ジッタン・メモ

ジッタンは子供や孫からの呼び名。
雑読本の読後感、生活の雑感、昭和家庭史などを織り交ぜて、ぼちぼちと書いて見たい。

〔09 七五の読後〕 【人ありて 頭山満と玄洋社】井川聡 小林寛 海鳥社

2009年06月16日 | 〔09 七五の読後〕
【人ありて 頭山満と玄洋社】井川聡 小林寛 海鳥社

二十代のはじめ、友の下宿で「賃労働と資本」とかレーニンの「国家について」「国家と革命」「なにをなすべきか」などの輪読会を組織したことがある。
長時間深夜労働、ひどい労働の現場をなんとか変えたい赤い青年の一人だった。
そうした眼からは頭山満は、国家主義者であり、右翼反動のカリスマと映っていたからもとより関心の枠外にあった。  
三十代後半の頃から維新その後の近代日本を読む本に、ちょいちょい彼の名前が登場してくる。
でも巨魁だとは思ったが、まだ敬して遠い存在で近寄りがたい。 しかし、いずれは等身大の頭山人間像と向かい合ってみたかった。
このたび格好な本がみつかった。
著者の2人は九州福岡の現場を歩んできた読売新聞社会部記者。
2001年から1年余、92回にわたって紙面に連載したものを再編集したのがこの本となったとのこと。
いまから40年前のあの小倉社屋には何回か訪問したことがあった。
 西部労組の若い仲間と深夜まで議論して飲み、社に泊まったことも今となっては遠く懐かしい。

● 玄海のしぶきを受けて社は育ち
玄洋社という名前は、土地勘が働かなければわからないのではないか。
私は東京生まれの茨城育ちだからその勘が働かなかった。
玄洋とは玄界灘のことだった。
玄界灘のことを略して「玄海」とも言う。「玄海灘」は「玄界洋」とも書かれた。
 「玄洋社」の生い立ちはここにある。
波濤を越えて朝鮮半島に向かい合える距離感、感覚も関東とは違う。
福岡という地政は、玄界灘を通じて大陸へ届くたアジア主義の原点ではなかったか。
明治13年、玄洋社は社員61名で設置届け。頭山は25歳。
2年後には164人を数えた。
昭和20年6月19日、福岡に大空襲があり、貴重な孫文の文書とともに玄洋社は焼失。
 「玄洋社」を広辞苑で引くと
 「福岡藩を地盤として創立され、頭山満を中心とした国家主義的な右翼団体。1946年解散。」
との記述があるだけ。
しかし、右翼、主義者と一言で括ってしまうには惜しいというのが、この本の読後感となった。

● 城山の涙とともに釈放へ
黒田藩士の子、頭山満の生涯にとっても敬愛と崇拝の対象は西郷だったらしい。
西郷の言葉「敬天愛人」が一生を通じての座右の銘。
満が「萩の乱」関与で獄舎に繋がれた1年後に西郷率いる西南戦争が勃発。
福岡の黒田藩士500名が西南戦争に呼応して決起した。
満は獄舎にあって参加できない。
そのもどかしさ、口惜しさもあったろう。
西郷が城山で自決したその翌日に、頭山らは釈放されたという。 西郷の死は福岡の青年士族にはかりしれない追慕の念を与えた。
 出獄した頭山満の情熱が、筑前玄洋社を生み出した。

● 億兆の民という名で意を強め
中江兆民の名前由来だ。
自由民権主義者としての彼の意があり抱負が兆民の名にあったのだろう。
中江兆民は、「一年有半」という著書の中で
 「頭山満君、大人長者の風あり。且つ今の世、古の武士道を存して全き者は、独り君あるのみ。君言はずして而して知れり。蓋し機智を朴実に寓する者と謂ふべし」。 」
とべた褒めに褒めた。
 兆民は医師から余命一年半とされた食道がんを患った。
54歳で死去するがその直前に頭山は彼を見舞っている。
声帯を切り声を失っていた兆民は大喜びで彼を迎えたとあった。 玄洋社は民権運動結社としてスタートしている。
のちに頭山はアジア主義に舵をきるが、民主左翼源流の兆民と国家右翼者との交遊録は、思想の流派などを超えた人間絵模様があったことを物語っていて楽しい。

● 孫文の落とし子だった毛と蒋
1930年代から日中戦争をはさんで断続的に行なわれていた隣国の国共内戦において、その両雄だった毛沢東も蒋介石も辛亥革命を指導した孫文の落とし種としてみることができる。
清朝を打倒、共和国樹立を目指した孫文の挫折や日本亡命にあって、自分の身近で十分に守ろうとしたのが頭山満。
「有名な者は他の人が助ける。無名だからこそ自分が助ける」が彼のことば。
頭山は犬養毅とともに彼の生活費や借家を工面し支援した。 1911年、清朝が倒れ中華民国臨時政府が誕生、孫文は臨時大統領に就任している。
その後に、清政府と孫文らの間を遊泳していた袁世凱が頭角を現し、孫文は 再び 日本に再亡命。
この時も頭山は親身になって世話をした。
 「革命いまだ成らず。同士すべからく努力すべし」の遺言を残し1925年、孫文死去。58歳。
袁世凱に抗して中国共産党が誕生しやがて毛沢東の長征がはじまっていく。
 「英霊奉安祭」は1929年に南京で営まれたが頭山は 「ひつぎを載せた輿の網を引いて石段を登り、墓所の堂内に入った」と本文にあった。
 輿の網を引くところに孫文の意思を継ぐ想いもあったろうが、残念なことにこの2年後に日中戦争が勃発した。
田中角栄によっての日中国交回復まで外交関係を失った数十年の歴史がある。
2000年に上海の孫文記念館会長が来日した折
「孫文の足跡を改めてたどり、広い視野で再評価する作業に着手したところ。それには孫文と深い交わりのあった日本人について研究する必要がある。トウザン・マン(頭山満)や玄洋社についてもっと深く知りたい」と語ったと本文にあった。
双方の歴史観のなかで孫文と頭山まで遡って日中交流史の光が十分に当てられていない感じはそれでも否めない。
まだ、まだ先のことか。

● 東久邇宮が頭を下げて蒋折衝
日中戦争が泥沼化していた1941年、頭山は東久邇宮から 蒋介石との和平会談を頼まれる。
寡聞にして私はこの実話は知らず。
東久邇宮といえば宮家では最も血の繋がりが深い皇族で貫太郎さんのあとの敗戦処理内閣を組閣した人だ。
 「政府代表では蒋介石は相手にしない。あなたが一個人として会って」と伝え頭山翁は「最後の御奉公として身を賭して重慶へ」と語ったと本文にある。
このため元首相の広田広田弘毅が重臣への対策を、中野正剛が議会対策を、重慶への連絡は朝日新聞副社長の緒方竹虎が受け持ったという。
蒋介石も「頭山とならば会っても良い」の意思を伝えたが、近衛内閣が総辞職し陸軍の東条が首相になった。
そしてイクヨイッパツシンジュワンとなる12月8日の太平洋戦争開戦となる。かくて頭山と蒋介石の会談は実現しなかった。
 東条内閣打倒で失敗した衆議院議員の中野は東条の憲兵政治に追いつめられ、57歳で自刃。
遺書12通はすべて頭山に当てたものだったと本文にあった。
蒋介石は「以徳報恩」ということばを使い日本に対する賠償請求権を放棄した政治家である。
「以徳報恩」の中に頭山の顔が浮かんだかどうか。
私の母キミから蒋介石という人はエライ人なんだヨと、小学生の頃に何度か聞いたことを思い出させた一節でもあった。
日中戦争では頭山が日米戦争では吉田茂が戦争から和平への動きを模索した。
こうした昭和史を我々は知らず語らないまま、還暦を過ぎている気がする。

● 山荘で棋譜をならべて大往生
昭和19年10月4日。
頭山は好きな碁の棋譜を盤上に並べていながら卒然と去った。 89歳、先ずは、大往生というべきだろう。
囲碁棋士・秀栄のパトロンとして応援した人に大久保や犬養毅、頭山満らの名前が残っている。
戦前は大西郷にも似た英雄、豪傑として神格化され彼の生き様が芝居にもなり、彼のことばを記した書物が飛ぶように売れたという。
戦後は大陸侵略の推進者として断罪された。
だがその実像は酒を嗜まず、碁を愛した静かな人でもあった。
毎日庭に水をまけと言われて雨の日も欠かさず行ったという伝え話が当地に残っているそうだが、熱気を寡黙に包んだ真摯の一端さえ見えてくる。

● その山に集う人には流派なし
頭山という山。
その山容へ向かい親しむ多くの人々があったことをあらためて知った。
伊藤野枝、吉野作造、犬養毅、大隈重信ら。主義主張でのつながりではない。
福岡藩の藩校であった修猷館卒業生の広田弘毅や中野正剛、元自由党総裁緒方竹虎などとの彼の信頼度合いは先に触れた。
この人を右翼・左翼の教条枠でとらえることは難しい。
頭山満というのは姓名判断でもすれば卓抜な名前なのかも知れない。
その山に満ちてくる人々との昭和史とのつながりはもっと再発掘されていいのではあるまいか。

■■ ジッタン・メモ ■■
かって読んだ本の中から、頭山のことに触れたところをメモ書き。

【巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀】 佐野 真一 文芸春秋 

103頁 大正5年 大杉自叙伝   「近代思想」が財政難から廃刊の憂き目。 大杉が伊藤野枝の遠縁にあたる頭山満の線で内務大臣の後藤に金策もちかけ、後藤が了承。

【現代史の断面 2・26事件】ねず まさし 校倉書房 
                        1997年9月15日 記
神兵隊事件と十一月事件 11頁
重臣会議で岡田内閣成立 28頁
陸軍統制派の国家統制への布石 40頁
天皇機関説ほうむられる 55頁  
右翼団体が機関説撲滅同盟結成 頭山満 西田税 松岡洋右ら 著書の禁止と美濃部の自決求める

 【蘇峰とその時代】--寄せられた書簡集から-- 高野 静子
中公新書                 1989年2月14日 記  
日米開戦を失敗と考えていた松岡の頭山宛書簡 昭和17年選挙 中野正剛の推薦人 頭山、広田、三宅雪嶺ら

 【中野正剛の回想】緒形竹虎 中公文庫 2002年10月1日 記 明治44年 26歳の中野は兄事する犬養や頭山と中国へ渡っている。辛亥革命、孫文らとの交友もあった。 昭和18年、中野は自刃。凄愴を極めた。遺書は兄事していた頭山満にもあてられていた。葬儀には2万人が参加。東条に勝った。

 【革命家 北一輝】豊田 穣 講談社 
                       1997年11月29日 記
山縣の敗北に終わった宮中某重大事件 頭山、内田らがサポートした久邇宮派の勝利 フィクサーの味覚えた北。 北が中国革命に奔走できたのは、本人の主観はともかく、内田、頭山、犬養らの政治的後ろ盾や高田商会、大蔵財閥それに三井らの経済的援助があってこそ可能だった。



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1 コメント

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頭山 満は・・・ (伴睦)
2009-07-07 17:15:31
戦後右翼の礎のように言われた人物ですが、私にはそうは思えません。幕末に渦巻いた真の「攘夷」を貫き明治から大戦にかけて一貫して東アジアを欧米列強から救おうとしてきたのではないでしょうか。
新宿2丁目に「玄海」という水炊屋があります。30年程前までは先代が新宿三光町(今の丸井跡)に木造三階建の本店がありました。その先代がかって玄洋社の一員であったと聞いております。

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