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ビバさんのさんぽ道

みやこの建物、お庭、お花、あれもこれも見てみたいと欲張りビバさんがでかけます

水平社博物館 丹波マンガン記念館展

2010-01-12 03:11:06 | 遠出(国内)
奈良県掖上駅から歩いて「人権のふるさと 水平社博物館」に行きました。


このあたりは昔は南葛城郡掖上村柏原(現在は御所市)で、1922(大正11)年3月3日、京都岡崎公会堂で全国創立大会が開催されましたが、その運動の中心を担った青年達が多くこの地から輩出し、差別撤廃の闘いに立ち上がった所です。


岡崎公会堂での創立大会の様子が再現されたファンタビューシアターです。
公会堂の観客席に座って、実際にその場にいたように見ることができます。
「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と人間の尊厳と平等を宣言した場面です。


でも、水平社博物館っていうものがこんなところにあるのを始めて知りました。
今回の訪問の主目的は、企画展「丹波マンガン記念館展」を見ることだったので、開催場所として検索してこの場所も知りました。


「丹波マンガン記念館」は在日朝鮮人の李貞鎬さんと家族が独力で1989(平成元)年に京都府北桑田郡京北町(現京都市)に開館しました。戦争中、強制連行などで多数の朝鮮人が苛酷な労働環境の下で働かされ、若死にしたり、今は散り散りになってしまった同胞のために、かつて彼らが生きたモニュメントとして残そうとしたということです。
 1995(平成7)年に初代館長・李貞鎬さんが亡くなった後、三男・李龍植さんに引き継がれましたが、公的資金等の援助が一切投入されない中、李さん一家の資金だけでは限界となり、開館から20年の2009(平成21)年5月に、丹波マンガン記念館は閉館を余儀なくされました。

いつか訪ねてみたいと思いながら、京北町は遠すぎて行けなかったのですが、奈良県掖上町も遠いながら鉄道の駅から歩いて行けるので、閉館してからやっと見に行くことができました。
でも、ビデオ映像と展示物だけではなく、やはりマンガン鉱の実際の現場を訪れてみたかったです。



マンガンの採掘は第二次世界大戦中と朝鮮戦争の頃、1950年代後半に最盛期を迎え、その後外国からの輸入に頼るようになって、1983年を最後に日本国内での採掘はなくなりました。
国内では北海道、長野県、高知県、近畿地方に多く、近畿地方では丹波山地中央部に密集して、約300の鉱山がありました。1910年の「韓国併合」から植民地の朝鮮から多くの人が職を求めて渡日し、1937年の日中戦争以後は日本の労働力不足を補うため、1939年から45年までの6年間に約160万人の朝鮮人が強制連行されてき、うち約15万人がマンガン鉱山に送られたといいます。

マンガン採掘の労働は1960年代後半に機械が導入されるまでは、ゲンノウやノミを使って手掘りで、自分の体が入るくらいの狭い穴の中で落盤の危険の中、命がけの危険な重労働でした。しかも、長期間粉塵を吸って「じん肺」にかかり、呼吸不全や呼吸器系感染症のため苦しめられ、亡くなる人が多いのです。
丹波マンガン記念館初代館長・李貞鎬さんもじん肺で62歳で亡くなられました。


マンガンから作られた製品。マンガンは鉄の強度を増すためや、おなじみ乾電池の中身、ビール瓶の色づけ等に使われています。

「丹波マンガン記念館」個人の力だけでなく、もっと公的な支援を出して存続させていってもらいたかったです。個人への賠償を放棄している日本政府はせめてそれくらいの責務を果たすべきでしょう。



『丹波マンガン記念館』展 は、2009年12月10日(木)~2010年3月28日(日) 開催されています。

 奈良県御所市柏原235-2
 休館日:毎週月曜日・毎月第4金曜日、年末年始
 開館時間:午前10時~午後5時
 入館料:500円


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