ビバさんのさんぽ道

みやこの建物、お庭、お花、あれもこれも見てみたいと欲張りビバさんがでかけます

西伊豆の旅(2)松崎の町

2017-01-21 23:35:55 | 遠出(国内)

西伊豆松崎の宿、翌朝の朝食も漁師町らしくお魚たっぷりのごはんでした。


松崎の町はレトロな建物でいっぱいでした。


散髪屋さん。




無料お休み処になっていた家。




その中にあった金庫。
松崎町は俳句が盛んな町らしく、各家の前に俳句の書かれた行燈が立てられていたり、この家も俳句の展示場になっていました。




ときわ大橋。
橋の欄干がなまこ壁になっています。




なまこ壁だらけの家。
なまこ壁とは、平瓦を壁に貼りつけ、目地を漆喰で海の生物なまこのように盛り上げて格子状に塗って仕上げた壁のことです。防火性・保温性・保湿性に優れ、松崎町では今も190棟余り残っていて、補修・新作のできる職人が町の重要資源として保全・啓発活動を続けています。




なまこ壁通りの家。
江戸末期に建てられた薬種商近藤家の家で、明治10年に生まれた近藤平三郎は東京帝国大学薬学主任教授になり、アルカロイドの研究に足跡を残し、文化勲章を受章しました。








松崎町観光協会になっている建物。






観光用だけでなく、普通の家でもなまこ壁の家がそこここにあって、今でもそこで町の人達の生活が普通に営まれていて温かみが感じられる町でした。



お肉屋さんで「川のりコロッケ」を買って、松崎港で海を見ながら食べました。

松崎町のあちこちでドラマ「世界の中心で愛をさけぶ」のロケがあったそうで、聖地マップも作られていました。


西伊豆の旅(3)に続く。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

西伊豆の旅(1)堂ヶ島

2017-01-14 01:47:52 | 遠出(国内)
昨年11月中旬に2泊3日で西伊豆に行ってきました。
7:59京都発の「こだま」で三島に10:45に着きました。


車窓から見た富士山は真っ白な雪をかぶっていました。




11:06三島発の伊豆箱根鉄道駿豆線で11:41に修善寺に着きました。








修善寺駅は2014(平成26)年に、建て替えられたばかりの新しい駅でした。



駅構内にある食堂で「しいたけうどん」を食べました。
やはり関東に来るとうどんの汁も黒い醤油味でからいものでした。



13:01修善寺駅前を出る東海バスに乗り、14:16に西伊豆町堂ヶ島に着きました。
バスは修善寺から深い伊豆の山並みの中を走り、やがて伊豆半島の西海岸に出、海沿いを走ります。
後方にちらっと富士山が見える所もありました。




堂ヶ島ではバス停のすぐ前に洞窟めぐり遊覧船の船着き場があります。近くにお土産所を兼ねた「加山雄三ミュージアム」もありました。
15:00発の堂ヶ島クルーズに乗船しました。堂ヶ島のリアス式海岸と島々を巡り、青の洞窟「天窓洞」へ向かうコースで、定員43名の船に約25分の乗船で1700円です。この他に、もっと長く乗っているコースもあります。




西伊豆の海岸は約2千万年前から2百万年前までの海底火山時代の地層が隆起し、海水に削られて様々な変化に富んだ景色が見られるジオサイトです。








海上からかすかに富士山も見られました。写真では写りませんでしたが、右の島の上のほうです。




四つの島からなる三四郎島を見て引き返しました。




洞窟の入口が見えてきました。




「天窓洞」です。





船の縁ぎいりぎりの岩に当たらないように上手に穴に入っていきます。




島の地下が海水が入り込む洞窟になっていて、その真ん中でぽっかり天井に穴が開いていて、差し込んだ光で海水がエメラルド色に輝いています。




天窓を見上げたところです。洞窟への入口は3ヶ所ありますが、船が入れるのは2ヶ所で、遊覧船が中でぶつからないように交代で入っています。
前から一度見てみたかった「天窓洞」をついに目にすることができて感激です。




堂ヶ島から8分間バスに乗って隣の松崎町に移動し、旅館のすぐ近くの松崎港で夕日を見ました。西伊豆は駿河湾に沈む夕日の絶景スポットがたくさんあります。
この日はとてもいいお天気で伊豆の海を堪能することができました。




宿の夕食は、7種類の獲れたて地魚お造りとサザエのつぼ焼きなど海の幸満載のものでした。


西伊豆の旅(2)に続く。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

マキノのメタセコイア並木

2017-01-13 00:36:22 | 近江の国
生水の郷を出て、「かばた館」で昼食の後、高島市マキノ町のメタセコイア並木に行きました。


ここは高島市マキノ農業公園(マキノピックランド)の中にある並木道です。
約2.4キロにわたってまっすぐな道路の両側に約500本のメタセコイアが植えられています。1981年に地元の果樹生産組合が植樹したのが始まりで、四季折々の並木の美しさが有名になり、「新・日本の街路樹百景」の一つに指定されています。この日は紅葉にはまだ早く、濃い緑の並木が続いていました。

一時はやった冬ソナの聖地訪問に韓国まで行かなくてもここでも雰囲気は味わえるかもしれませんが、残念なことに中を通っている道は広い自動車道で、大型観光バスなども通るので、ロマンチックな夢想にふけるのは危険です。

マキノピックランドでは、さくらんぼ、ブルーベリー、ぶどう、くり、りんご、さつまいも、落花生等の果物狩りやグラウンドゴルフ、サッカー、野球等のスポーツ、野菜直売、レストラン等を楽しむことができます。

この近くには「マキノ高原温泉さらさ」もあり、いつか行ってみたいものです。



その後、琵琶湖の東側を走って、琵琶湖の南東「アグリパーク竜王」へ。

ここもいちご、桃、梨、ぶどう、柿等の果物狩りや農業体験、野菜直売、動物ふれあい広場、グラウンドゴルフ等ができるのですが、この日はすでにほとんどの果物の時期が終わっていて、




コスモスを自由に摘むことだけができたので、いっぱい摘んで帰りました。
滋賀県にはこの他にも、「アグリの郷栗東」や「ブルーメの丘」などの農業公園があちこちにあります。

帰りは琵琶湖大橋を渡って、小野から京都市大原に抜ける行きと同じ道で帰ってきました。琵琶湖大橋を渡る手前では道が渋滞して時間がかかりました。


針江もマキノもアグリパークも、どこも鉄道駅からは離れていて、自動車なしで一人で行くのは難しいので、前から行ってみたいと思っていた所に団体旅行でまとめて行くことができ、念願がかないました。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

針江生水(しょうず)の郷

2017-01-11 03:01:27 | 近江の国
昨年10月中旬に団体日帰り旅行で琵琶湖「かばた」をめぐる旅に行ってきました。
滋賀県高島市新旭町針江地区はきれいな水が豊富に湧き出ていて、「川端(かばた)」という水の湧き出る所が家庭の敷地内にあり、そこで水を汲んだり洗い物をして生活用水に使っていることで知られています。



針江大川。
集落の中に張り巡らされている川は水がきれいで、梅花藻がたくさん生えています。




針江公民館の横に見学の受付があり、ここで申し込んで必ず案内のガイドさんと一緒に見てまわることになっています。観光地ではなく、住人が住んでいる街なので、個人で勝手に見てまわることはできません。
たくさん参加の団体で予約してあったので、ガイドさんもたくさん待っていてくれて、15人位ずつで歩いてまわりました。




ガイドさんは住民ボランティアの方で、詳しく熱心に説明してくださいました。




住居とは別棟になっている「かばた」は庭に屋根をかけた小屋の中にあります。水は少し掘ると自然に湧き出てきたり、ポンプで汲み上げたりして出てきて、敷地の外の水路に流れ出ていきます。年中水温が一定なので、夏は涼しく、冬は暖かく使うことができます。

参加者はみんな紙コップを持ち歩いてどこの「かばた」でも水を汲んで飲むことができます。味は「かばた」によって少しずつ違っているそうです。




どの「かばた」にも鯉が住んでいて、食器を洗った時に流される食べかす等をお掃除してくれます。




集落の中の道はとても静かで、昔懐かしい村の風景です。




家の壁や塀は、腐らないように杉の木を焼いたものが多く使われていました。




あちこちに水がこんこんと湧き出ています。




住居と棟続きになっている「かばた」は曹洞宗正伝寺で見せてもらいました。




正伝寺境内の亀ヶ池も水が湧き出てたまったものです。




上原豆腐店では手作りの豆腐が「かばた」に浮かべて売られていました。




通りがかりの人が誰でも水が飲めるように家の外側に作られた「かばた」。




最近はハクビシンやイタチが出没して鯉を獲るようになったので、「かばた」の上にネットを張っている所もあります。

針江・霜降のこの地域にこのように湧き水が多いのは、比良山系の雪溶け水が湧き出し、しかもその先の琵琶湖に遮られて留まってここに湧き出てくるのだそうです。この地域の人達は水道水よりも上質の湧水を飲み水や風呂、洗濯に使い、庭の打ち水や洗車などには水道水を使っているのだそうです。
集落内の水路・川は生活排水で汚れていたこともありますが、下水の整備と水路の掃除など住民の努力で年々きれいになり、2008年に「平成の名水百選」、2010年に「重要文化的景観」に選定されています。少々不便なことがあっても、きれいな湧き水を使うエコな生活を守り続けているのです。

見学は、「針江生水の郷見学のご案内」を見て申込みされることが必要です。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

岩国錦帯橋

2017-01-10 03:03:38 | 遠出(国内)
宮島に続いて、山口県岩国市の錦帯橋にも行ってきました。

宮島からJR西日本フェリーで再び海を渡り、14:04宮島口発のJR快速シティライナーで岩国に14:26に着きましたが、岩国駅から錦帯橋に行くバスがお正月で少なく、タクシーを使いました。(1540円)


錦帯橋→岩国城ロープウェー→岩国城→錦帯橋のセット券で940円でした。

錦帯橋は1673(延宝元)年に、岩国藩主吉川(きっかわ)広嘉によって錦川に建造された5連の木造アーチ橋で、全長193.3メートル、幅5.0メートルです。1950(昭和25)年の台風で全て流失したため、現在の橋は1953(昭和28)年に建造当時のまま復元されたものです。2001年から2004年にかけても橋体部分の架け替え工事が大規模に行われています。








木の太鼓橋を上がって下りてまた上がって・・・とおもしろい体験でした。












継手や仕口といった組木の技術によって釘は1本も使わずに造られています。




橋を渡って少し上流の土手下に「佐々木小次郎像」がありました。そういえば、小次郎ってここが生地だったんだ。錦帯橋の上で飛ぶ燕を切って「燕返し」の剣を編み出したとか。




岩国城城山の麓一帯は1885 (明治18)年 に旧岩国藩主吉川家の居館跡が公園として開放され、吉川史料館や徵古館、岩国美術館、神社が集まっています。
これは旧藩時代の矢倉に似せて造られた絵馬堂「錦雲閣」です。




ロープウェーで3分、さらに10分程登ると岩国城がありました。
1608 (慶長13)年に初代岩国藩主の吉川広家が横山の山頂に築城しましたが、幕府の一国一城令により、1615 (元和元)年には取り壊しとなり、政務は山麓の居館で行われました。
現在の天守は1962 (昭和37)年に外観復元されたもので、錦帯橋からよく見えるように旧本丸の約50m南側に位置を変えて建てられました。

ご注意:2017年1月10日~3月3日、ロープウエイは設備更新のため運休します。土・日・祝日に限り岩国城は開館するので、城山登山道を歩いて訪問することができますが、かなりの登り道になると思われます。




元の天守閣があった石垣。幕府より石垣も破却するよう命じられましたが、下部約1/4が地中に埋まって残っており、1995 (平成7)年に古式穴太積 (あのうづみ)石垣が発掘復元されました。




お城から見下ろした錦帯橋。
錦川の向こうには岩国市内や遠くに瀬戸内海の島々まで眺めることができました。海の近くには岩国基地も。




16:36錦帯橋発のいわくにバスで16:54新岩国駅へ、17:29新岩国発のこだま750号で広島に17:43着。




広島駅を出て、マツダスタジアム方向に少し歩いた後、駅前のビルの6階に広島焼の屋台村になっている「ひろしまお好み物語駅前ひろば」に行きました。




夕食も広島焼で。




カキも広島ではまるまるとしています。
満腹満腹、大満足で、再び新幹線に乗って、元日のうちに京都に帰ってきました。
20:01広島発ののぞみ64号で21:36京都着。

元日はお天気もよく暖かで、一年の始まりにいい旅をすることができました。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

初詣は厳島神社へ

2017-01-08 02:26:51 | 遠出(国内)
JR西日本の路線内なら元日一日乗り放題という切符があったので、これを利用して安芸の宮島に初詣に行ってきました。この切符は1月1日に限りJR西日本線、智頭急行線、JR宮島フェリー全線乗り放題で15,500円というものです。



残念なことに京都から新大阪までの新幹線はJR東日本の路線なので、新大阪までは新快速で(国鉄分割の最悪のデメリット)。新大阪からは8:18発の新幹線で広島着9:39、広島からは9:45発、宮島口着10:20の普通列車に乗ったのでかなり時間がかかりましたが、JR宮島口駅に着きました。




宮島口駅から5分程歩いて、JR宮島フェリー乗り場に着きました。
すぐ横にもう一つのフェリー会社の乗り場がありますが、もちろん乗り放題切符のJRフェリーに乗船しました。




宮島に初詣で渡る人がものすごく多くて、フェリーは超満員、10分毎に宮島口と宮島の間をピストン往復しています。




フェリー乗り場から南に大きく見える島が宮島です。
でこぼこの山の形が独特な宮島、最高峰の弥山(みせん、535m)が厳島神社のご神体です。




海に浮かんでいるのが多分カキの養殖筏でしょう。




船の上から鳥居が見えてきました。




島に着くとあちこちに鹿がいます。どの鹿もなんとなく体が小さいようで、この島の鹿は小柄な種類かもしれません。




大きな常夜燈。




神馬。




あまりに大勢の人が行列しているので、厳島神社に入るのは断念、周りから遠目にお参りしておくことにしました。
厳島神社は593年にこの地域の有力者であった佐伯氏によって創建されたのが始まりですが、1168(仁安3)年に平清盛が寝殿造りの様式を取り入れて造営したものが現在の社殿の元となっています。社殿群は国宝と重要文化財になっており、世界文化遺産にも登録されています。




回廊が海に浮かぶ様子はあまりに有名。








一番左の端の突き出たところで鳥居をバックに記念写真を撮るために長い行列ができているようです。




大鳥居。





厳島神社の右隣にある大願寺にお参りしました。日本三大弁財天の一つだそうです。




不動堂。




厳島神社の左側にまわって小高い丘に上がると見事な枝ぶりの松の木がありました。幹から両側に長く伸びた枝が龍の髯に似ていることから龍髯(りゅうぜん)の松と言う樹齢200年程の木です。




すぐ上にある五重の塔。1407(応永14)年建立、高さ29.3m、屋根の軒先の反りが大きい禅宗様と、入口の板扉の和様が合わさった特徴がある塔です。(重要文化財)




千畳閣。
1587(天正15)年に豊臣秀吉が戦没兵士を慰霊するため、安国寺恵瓊に命じて大経堂(読経所)として建立しました。建設の途中で秀吉が亡くなったため、未完成のままとなり、明治の廃物希釈で仏像は大願寺に移し、秀吉を祀る豊国神社となりました。屋根瓦に金箔の名残がありました。(重要文化財)




丘の下から見上げたところ。長さ46.6m、幅28.2mで宮島一の大きい建物です。




拝観料100円を払って入ってみると、内部は広い板敷きで天井の大きな木組みが見え、桃山時代の豪放な姿を残しています。その広さから俗に千畳閣と言われました。




表参道商店街(清盛通り)はぎっしりの人で歩けない程、元旦でもお店はみんな開店していました。




ご当地名物もみじまんじゅうを製造販売しているお店もたくさんあり、できたてを買って食べるとあつあつでおいしかったです。




清盛通りでお好み焼とカキのポンズたれを食べました。広島のお好み焼は他の地から言うところの「広島焼」で、薄い皮の上に焼きそば、キャベツ、卵、ネギ等が重ねられているものです。そばが入っていてもボリュームは多くなくあっさりしていておいしかったです。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

旧三井家下鴨別邸

2017-01-03 02:57:29 | たてもの
2016年10月1日から公開された旧三井家下鴨別邸、11月19日~12月4日には特別に公開されていたので、見に行ってきました。



通常の公開では1階とお庭だけですが、特別公開期間には3階とその上の望楼まで上がることができるので、この期間は大勢の人が来ていて、行列ができる盛況でした。
先ず門に入るまでに行列して20分程待ち、受付を通ってから庭に設定されたテントの椅子で待って、お家の中に入ってからも玄関で待ち、1階の部屋で待ち、2階の部屋で椅子に座って待ち、そしてやっと望楼に上ることができました。望楼の中は狭いので、10名ずつしか上ることができないのです。




建物は下鴨神社の南側、一の鳥居のすぐ横、京都家庭裁判所の南にあります。この地には1909(明治42)年に三井家の祖霊社が遷座され、その参拝の際の休憩所とするため、1925(大正14)年に建築されたのが現在の旧邸で、元は木屋町三条上るにあった三井家の明治期の別邸が主屋として移築されました。
1949(昭和24)年には国に譲渡され、1951年以降京都家庭裁判所の所長宿舎として2007年まで使用されていました。2011年に重要文化財に指定されています。




望楼からの眺めは大文字山をはじめ、東山連峰を眺望することができますが、その前に高い建物もぼつぼつ建てられてきているので、一部眺めを遮られるところもありました。




辺りに生えているニレ科の大木は糺の森の原始から残る木がそのまま残されていて、このすぐ北側に作られているマンション敷地では次々と切り倒されているのは残念至極です。








2階から見下ろしたひょうたん池です。泉川の水を引き入れています。
別棟の茶室は非公開でしたが、1868(慶応8)年の建築だということがわかっています。
原在正(はら ざいせい)筆の孔雀牡丹図杉戸絵や、朝ドラ「あさが来た」の主人公、三井家のお嬢さん関連の展示もありました。

この特別公開の期間にはものすごくたくさんの人が押し寄せたので、建物にとってはさぞやダメージだったことだろうと思われます。次回の特別公開は未定だそうですが、通常の公開は水曜日と年末の休館日以外はずっと行われているので、見学することができます。1月1日~3日はお正月のおもてなしもあるそうです。


旧三井家下鴨別邸
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

謹賀新年

2017-01-02 01:03:25 | その他

     

あけましておめでとうございます。

いつもアップが目茶苦茶遅れまくっているブログですが、今年もどうぞよろしくお願いします。

     
お正月用の鉢を手作りしました。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

2016青春18夏の旅 もくじ

2016-12-21 03:22:39 | 遠出(国内)
2016青春18夏の旅 赤穂(1)赤穂市立民俗資料館

2016青春18夏の旅 赤穂(2)赤穂城ほか

2016青春18夏の旅 越美北線(1)終着駅九頭竜湖駅まで

2016青春18夏の旅 越美北線(2)越前大野 名水の町

2016青春18夏の旅 越美北線(3)越前大野城と朝市


2016青春18夏の旅 越美北線(4)越前大野 旧内山家

2016青春18夏の旅 越美北線(5)越前大野の古い町並み 

2016青春18夏の旅 生野銀山(1)生野駅

2016青春18夏の旅 生野銀山(2)生野銀山 

2016青春18夏の旅 生野銀山(3)朝来市旧生野鉱山職員宿舎 

2016青春18夏の旅 生野銀山(4)銀山まち回廊 
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

2016青春18夏の旅 生野銀山への旅(4)銀山まち回廊

2016-12-21 03:12:21 | 遠出(国内)
旧生野鉱山職員宿舎から生野駅に向かって歩きながら、鉱山とともに繁栄してきた口銀谷(くちがなや)の町並みを見てまわりました。
以下、各家の前に書かれていた説明文を引用します。



桑田家住宅。(国登録文化財)
江戸時代後期(1751-1829頃)に建てられた、地役人邸宅の様式をもつ平屋建ての建物です。生野では大変珍しい「幕板(雨よけや意匠のために、屋根の下にスカート状に取り付けられた板)」を備えています。




佐藤家住宅。(国登録文化財)
江戸時代に郷宿と掛家を兼務した建物で、住宅建築としては珍しく重厚な土蔵造りです。一階壁面は腰高付近まで焼き杉張りで、前面には大阪出格子が設けられ、飾り石が置かれています。
大きな通りの本町通りに面しています。




本町通りから曲って生野駅の方に続く鍛冶屋町通りは昔の「銀の馬車道」の跡で、今も懐かしいたたずまいの家々が続いています。




松本邸。(国登録文化財)
旧松一醤油店邸宅として、明治時代後期に右側の建物が、大正時代に左側が建築されました。右側の建物には袖壁があり、その下に大阪出格子、内側には飾り石を置き、左側の大正期の建物には洋風建築に見られる軒蛇腹がほどこされ、たくみに修景されています。




松田商店。
「八百屋、酒」と看板が出ていて、今も酒屋を営んでいるようです。




旧海崎医院。(国登録文化財)
明治20年頃に建てられました。軒下の蛇腹や鎧戸のついた両開き窓など、当時生野にあったフランス人屋敷の模倣も見られますが、内部の待合室には格天井に一枚一枚花鳥風月の絵が描かれており、和洋折衷の様式になっています。明治時代の生野鉱山ではけが人も多かったようで、フランス人医師の意見も取り入れながら治療に当たった様子が多くの記録に残っています。




藤田邸。
明治時代後期に建てられました。落ち着いた色合いの外観は一見質素に見えますが、落ち着きと重厚感が漂っています。生野の町屋の特徴を現わす建築です。




石川醤油。
本宅は明治時代後期に建築。十代目庄左衛門のときに泉谷の水を引き、「本龍野屋石川醤油店」の根で「龍野屋醤油」を売り出したと言われています。独特の製法でつくられた味は昔から生野で親しまれてきました。





大正時代建築の醤油蔵に描かれた商標は「山の上でまるい心で毎日を暮らす」という意味が込められています。また、この家には勝海舟、坂本龍馬等幕末に係わる逸話が残されています。




何の標識もない家でも何か心ひかれます。




JR生野駅東口にある旧日下旅館。(国登録文化財)
1909(明治42)年に建てられた旅館です。1921(大正10)年に木造三階建てに増築されました。その当時、南は姫路、北は城崎までで三階建ては二軒しかなかったそうです。昔は暖房も鍋料理も全て炭火だったので、外壁にも部屋の壁にも至る所に様々な形のすかしの空気孔があります。また、基礎にはカラミ石が用いられた地下室もあり、食品の貯蔵に用いられていました。








その向かいのお家も丸窓と瓢箪形の空気穴があり、旅館をしていたような造りでした。




町の側には水のきれいな市川が流れていました。
まだまだ気になる建物がたくさんあったのですが、さっと町を通り過ぎるだけしかできませんでした。

16:25生野駅発16:42寺前着。16:46寺前発17:34姫路着。17:56姫路発の新快速で19:29京都に帰ってきました。



最後に恥ずかしながら、駄作を一首。

大江山 生野(行くの)の道の遠けれど
   またふたたびの文(踏み)もありたき

ガハハハ(大汗)。

2016青春18夏の旅もやっと終わりです。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

2016青春18夏の旅 生野銀山への旅(3)朝来市旧生野鉱山職員宿舎

2016-12-15 02:04:22 | 遠出(国内)
生野鉱山とJR生野駅近くの口銀谷(くちがなや)地区は、銀山で働く人達が町を作り、当時の繁栄を物語る独特の景観を残しています。400年以上にわたり、採掘・製錬・運輸といった鉱業と鉱山町の発展に伴って形成されてきた「国内唯一の鉱山の歴史と生業が今も生き続ける現役鉱山都市」として、国の重要文化的景観に選定されています。


生野銀山からの帰りは、14:42生野銀山口発のバスに乗りましたが、駅までの途中で降りて、口銀谷の町並みを見ながら歩いて帰りました。
この橋の向こう側には山神宮が祀られています。昔は川に沿って鉱石を運ぶ「鉱石の道」がつけられていて、大正時代には電気機関車がトロッコを引いて走っていました。

これより前、明治9年から生野銀山と兵庫県の飾磨津(現姫路港)との間に、生野鉱山で産出した鉱石、鉱山で必要な機材や物資を運ぶために馬車で結ぶ舗装道路が作られ、「銀の馬車道」と呼ばれていました。日本初の高速産業道路でしたが、明治28年に播但鉄道(現JR播但線)ができてからは、そちらに役割を譲り、その跡は今は大部分が国道や県道となって残っているそうです。




バスを降りて少し歩いた所に「朝来市旧生野鉱山職員宿舎(甲社宅)」があります。
生野鉱山に勤めていた職員の住宅のうち甲社宅の通称だった5棟が平成22年に復元整備され、公開されています。




うち3棟は1876(明治9)年に明治政府直轄であった生野鉱山の上級官吏用宿舎として建てられ、2棟は1896(明治29)年に三菱合資会社に払下げられてから建てられた社宅です。修復する時にそれぞれ明治初期と後期、大正期、昭和中期の設備、建具、家具、調度品を備えて、時代によって変化してきた日本人の生活様式を見ることができるようにしています。




大正期の宿舎は「志村喬記念館」となっています。
俳優・志村喬さん(1905-1982)のお父さんは生野鉱山の冶金技師で、幼少の頃にこの宿舎に住んでいました。実際の生家(甲11号棟)は今はありませんが、甲7号棟を大正時代の様式に改修して志村さんの写真や映画の資料を展示しています。




その家の台所土間の様子。




廊下に座っているのは岡田准一くん。黒田官兵衛を演じた時にここを訪れた時の写真です。




昭和期の台所。




カラミ石(中央瓦の下の四角い石)と三菱の紋がついた生野瓦。
カラミ石は鉱石から銀や銅などを製錬した後のカスを方形に成形した約100kgの石。固くて重いので家の土台や塀材として生野町のあちこちに残っています。
生野瓦は寒冷地の気候に適して固く焼き締められた独特の赤い色をした瓦です。

生野にはこれら甲社宅の他に、鉱山長社宅、乙社宅、寺の上社宅、茶畑社宅など700戸以上の社宅がありました。




生野鉱山の町に住む社員や技師は都会から転勤で来る人も多く、その家族もふくめて職員宿舎に暮らす人々の生活は当時では”ハイカラ”なものでした。都会から持ち込まれた食べもの、ハヤシライスが今では生野の名物になっています。町のあちこちのお店でそれぞれの味のハヤシライスが出されていますが、これは生野銀山の食堂で食べたものです。



2016青春18夏の旅 生野銀山への旅(4)へ続く。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

2016青春18夏の旅 生野銀山への旅(2)生野銀山

2016-12-13 01:59:47 | 遠出(国内)
JR生野駅から11:55発のJR神姫グリーンバス喜楽苑行または黒川行に乗って、12:03に「生野銀山口」で下車。


バス停から市川越しに生野銀山方面を見たところ。松の木が生えた山の下に銀鉱脈が埋まっています。




市川にはオオサンショウオが住んでいるそうで、この辺では「あんこう」と呼ぶそうです。駅の売店でお土産の「あんこうクッキー」を売っていました。
この川の上流には、閉校になった中学校の校舎を利用して「NPO法人日本ハンザキ研究所」があります。 「ハンザキ」 はオオサンショウオの和名です。



坂道を20分程登って行くと、生野銀山の正門に着きます。
観光バスの「たじまわる号」は銀山正門まで行くのに、路線バスは「生野銀山口」までしか行きません。
生野銀山口のバス停から生野銀山の正門まではかなりの坂道で遠いので、できれば路線バスも正門前まで迂回してくれればなあと思いました。




この正門門柱は1876(明治9)年に、生野駅との中間地にある生野鉱山本部が完成した時に設けられましたが、昭和52年にここに移設されました。大小2組の石柱が両側に立ち、鋳鉄製の扉が付けられていました。表面には菊の紋章が刻んであり、官営鉱山であったことがわかります。

生野鉱山は807(大同2)年に発見され、中世から近世にかけて本格的に開発が進み、銀山として織田・豊臣・徳川の政権を支えてきました。江戸時代には幕府が「銀山奉行」を設置、その後「生野代官」が置かれ、最盛期を迎えます。明治に入ると我が国初の官営鉱山となり、フランス人技師が着任し、軌道や巻揚機の新設など数々の先進的施策によって近代化を成し遂げました。明治22年には皇室財産に、明治29年には三菱合資会社に払下げられ、1973(昭和48)年の閉山まで国内有数の大鉱山として稼働してきました。その間に掘り進んだ坑道の総延長は350km以上、深さは880mの深部にまで達しており、採掘した鉱石の種類は70種以上になっています。

閉山後の1974年からは、三菱マテリアルと朝来市が出資する第三セクター会社「シルバー生野」が管理・運営する「史跡・生野銀山」という観光施設として公開しています。2007年には近代化産業遺産、および日本の地質百選に選定されました。

入場料:900円。年末年始・12〜2月のみ火曜休館(祝日は翌日)。




正門の外側に展示されていた「明神電車」の車輛。明延(あけのべ)鉱山(養父市)で採鉱された鉱石を神子畑(みこばた)選鉱所(朝来市)まで運んでいた専用電車で、昭和20年から60年までは鉱石だけでなく、人も一円の運賃で乗せるようになっていたので「一円電車」と呼ばれていました。明延鉱山が1987年に閉山となったことに伴い、この電車も廃線となりました。




正門の奥にある門。江戸時代の代官所門の形をしていますが、元からのものか、模して作られたものか確認するのを忘れました。




門を入ってまっすぐ進んだ突き当りにある「金香瀬(かながせ)坑口」。
石造りの坑口は、明治初期鉱山の近代化のためにフランスより招聘されたジャン・フランソア・コワニエによって築造されました。左の階段を登って行くと、地中から噴出した鉱脈が地表に現れた露頭を掘った露天掘り跡が見られ、右側の崖からは大量の水が不動滝となって流れています。





その右手にある出口。入口から出口まで約1kmの間、迷路のような坑内を歩くことができます。
出口の上の崖には江戸時代の坑夫姿の人形がたくさん鉱石を掘っていて、ぎょっとします。




坑道内は一年中一定の13度で、この時はまだ残暑の日だったので、入るとひんやりしてとても快適でした。
坑道は大きくて平坦、道幅も広く、十分に立って歩くことができました。




坑内にもあちこちに人形が働いていて、しかも、電動で動いていたりするので、またギョギョギョッとします。江戸時代以前のノミによる手掘の様子を再現している一帯です。
昔はサザエの貝殻に油を入れて灯りとしたのだそうです。



女性も掘った鉱石を運んだり、石を砕く重労働をしていました。
狸掘りと言って狭い坑道で這いながら掘り進んで行くのもありました。




坑内で採れた鉱石の量を確認する役人。坑夫が勝手に鉱石を持ち出さないように監視していました。




白い石英の中に金・銀が含まれている鉱脈。




太閤水。天正5年、羽柴秀吉がこの地に入った時に水のおいしさを激賞し、お茶をたてたと言い伝えられている水です。
坑内にはあちこちから水が湧き出していたので、その汲み上げには苦労しました。




坑内の温度が一定なので、お酒の熟成庫がありました。




近代的な坑道。




削岩機で掘り、




坑内トロッコで鉱石を運びます。





巨大な捲揚ドラムで地上に運び上げます。
発破で爆破して採掘することもありました。




坑内見学の次に、「吹屋資料館」では江戸時代の銀の製錬の様子が人形で再現されています。




「鉱山資料館」では、生野鉱山の歴史を物語る様々な資料が展示されていました。
江戸時代の坑内の様子が巨大な模型で再現されていて、坑道が山の中奥深くまで蟻の巣のように掘り拡げられていたのがわかりました。




三菱に払い下げられた後の鬼瓦。皇室財産だった頃の菊の紋の鬼瓦もありました。



江戸時代の一分銀(左)と南鐐二朱銀(右の二つ)。





銀鉱石と純銀塊。純銀塊は99.99%の純度を持ち、重さは30.517kgもあります。





正門の外に赤煉瓦の建物の名残がわずかに積み重ねられていました。
鉱山近代化のためにフランスから招かれたジャン・フランソア・コワニエが、明治4~6年頃に当時の技術の粋を集め、建造した最新鋭工場の選鉱所建家の一部を保存したものです。昭和61年11月に老朽化のために解体撤去されました。
当時赤煉瓦は生野で作られ、煉瓦の接着には漆喰が使われました。



付けたり。

お土産館で買って帰ろうと目論んでいたのが、この「埋蔵金最中」。最中の下にチョコ金貨が入っているお土産なのですが、なぜかこの日は売っていなくて、「お大臣様、どうかよしなに。」「お前もワルよの~。ウッシッシ」ごっこができなくて残念でした。


2016青春18夏の旅 生野銀山への旅(3)に続く。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

2016青春18夏の旅 生野銀山への旅(1)生野駅

2016-12-09 02:08:14 | 遠出(国内)
9月になってから、青春18夏の旅で日帰りで兵庫県朝来(あさご)市生野(いくの)町に行ってきました。生野町は元は朝来郡生野町でしたが、2005年に和田山町・山東町・朝来町と合併して朝来市の一部となりました。


8:06京都発の新快速で9:43姫路着、9:52姫路発10:39寺前着、

寺前から先は電化されていないので、ディーゼル車に乗換えねばならず、10:42寺前発和田山行のこの列車に乗り、11:03に生野に着きました。
京都から生野までは、姫路まわり播但線で行くのと、山陰線福知山、和田山まわりで行くのと二通りありますが、姫路経由の方が少し早く行けます。




JR生野駅から出てみると、駅は無人で町の案内もなく、どうしようと思っていたら実はそちらは駅の裏口(東口)でした。




跨線橋を渡って、




跨線橋の板は青く塗られていました。




こちらが生野駅の表口(西口)でした。
こちら側はコンビニもある大きな自動車道に面していますが、東口の方が古い町並みに続く元からの駅の入口のようです。
西口の駅舎は新しく、朝来市観光情報センターも併設されていました。




西口の前から生野銀山に行くバスが出ています。
さあ、生野の町へと探検に出かけます。


2016青春18夏の旅 生野銀山(2)へ続く。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

聖護院門跡の特別公開

2016-12-03 00:24:15 | ぶらり都めぐり
聖護院門跡が3年ぶりに特別公開されています。(2016年12月18日まで)
東大路通り熊野神社前から一筋上り東へ一筋入った所にあります。
公開時間:9時30分~16時30分(受付は16時まで)。拝観料:800円。

役行者が開創した修験道(山伏)の総本山として、智証大師圓珍が1090年に「聖護院」という寺を賜り、度々の火災にあった後、1676(延宝4)年にこの地に移されてきました。後白河天皇の皇子が宮門跡となって以来、明治維新まで代々皇室や摂家から門跡を迎えてきました。
たくさんの不動明王像や、江戸時代前期の狩野派絵師による130面の障壁画があり、案内の方が詳しく説明してくれましたが、内部の撮影はできなかったので、画像は建物の外観だけです。


大玄関。




宸殿。
1788(天明8)年の天明の大火で御所が焼失した後3年間、光格天皇が仮の御所とした建物です。上段の間は光格天皇の対面所として使われました。
1854(安政元)年にも御所が炎上した時も孝明天皇の仮御所となりました。




宸殿の前の庭には、公開中7匹の猫の置物が置かれていました。
節分の時にはここで大護摩が焚かれます。




宸殿の奥には、後水尾天皇が女院のために建てた御殿(右奥の建物)が移築されていて、優美な室内を見ることができました。重要文化財となっている書院です。




11月中旬、お庭の紅葉が進み始めて緑の苔に映えていました。

聖護院のこの辺りは明治まで鬱蒼とした森で、この森の紅葉は錦の織物のように美しいということから、「錦林」という地名がついたそうです。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

2016青春18夏の旅 越美北線(5)越前大野の古い町並み

2016-11-16 23:10:26 | 遠出(国内)
朝一番に武家屋敷旧内山家を見た後、越前大野の町をぶらぶら歩きながら駅の方に向かいました。


観光の中心、結ステーションの側にある「平成大野屋」の洋館。
「平成大野屋」は幕末の藩営商店「大野屋」にならって、大野市と市民が出資して設立された第3セクターの会社で、まちなか観光施設、地域農林産物の販売、イベント等を行っています。

この洋館は大野市の伝統産業である織物業の製品検査場だった建物を修復し、食事処と休憩処としています。平成10年に国の登録有形文化財となっています。




洋館を裏から見たところ。
平成大野屋にはこの他に、二階蔵と平蔵があり、手作り体験や市民の作品展示スペースになっています。




バスが通り、歩道も広い六間通りの家にもうだつが出ていました。




五番通り商店街にある




真名鶴酒造。




その向かいの沖村菓子舗で、「越前おおの食べ歩き・見て歩き」チケット1枚で、お好きなケーキどれでも1個とミニ菓子がもらえて、店頭で食べさせていただきました。




大鋸町(おがまち)通りにある正津屋。レンガ造りの煙突がありました。
町の中心から離れた所にも昔の風情のある民家が並んでいます。




野村醤油店はちょっとわかりにくい所にあって、尋ね尋ねしてやっとたどり着きました。




こちらでも、「越前おおの食べ歩き・見て歩き」チケット1枚で「大野のおしょうゆ」をもらいました。




廃業した銭湯がありました。




旧美濃街道を感じる古い通りにあった家です。



11:29越前大野発で京都に向かって帰りました。
帰りは越前花堂で降りずに、そのまま終着駅の福井まで乗りました。→12:22福井着。
13:11福井発→14:03敦賀着。14:23敦賀発→新快速で15:58京都着でした。

2016青春18夏の旅 越美北線の旅の終わりです。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加