ビバさんのさんぽ道

みやこの建物、お庭、お花、あれもこれも見てみたいと欲張りビバさんがでかけます

2016年紀伊半島一周の旅(4)橋杭岩

2017-04-24 22:39:43 | 遠出(国内)
潮岬から再びドライブで、紀伊勝浦を目指しました。



串本の駅前を通り過ぎて少し走ると、海沿いに橋杭岩の列が見えてきました。




岩の付け根の海岸に道の駅があり、西日の中にたくさんの岩が並んでいるのをゆっくり眺めることができました。
串本の海岸から大島の方に向かい約850mにわたって、大小40余りの岩が橋の杭のように並んでいることからこの名前が付いています。この岩の列は、1500万年前の火成活動により、泥岩層の間に流紋岩が貫入した後に、柔らかい泥岩部が波の力で侵食されて、硬い石英斑岩が杭状に残されてできたものです。

橋杭岩は今までJRの列車の窓からちらっとしか見ることができませんでしたが、今日初めて間近に見ることができたのはドライブ運転手のおかげです。




彼方に今日訪ねた紀伊大島とくしもと大橋が見えました。




海沿いに東へ東へ、紀伊半島の東側に廻りこんで走って行きました。
海の見晴らしもよかったけれど、紀州海岸の山には初冬なのに緑の木々と特別に赤い葉の目立つ木があちらこちらに見え、暖かさが感じられました。




無事紀伊勝浦の宿に到着。
温泉と、天然マグロのお造りに熊野牛のステーキとアワビの踊り食いの夕食を満喫しました。



2016年紀伊半島一周の旅(5)に続く。
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2016年紀伊半島一周の旅(3)潮岬灯台

2017-04-23 21:43:35 | たてもの
樫野崎灯台、トルコ記念館のある紀伊大島から、くしもと大橋を渡って、串本町・本州南端の潮岬側に戻ってきました。


潮岬の突端に芝生の広場があり、その先端に「本州最南端」碑がありました。芝生は約10万㎡の広さで、明治時代、海軍の望楼(物見櫓)があったので「望楼の芝生」といい、毎年1月の最終土曜日にはここで本州最南端の火祭り(芝焼き)が催されます。




少し西側に潮岬灯台がありました。
しかし、官舎だけ写して、どういうわけか灯台の写真が無くなってしまっている(汗)。

樫野崎灯台に続いてこの灯台も、1870(明治3)年にイギリス人技師リチャード・ヘンリー・ブラントン設計によって造られ、以来、海上交通の要所として沖行く船を照らし続けています。30mの断崖に建つ白亜の灯台で、塔内の68段のらせん階段を上って展望台に登ることができます。また、灯台1階には灯台資料展示室が併設されていて、灯台の歴史、機能・役割などを学べ、2代目潮岬灯台レンズをはじめとした資料が多数展示されています。
灯台の高さは19.55m、光度130万カンデラ、光は19海里の遠くまで達します。

潮岬灯台の見学は
  年中無休
  営業時間:10月~4月・・・9時~16時 / 5月~9月・・・9時~16時30分
  入場料:大人200円(中学生以上) 小学生以下 無料
  駐車場:1回300円




灯台下の海岸。




灯台から西方面の眺め。




灯台の写真の代わりは地酒の写真で。



2016年紀伊半島一周の旅(4)に続く。
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2016年紀伊半島一周の旅(2)樫野崎灯台

2017-04-22 22:31:32 | たてもの
串本町紀伊大島の東端に樫野崎灯台があります。


1866(慶応2)年の江戸条約で建設が決められた8灯台の一つで、1870(明治3)年6月10日に点灯され、日本で最古の石造灯台として貴重な財産となっています。




現在は自動点灯の無人灯台で内部は非公開ですが、平成14年に展望台が造られ、らせん階段で上まで登ることができます。




灯台の高さ10.20m、光力は53万カンテラで18.5海里(約34km)先まで光が届きます。




灯台の手前に旧官舎があります。

この建物を作ったのは、リチャード・ヘンリー・ブラントン(1841-1901)で、英国スコットランド生れ、明治元年に灯台技師団のリーダーとして来日、愛媛県松山市の釣島灯台、千葉県銚子市の犬吠崎灯台などを整備、また「修技校」を設置し、後継者育成にも尽力、日本の灯台建築の基礎を築き、「日本の灯台の父」と呼ばれました。
1869(明治2)年4月に着工、1870(明治3)年7月に竣工した日本最古の石造灯台官舎で、平屋建、寄棟造、建築面積162㎡、エルトゥールル号遭難の時には救助の拠点となったことでも知られています。
2003年に国登録有形文化財に指定され、2010年~2011年にかけて改修工事が行われ、竣工当時の部材を大切にして、保存できるものはすべて現状のまま残す処理が行われました。

■樫野崎灯台旧官舎
TEL (0735)65-8515
開館日 土日祝日、11月1日(灯台記念日)、年末年始(12月29日~1月3日)
開館時間 9:00~17:00  
入館料 大人(中学生以上) 100円 (トルコ記念館と共通で510円、トルコ記念館・日米館との3館共通で560円)



官舎の前庭には明治初期に常駐していたイギリス人技師が故郷を思い植えたと言われる水仙が今も群生しており、12月にもう花を咲かせていました。


2016年紀伊半島一周の旅(3)に続く。
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2016年紀伊半島一周の旅(1)串本、エルトゥールル号遭難の島

2017-04-17 00:44:05 | 遠出(国内)
2016年12月末に紀伊半島一周の旅に出かけました。



特急くろしお3号で8:35に京都駅を発ちました。




窓の外に太平洋の海を見ながらJRきのくに線を南下し、




紀伊半島の最南端駅、串本に着いたのは12:23でした。




先ずは駅近くのお寿司屋さんで海の幸をいただきました。




今回の旅はここからレンタカーを借りてのドライブとなりました。
串本の向かいにある紀伊大島に向かって、くしもと大橋を渡ります。橋は大きなループに続き、




アーチの橋になっています。


紀伊大島を横断して東に走ると、トルコの軍艦エルトゥールル号が1890(明治23)年に遭難した地、樫野崎に着きました。
オスマン・トルコ皇帝特派使節として来日したオスマン・パシャ以下650余名の将兵を乗せた軍艦エルトゥールル号が帰国の途中、9月16日夜に熊野灘で暴風雨にあい、大島樫野崎沖の岩礁で難破、587名の将兵が亡くなり、69名の人が生き残りました。


断崖の上に大きな遭難慰霊碑が建っています。




エルトゥールル号の遭難者の遺体はここに埋葬され、遭難の翌年、和歌山県知事はじめ有志の義金により、墓碑と追悼碑が建立されました。現在の慰霊碑は昭和12年に改修されたもので、5年ごとに追悼式典が行われています。
遭難者を大島の人たちが命がけで救助したことから、串本町とトルコ国との交流が続いています。




ムスタファ・ケマル・アタチュルク(1881~1936年)騎馬像。
第一次世界大戦後分割占領されたトルコを解放し、初代大統領となった英雄の像で、2010年に日本とトルコの友好の継続を願ってトルコ大使館から串本町に寄贈されたものです。




串本町トルコ記念館。
1974(昭和49)年12月に建設され、エルトゥールル号の遭難事故と引揚調査の遺品、イラン・イラク戦争での日本とトルコの結びつきなどが展示されています。
映画「海難1890」で見たエピソードなどが思い出されました。
  開館時間:9時-17時
  休館日:年中無休
  入館料:500円
右に見えるのは、日本赤十字社記念碑。平時での最初の国際救援活動となったトルコ軍艦遭難時救護活動を後世に伝えるために建立された、日本・トルコ両国の国旗をデザインしたもの。




記念館の壁はきれいなトルコ・タイルでした。




記念館の窓から遭難現場が見られるようになっていました。
すぐ目の前の断崖の下、中央の岩礁「船甲羅」に船が乗り上げて座礁し、村人達がこの絶壁を降りて遭難者の救助にあたったそうです。




島のあちこちに野生の椿の花が咲いていました。



2016年紀伊半島一周の旅(2)に続く。
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月光が咲きました

2017-04-16 21:49:53 | その他の植物
     

鉢植えの椿、月光(がっこう)が咲きました。
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海津大崎のお花見とマキノ高原温泉さらさ

2017-04-15 00:10:03 | 近江の国
滋賀県琵琶湖の北方、高島市マキノ町の海津地区大崎の琵琶湖岸にお花見に行って来ました。


9:48京都発の湖西線新快速でマキノ駅に着いたのが10:50.




マキノ駅の駅前は大きな通りが琵琶湖までまっすぐ続いて、お花見の船の発着場になっています。

平日とはいえ、マキノ駅に降りたお花見客はものすごい数。駅前から4月11日~14日・17日~18日だけ出ているお花見バスに乗りましたが、これもぎっしり満員でした。マキノ駅から海津大崎の半島をまわり、マキノ駅に巡回しているバスで一日乗り放題で800円です。
15日・16日の土日だけはマキノ駅前~大崎並木口間をピストン運行するシャトルバスが走っています。(200円)
他に常時運行している路線バスが大崎並木口の近くまで通じていますが、便数が少ないので時間を調べて行ったほうがいいです。(220円均一)
駅前から大崎並木口まで歩くと30分程かかり、他にレンタサイクルもあります。
詳しくは、高島市の「海津大崎の桜情報」でお確かめください。




お花見バスで5分程、大崎並木口で降りた辺りは旧街道沿いで、前に高島市新旭町針江地区生水(しょうず)の里で見たような水を貯めて鯉を飼っている池があちこちにありました。この辺りにもきれいな水がたくさん湧き出てきているようです。




琵琶湖とは反対の山側に10分程歩いていくと、田畑の中に桜がたくさん咲いていて、




とりわけ大きな桜の古木がありました。「清水(しょうず)の桜」というアズマヒガンザクラで、樹齢300年を超えるそうです。加賀の前田侯が上洛の折り、何度も振り返って花を愛でたことから「見返り桜」とも言われ、水上勉の小説「桜守」の中でも賞賛されています。
この木は墓地の中に生えていて、お墓の多くは軍人のもので、この近くから多くの人が戦争で犠牲になったことがわかりました。




三・四分咲きの時には花はもっと紅いそうです。




もう一度大崎並木口まで歩き、琵琶湖に出ました。
この辺りの湖岸は、1703年に甲府領の代官として赴任した西与一左衛門が風雨の度に宅地に被害が甚だしいのを憐れんで築いた石垣が残っています。石積は何代にもわたって修復が続けられてきています。




ここから湖岸道路に沿って、半島の先端にある大崎寺を経て反対側の付け根までぐるりと桜並木が続いています。
半島の西側は高島市、東側は長浜市になっています。



車道より下側、湖岸に沿って狭いですが人の通る道がつけられています。並木口から大崎寺まで約2km、歩いて30分程です。




所によっては、砂浜に波が打ち寄せる横を歩きます。




途中にお花見遊覧船、湖上タクシーの乗り場もあり、15分1000円、40分2000円で、すぐ乗れるようでした。




桜並木の自動車道は渋滞で花を見ながらゆっくり走る車が連なっていました。




大崎寺の近くまで歩いてきたところに次のお花見バスがやってきたので、大崎寺には寄らず、バスに乗ってマキノ駅まで帰りました。バスのガイドはボランティアのおじさんが引き受けておられて、チケットの販売から、沿線の説明、最後には「琵琶湖周航の歌」まで歌ってくれました。お花見バスは一日乗り放題と言っても便数が多くないので、2回乗っただけでしたが、全部歩くと相当な距離になるので、まっ仕方ないかというところでした。



ここからただJRに乗って帰るにはまだ早い午後2時だったので、路線バスに乗って「マキノ高原温泉さらさ」に行ってきました。


14:00マキノ駅前発のバスで、前に行ったことのあるメタセコイア並木を通って、「マキノ高原温泉さらさ」に14:13に着きました。メタセコイア並木はまだ茶色い枝ばかりの冬の姿でしたが、5月になれば緑の若葉が出てくるのでしょう。
このバスも1時間に1本です。
温泉は大浴場と露店風呂の他に水着で入るバーデゾーンもある広い施設で、ほっこり暖まりました。ちょうど月・金曜日が65才以上が700円が600円になるシニア・デーだったのでラッキーでした。




ここは冬はマキノスキー場、グランドゴルフやキャンプ場になっているところです。この辺りは八重桜が多く、まだまだこれから花が楽しめそうです。山の頂上にはまだ雪が残っていました。
1時間後のバスに乗ってマキノ駅に戻り、新快速で京都に帰ってきました。

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鴨川~松ヶ崎疎水~高野川 桜が満開

2017-04-09 22:26:57 | 松ヶ崎村風土記
3月末から4月になっても例年にない寒さが続き、今年は桜の開花が随分遅れていましたが、4月第一週を過ぎて京都でもやっと満開になってきました。
しかし、週末は雨の日が続き、なかなかお花見に行けず、9日になって雨の止み間にやっと近場の桜を見てまわることができました。


府立植物園の側の鴨川堤防に続く紅しだれ桜並木では、8・9日の二日間例年のように「鴨川茶店」が開催されていました。




ほとんどのしだれ桜はまだこれくらいの咲き具合でした。




少しだけ咲き進んでいたのはこのようにきれいな花でした。




鴨川堤防のソメイヨシノは満開になっていました。




北大路通り府立大学前のバス停辺りから南西に向かって鴨川を越えると紫明通りに続く斜めの道は、実は松ヶ崎疎水通りが暗渠になって下を流れている通りです。その道の中央分離帯には桜並木が続いています。奥に見えるのは比叡山です。




北大路通りを北に越えると、疎水が暗渠に入り込む口があります。




そこから東に向かって疎水ベリに桜並木が続いていて、今が見頃の松ヶ崎疎水通りです。




閑静な住宅街の中に緑の疎水の両側に満開の桜並木が続いていて、人通りも多くなく、ゆったりと花見を味わうことができます。




あまり人に教えたくないお花見の穴場です。








松ヶ崎浄水場の前で今度は疎水が高野川を越えて流れ込んでくる口が開いています。




高野川の堤防も桜が延々と続いて見事です。








川端通り。




しかし、税金の無駄使いをする無粋な橋工事も強行されていました。




高野川を渡っても疎水は続き、一乗寺、北白川、哲学の道、南禅寺界隈へと続きます。こちらから流れて行くのではなく、琵琶湖から流れてきて、今日見て来た流れを逆に流れ下っていくのです。
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2016年高知県奈半利町への旅 もくじ

2017-03-29 01:44:34 | 土佐の国
2016年11月に高知県東部奈半利町に行きました。

馬路村へ行こうとしたけれど

土佐漆喰の町・奈半利(1)

土佐漆喰の町・奈半利(2)

旧魚梁瀬森林鉄道アーチ橋
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旧魚梁瀬森林鉄道アーチ橋

2017-03-29 01:11:41 | 土佐の国
奈半利の町の土佐漆喰の家々を見て歩いた後、町のはずれにある昔の森林鉄道の廃線跡のアーチ型の橋を見に行きました。

奈半利川の上流域は、秋田杉・吉野杉と並ぶ魚梁瀬(やなせ)美林と言われる杉の名産地です。この魚梁瀬美林の運搬にかつて活躍した旧魚梁瀬森林鉄道の遺構は国指定の重要文化財となっています。その一つが奈半利町内にある報恩寺跨線橋です。



魚梁瀬森林鉄道は、1895(明治28)年の牛馬道の開設から始まり、1910年(明治43年)から鉄道が建設され、1942(昭和17)年に安田川線、奈半利川線の両幹線に加え、各支線を含めた総延長250kmに及ぶ国内屈指、そして高知県内最大の森林鉄道網が完成しました。
一番最初は山からの下りは自然の重力を利用し、山へ帰る時は犬または牛にトロリーを牽かせていたということです。
陸上交通網が整備されつつあったことに加えて、魚梁瀬ダムの完成により軌道が水没したことから、1964(昭和39)年3月30日に全線廃止となりました。
2009(平成21)年に、林業技術史上重要な遺産であるトンネルや橋などの施設が「旧魚梁瀬森林鉄道施設」として重要文化財に指定されました。その一つである北川村にある小島橋のことはこちらに書いてあります。
全部で18ヶ所の重要文化財遺産の説明等、詳しく書かれた「魚梁瀬森林鉄道遺産Webミュージアム」はこちら




お寺に向かう参道が鉄道線路の上をまたいでつけられ、上部は階段、下は短いトンネルを作っています。1933(昭和8)年頃建設の石造アーチ橋です。




線路の跡は今は道路になっています。




奈半利の港。ここから木材が船に積まれて出荷されたのでしょう。




帰りの「ごめん・なはり線」の電車は北川村にある「モネの庭」のデコレーション列車でした。




高知市中心部に帰ってきて、こちらは「はりまや橋」交差点横のビルにあるからくり時計。
通常は四角形ですが、定時になると上部から高知城、右からはりまや橋と(坊さんがかんざしを買って彼女にプレゼントしたという)純真・お馬の人形、左からは桂浜と龍馬像、下からはよさこい鳴子踊り子隊が出てきて、曲を演奏・踊ります。5分間くらいは鳴り続けて、終わるとまた引っ込んで四角い時計だけが残ります。





2016年11月の高知の旅はこれで終わります。
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出町柳のおかめ桜

2017-03-26 00:14:28 | ぶらり都めぐり
出町柳の長徳寺前のおかめ桜が満開です。今年はなかなか暖かくならないので、花が開くのも遅かったようです。
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土佐漆喰の町・奈半利(2)

2017-03-24 01:03:22 | たてもの
奈半利の町の土佐漆喰の家も随分たくさんあって、歩き疲れてきたので、途中で一服することにしました。


唯一お家の中に入って見ることができたお宅、高田屋(竹崎家)さんで、蔵は資料館ギャラリーに、母屋の座敷が喫茶とお土産品販売処になっています。




右が蔵、左が母屋で、間が土間になっています。建築年代は明治23年頃です。




座敷の喫茶処。




お庭を眺めながら、




コーヒーをいただきました。




蔵の入口は防犯のため家屋内部にあり、水害に備えて一段高くなっています。

高田屋は藩政時代から樟脳の製造に携わって巨利を得、田畑・山林を購入して明治の新興地主となりました。三代目才吉は自由民権運動に参加、政界で活躍、四代目音吉は寺田寅彦と親友、夏目漱石の熊本時代の教え子、浜口雄幸の世話で大蔵省に入り、五代目達雄は昭和13年に高知に帰り、高坂女学校の教師を務めました。
その子孫の方が、河田小龍「土佐絵図」、古伊万里や九谷の絵皿などの調度品や工芸品、浜口雄幸・夏目漱石関連の写真や資料など、蔵のなかのお宝を見せてくださいました。

竹崎家(高田屋)蔵資料館は、9:00~17:00開館、入館料は無料です。




高田屋の向かいのお家も漆喰模様がきれいでした。




高田屋の南にある東山家住宅。
初代当主は製材業を営んでいました。主屋は1906(明治38)年頃の建築と伝えられ、つし二階建てで格子と戸袋がつく伝統的な商家のたたずまいです。




蔵は薬局の店舗に改装されています。敷地内にある便所・風呂場棟に藍色の装飾タイルがあるそうですが、見れなくて残念でした。




濱田典弥家住宅。
広い敷地に重厚な主屋・土蔵を持つ旧家です。現在の当主の曽祖父、幕末生まれの虎太郎により新築されました。当時、濱田家は奈半利町内に400人の小作人を持つ大地主でした。

主屋は1934(昭和9)年の築。当時の匠の技が随所に見られます。




土蔵は明治後期の築です。








皇帝ダリアが咲いている家がありました。




さらに水切り瓦の段数が多い蔵(住居?)がありました。

江戸・明治の古いものから最近できたようなものまで、水切り瓦を持つ土佐漆喰の建物がたくさん現役で使われている、奈半利の町はとてもおもしろい町でした。


旧魚梁瀬森林鉄道アーチ橋に続く。
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春蘭が咲きました

2017-03-23 23:13:54 | その他の植物
我が家の春蘭も咲きました。



うなだれて下を向いているので、写真を撮るのに苦労しました。
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京都府立植物園の春蘭展

2017-03-14 00:09:30 | その他の植物
京都府立植物園で3月10日~12日、「第25回春蘭展」が開かれていました。
12日13:30~15:00植物園会館2階の研修室で春蘭の育て方の講習会もあり、参加してきました。植え替えの方法を実演で見せてもらい、花の向きを変えるのは朝にしてはダメ、午後暖かくなってから花茎をそっと捩じるとか、花が終わったらすぐに花茎の下で切り取るとか、勉強になりました。
日本全国の低山、落葉樹の木陰に自生しているのはシュンランで、その中から花の変異種や葉に芸のあるものを集めて園芸化したものを「春蘭」と呼びます。
中国で古くから栽培されてきた中国春蘭は、日本のものより花茎が短いものが多いそうです。



これが一番野生種らしさを残しているようです。




赤花系。







春蘭展の他に、園内では梅が盛りでした。

椿園では有楽ツバキだけたくさん咲いていました。




桜はまだまだでしたが、シュゼンジカンザクラは蕾が膨らんできたところ。




カワヅザクラは濃いピンクの花が見頃になっていました。

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松ヶ崎疎水のスイセン

2017-03-09 17:23:11 | 松ヶ崎村風土記
松ヶ崎疎水の土手にスイセンがたくさん咲いています。風に乗っていい香りがしてきました。
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土佐漆喰の町・奈半利(1)

2017-02-19 00:47:52 | たてもの
土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の終着駅・奈半利で降りて、駅のイタリアン料理店でお昼を食べてから、奈半利の町の散策に出かけました。

奈半利町は高知県の東部、阪神タイガースのキャンプで有名な安芸と室戸岬との中間、奈半利川の東岸にある交通の中心地で、古くは紀貫之の「土佐日記」でも「那波の泊」として記録され、山内一豊が土佐に入国した時にも宿泊したところです。
上流の木材を奈半利川の水運によって運搬・集散していましたが、やがて森林鉄道奈半利線ができてからさらに発展しました。さらに明治以降、樟脳や林産物・捕鯨・製糸業もさかんになって、この地域の中心地となり、その頃の伝統的建造物が今もたくさん残っています。それぞれの建物に説明文がついていましたが、ほとんどのお家が今も住み続けておられる民家です。



高札場。
ここを起点として高知県東端の東洋町野根まで、50km余りの野根山連山を尾根伝いに越えて行く野根山街道が続き、718(養老2)年にはすでに利用されていました。




江戸時代の旅籠屋、西尾家住宅。
主屋は江戸末期、台所・蔵・納屋・レンガ塀・便所は大正初期の建築です。
明治7年の佐賀の乱に敗れ、高知で捕えられた江藤新平が泊まったといわれています。




このお家には説明板はついていませんでしたが、奈半利の住宅の特徴は、このような漆喰の壁に水切り瓦がついて強い雨風に当たっても大丈夫なように造られています。
土佐漆喰は消石灰に発酵させたワラすさを加え水でこねたもので、糊を使わないので水に濡れても戻りがなく、厚塗りが可能できめが細かくなっています。




奈半利町4号津波避難タワー。海に近い町なので、このようなタワーがあちこちにありました。




うだつのある家・浜田家住宅(増田屋)。
主屋・店舗・レンガ蔵は1903(明治36)年築、大蔵・蔵は江戸末期築です。1795(寛政7)年創業で造り酒屋と質屋を営んでいました。主屋一階になまこ壁、二階にうだつが付けられ、土間の梁は50cm角、長さ12mの松材で地域随一の大きさです。




大蔵(酒蔵)と蔵(米蔵と道具蔵)。




曲線を描いた塀。




レンガ蔵。寄棟造り桟瓦葺き二階建、内部に木造の螺旋階段があります。
奈半利で見られるレンガの多くは阪神地方に木材を運んだ船が帰りにバランスをとるために積んできたものです。




改田家住宅。
主屋は大正初期の建築で、敷地内に主屋・釜屋・便所・風呂棟等があり、周囲を石塀で囲っています。




南面の石塀は、浜石を両面に埋めこんで高さ2.1m、厚さ36cm、長さ23mになっています。




東面の石塀はこの家独特のものです。








次は、登録有形文化財、近代化産業遺産の藤村製絲株式会社繭蔵です。




1899(明治32)年築。当初は酒蔵でしたが、大正6年に四国で唯一の製絲会社の繭蔵となり、平成17年までここで操業していましたが、現在はブラジルで行っています。




6段の水切り瓦は奈半利で最も大きなものです。








敷地の周りの石塀も明治のもの。門の右側は丸石、




左側は浜石を半割りにして小口を見せたものです。





近くに高知県の天然記念物、二重柿(ふたえがき)の木がありました。




樹齢は推定100年。渋柿で、内皮と外皮の二重になっています。




森家住宅。
「土佐の交通王」と言われた実業家・野村茂久馬の元住宅で、蔵は明治中期築、主屋と東西南石塀は1918(大正7)年頃の築です。戦後は料亭が経営されていました。
主屋は入母屋、桟瓦葺、西面は下見板張り、上げ下げ窓の洋風意匠です。








東側の塀にはレンガのアーチ門があります。




野村家住宅。
主屋は1922(大正11)年頃、東と南の石塀は明治後期の築です。
藩政時代は年貢米を集める地主で、「倉床(くらとこ)」と呼ばれていました。門の中には曲線を描いた石塀があります。




元奈半利町農協の米蔵、斉藤家住宅。
1938(昭和13)年築の蔵で、昭和23年設立の奈半利町農業協同組合の倉庫として利用されていました。妻面は腰壁に下見板張り、土佐漆喰の壁に水切り瓦、明かり取り用の窓に鉄製の扉がつけられています。


土佐漆喰の町・奈半利(2)に続く。
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