ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔09 七五の読後〕 【大江戸伝馬町ヒストリー】 水原明人 三五館

2010年09月30日 | 〔09 七五の読後〕
いま読んでいる「守貞謾稿」の中に伝馬町、横山町の記述があった。
この本の参考にもなると思うので抜書きをしておく。

大伝馬一丁目、木綿太物問屋
南北両側ともに同業のみ。ただ北側に伊世屋源七と云ふ砂糖店一戸あるのみ。当町の木綿問屋は俗に男世帯と云ふものにて、毎戸婦女一人もこれなく、多くは伊勢国よりの出店なり。各巨戸なり。

横山町辺、小間物問屋
愚(守貞)按ずるに、古は高麗物をうるを「こまものや」と云ひしなるべし。
今は小間物と書くは仮字ならん。しかも今世は、諸玩物の類、紙入・たばこ入等の
囊物類、あるひはきせる等交へ売るを小間物屋と云ふ。女子髪飾の類も小間物の内なり。
( 近世風俗志(一) (守貞謾稿)  宇佐美英機校訂 岩波文庫 )
                                   2010年9月30日 記。




【大江戸伝馬町ヒストリー】水原明人 三五館


皇居から小伝馬町まで歩けば20分ほどで足りる。
本社が大手町にあって、仕事柄 小伝馬町のビルに数年通ったことがある。
江戸通りが目の前にあり、馬喰町、横山町などへ向かっていた。 この界隈の江戸のことをより知りたくて本書を読んだ。
著者は必殺シリーズも手がけた脚本家で江戸文化の講演常連者。  

● 富くじも べったら市も人の波
地下鉄駅「小伝馬町」のすぐ近くに宝田恵比寿神社がある。
十月中旬になるとここに新しい提灯が飾られ「べったら市」が開かれる。
路地に露天や野菜、花なども売られ、慶喜も好んだと言われるべったら漬けも人気もあった。
近くの馬喰町の椙森〔スギノモリ〕神社に行けば、「富塚」碑がありそれを読むと、ここでは人気の富突(富くじ)が行われていた。
この神社は落語「宿屋の富」の舞台だ。
宿代も払えない男が宿屋の亭主に富札を買わされ椙森神社にでかけ、なんと突富千両となる。
宿に戻っても興奮で震えおさまらず、布団を被って寝てしまう。
万一当たった場合には半金を手にする約束の亭主もあわてて客を起こすとその客は草履を履いて寝ていた。
という噺で、たくさんの人が演じたが小さんと柳好のが味があった気がする。
正月に日本橋七福神めぐりをしてみると両方の神社はコースのなかほどに入っていた。
江戸の人のざわめきを想像してみた。
ここ日本橋界隈は江戸の中心だったはずだ。

★ 日本橋 何里何里の名付親
お江戸日本橋という民謡があった。
このコチャエ節というのは子どもの頃によく聞いた気がする。

お江戸日本橋七つ立ち   初上り   
行列そろへてあれわいさのさ   
こちや高輪夜明の堤灯消す   コチヤエ、コチヤエ

平成の今、こののんびりしたリズムはない。
七つ立ちは払暁4時頃。
時がもう少し動けば日本橋からは、江戸城も仰げ、遠くには富士山も見えたはずだ。
あの広重が描いた絵にも、七つ立ちで橋を渡る大名行列と、河岸近い魚屋の様子がいきいきと描かれている。
日本橋は諸国からの往来もはげしいから橋の痛みも早い。
計十七回の架橋修復が行なわれたという。
その修理には千両かかったので千両橋とも言われたとのこと。
 この「日本橋」をつけた町名がいまだに残っている。東京都中央区日本橋大伝馬町もそうだ。
同様に小伝馬町、馬喰町、本町、室町、横山町なども日本橋を冠にして並んでいる。

ともあれ慶長8年(1603)にできた日本橋は五街道の始点だった。 ここを基点とした五街道の宿場数が本書にあったので備忘とする。
奥州街道 白河まで  17宿
甲州街道 下諏訪まで 44宿
東海道  京都まで  53宿
中仙道   京都まで 69宿
日光街道 日光まで  23宿
私がいた小伝馬町から日本橋までは目と鼻の距離だ。
だが、行ってみてもなんの風情もない。
皇居も富士山も見えない。
もとより空を見上げる事さえできないのだ。
橋の真上に首都高速道路が走っている。

● 大丸は小間物、風呂敷、木綿、麻
享保2年(1717)京都で開業していた大丸がこの大伝馬町に江戸店を開業した。
越後屋、白木屋の出店からみれば七、八十年の出遅れだったそうだが、その分、商品ターゲットを庶民の日用品においた。
芝居緞帳にも派手な名前を縫込み、祭りの祝儀にも大盤振舞して目立つことをする。
ここでも大丸、あそこでもと名前を売ったと本文にあった。
越後屋、白木屋は大名出入りの御用商人など大口相手に商いをしていた。
 越後屋にきぬさく音や衣替え/基角
この時期の雨の後に越後屋からは、かん高い呼び声などに混じって
試着の音などが聞こえてくる。日本橋駿河町にあった越後屋は三越の前身だ。


● きわめつけ 歳の最後の大騒ぎ
新興勢力大丸は大晦日になると夜を徹し灯りを灯し不夜城とする。
そこで、飲食の接待をしながら出血大サービスの商いを繰り広げたそうだ。

● 二十で手代 四十で番頭 それができれば暖簾分け

江州勢州は近江、伊勢を指す。
ここから12から13歳の子どもが大勢江戸へ下る。東海道を登って日本橋方面へ向かう。
これを初登りと言ったことは「古文書はこんなに面白い」(油井宏子 柏書房)で知った。
子どもたちは丁稚としてそれぞれの木綿問屋、呉服屋に奉公してた。
やがて子どもたちは国元本店の伊勢へ戻りそこで、また鍛えられる。
育った幹部候補生が江戸に戻り二十で手代、四十辺りで番頭さんになり、出来のいいのが暖簾分けとなって店を持つ。
出身地を名乗ってみんな伊勢屋になる。
だから そこらじゅうに伊勢屋ができた。
江戸に多い物「火事 喧嘩 伊勢屋 稲荷に犬の糞」という言葉は落語のまくらでもよく使われている。
白木屋に残っている文書(モンジョ)をもとに丁稚から番頭などの働きぶりを紹介したものに油井宏子さんのシリーズがある。
「江戸奉公人の心得帖―呉服商白木屋の日常」も読ませる本だ。「江戸が大好きになる古文書」はそのまんま古文書読解のテキストになるし、私もお世話になった。(注1)

● 大伝馬 南伝馬に小伝馬町
3つをあわせて三伝馬町と言ったそうだ。
ここは日本橋地域の北側に位置する。
家康からこの町の道中伝馬役を命られた人に馬込勘解由という人がいる。
この人は大伝馬町に住み名主となった。
のちに自分の娘をWilliam Adams(三浦按針)に嫁がせ、日本橋屋敷を世話してた。  
馬の扱い量の多寡から大伝馬、小伝馬の町名となったようだ。
公用のための必要な人馬を用意し、継ぎ立ての労役に従ったが、その一方では年貢の減税、各種給米の支給もあり、一般の旅人の宿泊、荷物輸送などの事業も許可を得てしっかり儲けを得ている。

● 黒塗りのうるしの壁を磨き上げ
伊勢商人たちが大伝馬町へ進出したことは見逃せない。
伊勢地方の繰綿を江戸へ運ぶ。
衣食住のうち衣は暮らしに欠かせないから木綿が反物として流通しはじめ、大伝馬町には荷受問屋がズラリ並んだ。
蔵はで黒塗りにして防火壁とする。 テカテカの黒光りした漆壁が彼らのステータスとなる。
伝馬町などの問屋町は、吉原のような嬌声も聞こえてくるはずもなく堅気一色の町。  
こうしてこの界隈に越後屋(三越前身)、白木屋、大丸の呉服屋が棟を競ったことが頷けてくる。

 小伝馬町は勤めた場所だったが、赴任1年前の1995年3月20日に地下鉄に猛毒ガス が漂った。
オウムの地下鉄サリン事件の現場ともなった。
何人かの社員があわやの思い出を語っていたことをいま思い出す。

★ いびきには国訛なし馬喰町
★ 馬喰町 人の喧嘩で蔵を建て  
小伝馬町の町続きに馬喰町がある。
子どもの頃に三船敏郎主演の「馬喰一代」という映画を見た記憶がある。
見たといっても筋書きなどはすっかり忘れているが、三船のはげしい顔と表情が妙に印象に残っている。
馬喰は博労とも書く。
馬を売買し周旋したりした町も伝馬町の変化とともに商人が集まりはじめ宿屋が集まる旅篭町になってゆく。
特に馬喰町は訴訟なども揉め事で地方から江戸に出てきた者を宿泊させた公事宿で賑わいを見せていたようだ。
それが、上に掲げた川柳になっている。
いま馬喰町や横山町は糸紐、織物、既製服 、タオル、ハンカチーフなどを売る店が多く 大伝馬町には繊維会社のビルが多い。
連綿と続いてきた江戸の町の歴史が続いている。

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