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高杉晋作を訪ねて~東行庵:文学碑 in 山口県下関市吉田町

2024年03月14日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

東光庵には実に多くの歌碑・句碑・詩碑が建立奉納されています。東光庵ラストは、カメラに収める事が出来た文学碑を紹介します。スタートは2001年3月18日に建立された有名な連歌から。

(正面) 面白きこともなき世を面白く 高杉晋作
     住みなすものは心なりけり 野村望東尼

高杉晋作と野村望東尼の合作として有名な句で、病床での作と思われます。望東尼は福岡藩士の妻で夫と死別後剃髪。しかし尊皇の熱情に燃え、志士を励まし、平尾山荘に高杉晋作を匿った事から、慶応元年(1865)玄界灘の姫島に流されましたが、晋作によって救い出され、下関で晋作を看病の後、現在の防府市で没しました。

(右側面)吾すれば人もするかと思ひきに 人々そなき人の世の中

(左側面)【西へ行く人を慕ひて東行く わが心をば神や知るらむ】

    文久3年(1863)3月、剃髪し、西行法師にちなんで東行と号した時に詠んだ句。

白石正一郎(資風)歌碑【白たへに にほへる梅の花ゆえに あけゆく空もみどりなるらん】 文久3年(1863)6月8日、高杉晋作は竹崎町の白石家において奇兵隊を結成。同時に白石正一郎と弟の廉作が入隊、さらに正一郎は奇兵隊を財政的にも支えていました。歌碑の文字は「幕末の豪商志士・白石正一郎」の著者『中原雅夫』

「無隣庵の歌碑」慶応元年(1865)、山縣有朋が奇兵隊の軍監であったころ、現・下関市豊浦町の石川良平の娘友子と結婚、現在の東行庵の付近に小庵を建て無隣庵と称し、新婚生活を営んでいました。そのころ詠んだものです。【となりなき世をかくれ家のうれしきは 月と虫とにあひやとりして】碑は明治十七年五月十五日に建立、字は山縣の自筆。

「高杉春風隊長墓前作 小原六六庵:自筆」

奇兵隊長睡斯山 (奇兵隊長は斯の山に睡(ねむ)る)
明治以来悠俗寰 (明治以来(このかた)俗寰(かん)に悠(とおし))
想起當年不堪見 (当年を想い起せば見るに堪えず) 
杜鵑花発松柏間  (杜鵑(とけん)花発(ひらく)く松柏の間)
昭和41年、東行の百年祭に詣でたときの墓前の作。昭和54年、高杉晋作の113回忌に清水流東行庵吟詠会結成10周年の記念行事として建立されました。

「山中茂樹歌碑」昭和3年(1928)、30歳の時に東行庵を訪れて詠んだもの
【偉(おお)き人ここに眠るか直土(ひたつち)に 散りてひそけし松の落葉は】

『横山白虹・横山房子』句碑

梅寂し 人を笑はせをるときも 白虹】【欄(おばしま)に 尼僧と倚(よ)りぬ花菖蒲 房子】

「飯田蛇笏句碑」【松風にきゝ耳たつる火桶かな】昭和6年(1931)、木枯らしの東行庵を訪れ、紀行文「旅ゆく風詠」の中に碑文の句が残されています。句は自筆の短冊をもとにしたもので、昭和53年、東行庵の前庭に建立されました。

東光庵の文学碑・碑巡り、こうして書いていくと随分と沢山取りこぼしています。最後は「川上米男翁顕彰之碑」。長府製作所の実質的創業者で、同社の社長と会長を歴任。高杉晋作を尊敬し、東行庵の歴史と自然を愛し、東行庵に多額の浄財を寄贈した実業家と刻まれています。

訪問日:2017年12月2日

 

コメント (6)
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