集成・兵隊芸白兵

 平成21年開設の「兵隊芸白兵」というブログのリニューアル。
 旧ブログ同様、昔の話、兵隊の道の話を続行します!

霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝(プロローグ)

2016-10-02 13:41:43 | 霊魂の鐘を打つ人・杉田屋守伝
 昭和46年春、山口県立岩国高校を初の甲子園に導いた名将・岡村寿監督(当時)畢生の名著・「青春・神宮くずれ異聞」(防長新聞社)。
 その中に、岡村寿監督が岩国高校野球部員だった時の「師匠」として、杉田屋守なる人物が登場します。
 杉田屋守、という名前を聞いてすぐに「え、なんでそんなスゴイお人が、県立高校の野球部の監督なんかしてたの???」と驚愕された方は、相当な古い野球をよく知る方とお見受けします。

 杉田屋守(1908-1972)。ハワイ準州(当時)出身の日系二世。のちに山口県に根を下ろし、旧制柳井中学への転校を皮切りに、野球選手として活躍します。
 その活躍は「活躍」というレベルをはるかに超え、おそらく現在までの山口県出身野球選手の中で、最も長く、最も中央で活躍した偉人中の偉人です。

 柳井中学在学時は甲子園3回、明治神宮大会1回出場。早稲田大学進学後は、当時名実ともに日本最高峰の人気と実力を誇った東京六大学で、強打巧守の外野手として活躍。門司鉄道局・広島鉄道局では選手兼任監督として黒獅子旗を目指し、できたばかりの職業野球でも選手及び兼任監督として活躍。
 監督・指導者としても極めて慧眼であり、三原脩を指導者として見出し、広島鉄道局監督時代には平山菊二(終戦直後「塀際の魔術師」と言われた巨人の外野手)を外野にコンバートさせ、晩年は無名の高校生だった廣岡達朗(もとヤクルト・西武で日本一になった監督)を見出して早稲田に入れるなどしております。
 まさに、「豪華」の一語に尽きる球歴。
 しかし戦後はなぜか山口県岩国に引っ込み、新制柳井高校の戦後すぐの甲子園出場にちょこっと顔をのぞかせたのち、昭和25~27年度までの3年間、岩国高校野球部の指揮を執ったほかは、野球専門運動具店を経営してひっそり隠棲。昭和47年に死去するまで、中央球界に姿を見せることはありませんでした。

 杉田屋氏のことが断片的に書かれている関連書籍を一つ一つ当たり、杉田屋守氏の野球に関する姿勢を確認しますと、みな口を揃えて「きわめて敬虔なものであった」と書かれています。
 なにしろ「野球は宗教なり」とまで言い切った人です。
 その敬虔にして厳格すぎる姿勢が人を寄せ付けなかったのか、あるいは野球に対して敬虔でありすぎるあまり、自分の球歴を自慢げに話さない人であったのが災いしたのかはわかりませんが、今年で死後44年が経過した現在でも、私の知る限り、この偉人に関する評伝、伝記、通史の類はまったく存在せず、今では山口県内でも、その存在を忘れられつつあります。

 しかし、だからといって、「野球の柳井」の礎を築き上げ、山口県の野球を全国レベルに押し上げた偉大な先達を、「評伝がないからどんな人なのかもわからん」というだけ理由で忘却してしまって、果たしてよいものなのでしょうか。
 そうしたリスペクトのなさが、今の山口県野球の低迷、そして「野球の柳井」大没落の原因になっているのではないでしょうか。

 仕方がないので、文筆家でも何でもないただの中年が、少しずつ集めた資料をもとに、山口県球界最大の偉人の、ナゾがめちゃくちゃ多い人生を少しずつ明らかにしていきたいと思います。
 何しろ本人やご遺族からの聞き取りができない状態ですので、資料を並べながら推測で話す箇所も多くなると思います。
 間違いや誤解がありましたら、ぜひ諸賢のご指摘をお願いいたします。

 で、本作中、杉田屋守氏をなんと呼称しようか…いろいろ悩みました。
 「監督」を一生続けたわけでもないから監督とも呼べないし、「杉田屋氏」ではよそよそしいし…
 悩んだ挙句にいまいちど「青春・神宮くずれ異聞」を読みますと、杉田屋氏のことを「オッチャン」と呼称していました。
 オッチャン…。いい響きだ。
 というわけで本稿では以後、杉田屋守氏のことを、郷土の偉人としての限りない尊敬と、大いなる親しみを込め「オッチャン」と呼称致します。

 タイトルはオッチャンが生涯の信条としていた「グラウンドは殿堂であり、ノックの音は霊魂の鐘の音である」から引用しました。
 オッチャンは名ノッカーでもありました。

 ナゾ多きオッチャンの生涯。実像にほんの少しでも迫ることができれば幸甚です。

(第1回に続く)