の運航コースは、大津~蹴上の全コースと大津~山科、山科~蹴上間のみの部分コースのそれぞれ上りと下りがあり、通常時と桜・紅葉の繁忙期でそれぞれ料金が異なっています。予約を取るのは難関だったのですが、とりあえず、紅葉時期の少し前の時期で、山科~蹴上の下りコースをやっと取ることができました。


京阪四宮駅から歩いて、10分程で山科疏水の一灯園学園近くに着きました。




疏水に沿って遊歩道ができていて、春は桜、秋は紅葉がきれいな散策道になっています。この地図の右端の辺りが一灯園学園があるところで、疏水船の山科乗下船場があるところ、これから左方に向かって船は進んで行きます。



山科乗下船場。かつての四ノ宮舟溜まりで、川幅が広く、かつては船の荷下ろしや船頭の休憩場所になっていました。疏水船の乗下船場になってから、あずまやが作られ、トイレが新しくきれいになりました。
船が運航する日だけ運航会社の人が数人来ていて、乗船の手続きをしてくれます。



乗船する便の前の船が通り過ぎて行きました。



次の便にここで乗船して、すぐに諸羽トンネルに入ります。
当初の疏水はこの左側に大きく曲がって作られていましたが、JR湖西線の線路を通すために1970年に諸羽トンネルを掘って疏水を直行させ、元の疏水は埋め立てられました。



トンネルの中。上から水がかかることもあると言われましたが、船には透明の屋根もあって、水は落ちてきませんでした。



毘沙門堂に向かう道の安珠橋の下を通り、洛東高校を右に見て、安祥寺川と立体交差をして進んで行きます。元からあった安祥寺川は疏水の下側を通して流れるようになっています。
この辺り、春は桜と菜の花が咲き揃って、とても見事な景色となります。



イケメン・ガイドさんが周辺の見どころを説明してくれます。
奥に本圀寺正嫡橋の朱塗りの欄干が見えます。朱塗りと金ぴかのお堂が並ぶ日蓮宗のお寺です。



両側に木が繁って緑が気持ちいい森の中を疏水はゆったりとカーブしながら進み、天智天皇陵の裏側を通っていきます。



長さ124mの短い第二トンネルに入って行きます。東口の上には井上薫揮毫の「仁以山悦智為水歓(じんはやまをもってよろこび、ちはみずのためによろこぶ)」の扁額が彫られています。仁者は動かない山によろこび、智者は流れゆく水によろこぶの意の論語の言葉です。



トンネルの西口には、馬蹄型の口の上に西郷従道の揮毫で、「随山到水源(やまにしたがいてすいげんにいたる。山に沿っていくと水源にたどり着く)」という漢詩の一節の扁額があります。



第三トンネルの手前に小さな橋が見えてきました。



これは、日本で初めて造られた鉄筋コンクリート製の橋です。手すりは保護のために付けられているもので、下の台板のみが当初の橋です。



横の土手に石碑が立っていて、日本初のコンクリート橋であることを顕彰しています。



850mの第三トンネルの東口には、松方正義の揮毫で、「過雨看松色(かうしょうしょくをみる)」という漢詩の一節が彫られています。時雨が過ぎると一段と鮮やかな松の緑を見ることができるいという意味です。


西口には、三条実美の揮毫で「美哉山河(うるわしきかなさんが)」という史記からの一節が書かれています。



第三トンネルを出ると、そこが蹴上の乗下船場で、疏水船の終着地です。



船着き場の横には、堂々としたレンガ造りの建物、旧御所水道ポンプ室があります。

なお、疏水船の運航は春3月から6月と、秋10月から12月です。
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