ビバさんのさんぽ道

みやこの建物、お庭、お花、あれもこれも見てみたいと欲張りビバさんがでかけます

桐生の町の近代建築二つ

2010-09-21 01:00:10 | 建物(群馬県)
群馬県桐生市には、織物関係の近代建築がたくさん残っています。


桐生織物会館。
1934(昭和9)年に桐生織物同業組合の事務所として建設されました。登録有形文化財。
「織匠の間」ではジャガードの手織り機をはじめ織物関係の道具の展示と桐生織の製品を販売しています。着物というより、小袋、風呂敷、ネクタイ、スカーフ等の小物が多かったようです。


階段の幅も広く堂々としています。




桐生倶楽部。
1919(大正8)年、名士の社交場として建てられ、戦前から戦後にかけて桐生を訪れた多くの知名人は、ここを訪ね、食事・歓談をしています。登録有形文化財。
記名すれば中も見られたようですが、時間がなくて断念。



他にも、桐生明治館(旧群馬県衛生所)等、見所がたくさんあったのですが、時間が足りなくて行けなかったのが残念です。


桐生の町は京都と同じく、奈良時代から繊維産業で栄えて来ましたが、今は和装産業が衰退して、町全体が寂れてきている感じでした。
たまたまバス停で一緒になった高齢の女性も、昔は帯を織る会社を経営していて、京都にも仕事で行ったことがあるということでしたが、今は帯を織るのもやめているというお話でした。京都だけはまだ和装産業が生き残っているという状況でしょう。
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矢野本店店舗と旧矢野蔵群(有鄰館)

2010-09-21 00:59:14 | 建物(群馬県)
桐生市本町二丁目にある矢野商店、今はお茶等を販売していますが、江戸時代1742(寛保2)年に現在の地に店を構えてから酒類、醤油、味噌などの醸造・販売を行い、桐生の商業に大きく寄与してきた商家です。


本店の店舗と店蔵、市指定の重要文化財です。

裏から見た本店店舗。



本店裏側の広い敷地に、明治から大正に建てられた土蔵やレンガの蔵が何棟も残されていて、今はイベントなどに活用されています。
それぞれ、味噌蔵、酒蔵、醤油蔵、塩蔵などの名がついています。これらも市指定の重要文化財です。





長い蔵の天井が大きな梁で支えられています。
これらの木材は榛名山一帯から切り出されてきたものです。




一番奥の建物は、桐生からくり人形芝居館となっています。
桐生では江戸時代から裕福な商人の力を背景に、祇園屋台という動く祭礼建築の舞台がたくさん作られ、巡行したり、辻辻で芝居が上演されました。
屋台は彫刻の美しさ、襖絵の豪華さ、扁額の書などで飾られていましたが、今でも六台の屋台が残っていて、関東三大夜祭の一つといわれた時代が最近も再現されています。
このからくり人形芝居館では、毎月第一土曜日にからくり人形の実演がされています。
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桐生のまちのギザギザ屋根

2010-09-21 00:58:07 | 建物(群馬県)
「西の西陣、東の桐生」といわれる桐生は、明治時代から洋式機械を導入して織物の一貫生産を始めるなど、早くから近代化に取り組み、織物産業を基盤とした近代化遺産がたくさん残っています。

本町一丁目・二丁目のあたりには江戸時代からの町並みが続く中に、ノコギリ屋根の工場が多数残っています。
ノコギリ屋根は北向きに天窓が開けられていることが多く、直射日光を避けて明るさを取り入れることができて、織物の製造等に都合がよかったのです。


旧住善織物工場。大正11年築。現在はアトリエ工房になっています。



今はおしゃれなカフェになっているノコギリ屋根の工場もあります。
↑↓ベーカリーレンガ(旧金谷レース工業工場・事務所)大正8年築。(国登録有形文化財)




旧北川織物工場(無鄰館)。(国登録有形文化財)大正時代を中心に建造されたノコギリ屋根の工場で、現在はアーチストファクトリーとして活用されています。



「一の湯」という銭湯もあり、

今も営業しているそうです。
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群馬大学工学部同窓記念会館

2010-09-21 00:56:53 | 建物(群馬県)
群馬の旅に戻って、

富岡製糸場を見学した後、その夜は磯部温泉に宿泊。
翌日はJR磯部駅から信越線で高崎まで戻り、高崎から上毛線で桐生に行きました。

桐生は織物のまち、古い町並みや建物がたくさん残っていました。

先ず訪ねたのは、群馬大学工学部同窓記念会館です。


元は、織物産地である桐生に繊維関係の高等教育機関を作ろうということでできた桐生高等染織学校の本館玄関の一部と講堂で、1916(大正5)年築、木造二階建・瓦葺の建物です。(国登録有形文化財)
その後、桐生工業専門学校から、昭和24年に群馬大学工学部となり、現在に至っています。


建物の手前の門も旧桐生高等染織学校の正門で国登録有形文化財です。





通常は守衛所に断ると外観のみ見学ができるようですが、この日はちょうど、何か建物の見学会をしていたようで、内部まで見ることができました。ラッキー~

講堂内はハンマービームと呼ばれる独特な屋根構造をもち、教会のように厳粛でいて華やかな空間を創りだしています。
実際にここで結婚式も行われるようです。






同窓記念会館手前にある守衛所も旧桐生高等染織学校創立当時の門衛所で、1916年の建築。下見板張で本館と同じようなデザインでできており、こちらも国登録有形文化財
です。
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富岡製糸場(4)

2010-09-21 00:55:15 | 建物(群馬県)
富岡製糸場には「操糸場」や「繭倉庫」のような直接製造に関係する施設の他に、「検査人館」のような附属施設がたくさん残されています。


「女工館」
1873(明治6)年建築。木骨レンガ造。(重要文化財)
日本人工女に器械による糸繰りの技術を教えるために雇われたフランス人女性教師の住居として建設されました。二階建てでベランダの天井には板が格子状に組まれています。


「診療所」
大正時代の建築と思われますが、工場内に保健施設も作られていたのです。



「ブリュナ館」
1873(明治6)年建築。木骨レンガ造。(重要文化財)
指導者として雇われたフランス人ポール・ブリュナが家族と暮らしていた住居です。
高床で回廊風のベランダを持つ風通しの良い開放感のある建物になっていて、床下にはレンガ造りの地下室も残されています。
後には、工女に読み書きや和裁などを教える夜間学校として使われ、企業内教育の先駆けといえます。


ブリュナ館の裏側。




他に、工場の水関係の施設では、

「鉄水槽」
1875(明治8)年頃設置。
製糸場で使う水を繰糸に適した軟水にするために鉄の水槽の中に水を貯蔵していました。直径15m、最深部2.4m、貯水量約400t。
製作は横浜製作所で鉄板が加工され、現地で組み立てられ、組み立てには造船技術であるリベット接合が用いられました。
基礎の石積みは当初2段、後には5段に積まれました。


「レンガ積み排水溝」

製糸場から出る糸をとった後の排水と、建物屋根の雨水を集めて流す下水道です。
明治時代に下水道は珍しく、排水溝まで完備された衛生環境の整った工場として初めてのものでした。

排水溝そのものは、どこかこの掲示板の下から川に注ぎ込む位置にあったようで、見ることができませんでした。


富岡製糸場の見学は以上で終わりです。
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富岡製糸場(3)

2010-09-21 00:54:03 | 建物(群馬県)
富岡製糸場で製糸作業をしていた様子が今でもよくわかる建物はこの操糸場。(重要文化財)
1872(明治5)年建築。幅12.3m、長さ140.4m、高さ12.1m、木骨レンガ造平屋建て、切妻造り桟瓦葺き。レンガは国内では例の少ないフランドル積みです。


側面の入口。


西繭倉庫と、向こう側が操糸場。


「トラス構造」という建築工法を用いていて、柱のない広い空間を屋根の下の木組みで支えています。採光のため多くのガラス窓や屋根の上に蒸気抜きの越屋根が取り付けらられています。


創業当初はフランス式の操糸器300釜が設置されていましたが、現在は昭和40年代以降に設置された自動操糸機がビニールをかけて操業時のまま残されています。
機械前面の溝を水が流れ、その中に浮かべた繭から糸が紡ぎ出されるのです。


明治の頃の女工さんが繭から生糸を作っていた様子。
工女達は全国から集められ、技術を習得した後は各自の出身地へ戻って器械製糸の指導者となりました。

当初、工女の募集をしても「異人に生き血をしぼりとられる」という噂が広まり、なかなか人が集まりませんでした。そこで、各府県に人数を割り当てて募集し、士族や指導的立場の人の娘などが集められました。その中で、信州松代の士族の娘・和田(横田)英(えい)は富岡製糸場での生活をのちに『富岡日記』に書いています。その日記のことは、前に松代に行った時、今も残る武家屋敷の実家に展示されていたのを思い出しました。
松代の旧横田家住宅を訪ねた時の記事はこちら


製糸女工というと、先ず「女工哀史」を連想してしまいますが、民間では劣悪な条件の中で粗悪な生糸が作られていたのに対して、ここでは政府の見本的な工場ということで、きちんと8時間労働が守られていたそうで、これは予想外の事でした。

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富岡製糸場(2)

2010-09-21 00:52:11 | 建物(群馬県)
富岡製糸場は官営から民間に払い下げられ、昭和62年まで115年間操業を続けてきました。
その後平成17年に建造物一切が富岡市に寄贈され、今では12月29日~31日以外の毎日、一般に見学公開されています。
現在でも明治創業当初の主要な建物がほぼ当時の姿のまま保存され、またほんの最近まで実際に生糸を生産していた機械の様子もそのままに残されています。


正門を入ってすぐの所にある「検査人館」。(重要文化財)
1873(明治6)年建築。

ここの受付前から見学者への解説案内が1時間ごとに出発しています。(1時間ごとと言っても、見学者が多かったので、もっと頻繁に案内してくれていたようです)
解説してくれるのは、ボランティアの方達で退職された教員などが多いそうです。


検査人館の内部は今は事務所になっていますが、元は生糸や機械の検査を担当したフランス人男性技術者の住居として建てられ、2階には皇族や政府の役人が訪れた際に使用した貴賓室があり、マントルピースを備えた当時のままの状態で残されています。



東繭倉庫の奥にある「乾燥場」。
繭を二階にベルトコンベアーで運び上げ、乾燥させていた場所です。
大量に買い込んだ繭を長期保存する前に乾燥させて、カビが生えないようにし、また繭の中の蛹を殺すのです。二階には乾燥のための機械が6台設置されていて、115~120度の高温で5~7時間かけて乾燥され、その後は繭倉庫に運ばれて保管されました。
建物は最も古い部分が1922(大正11)年に完成しています。



乾燥場から中央広場を通ってその奥にある「西繭倉庫」。(重要文化財)
こちらも東繭倉庫と同じく、幅12.3m、長さ104.4m、高さ14.8mの木骨レンガ造です。


繭と出来上がった生糸です。
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富岡製糸場(1)

2010-09-21 00:50:22 | 建物(群馬県)
上州富岡と言えば、「富岡製糸場」。
2007年にユネスコ世界遺産暫定リストに記載されたところです。


上信電鉄上州富岡駅から徒歩約15分、門衛さんのいる正門が見えてきました。


門の正面にあるのが「東繭倉庫」。(重要文化財)
レンガ造りの2階建て、幅12.3m、長さ104.4m、長くてとても全体が写せません。
1階は事務所、作業所などとして使い、2階に乾燥させた繭を貯蔵していました。


中央にある通り抜けできる開口部。

その上部に嵌めこまれている要石(キーストーンというのだそうです)には「明治五年」と彫られています。
1871(明治4)年に建設に着手、明治5年に主な建物が完成したのです。明治維新の直後、殖産興業を掲げた政府が急務としたのは、主要な輸出品であった生糸の品質を改良することと、大量生産を可能とする器械製糸工場の導入でした。
明治の開国後、外国からの買い付けが急増して、粗製濫造が進み、日本の生糸の評価が下っていました。そこで、政府自ら模範となる製糸工場を作ることが必要になったのです。

当初、指導者として10人程のフランス人を雇い入れ、15~25歳の若い女性が募集されて技術伝習生として指導を受けました。伝習生達は習得した技術をそれぞれの地元に持ち帰って指導にあたり、日本の近代化の先駆けとなりました。



「東繭倉庫」を裏側から見たところ。

富岡製糸場の建物は、当時世界最大規模で、フランスの技術を日本にあわせて作られています。木材で骨組みをつくり、その間にレンガを積む木骨レンガ造で、主要資材の木材、レンガ、礎石、瓦は日本で調達、鉄枠のガラス窓、観音開きのドアの蝶番などはフランスから輸入されました。



工場敷地の中央にある大きな広場。
敷地内には、製糸場になる前に大名屋敷だった名残の庭園の跡も見られます。


コメント (2)
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