車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホール in 千葉県長南町

2019年06月30日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・千葉県

長生郡長南町(ちょうなんまち)は千葉県南東部の長生地域に位置する市です。茂原市、市原市、長生郡:睦沢町、長柄町、夷隅郡:大多喜町に隣接。房総丘陵の中に位置し、平地は少なく山勝ちな地形であるため、農業用水確保用の溜池が多くあります。また町内には名水百選の「熊野の清水」が湧出し、ホタル観賞地として知られており、また「ゴルフ場」が多い事から、小湊鉄道の子会社「長南グリーン株式会社」や、伊藤園レディスゴルフトーナメントの会場として知られる「グレートアイランド倶楽部」等が盛んです。

町役場近くには町営の都市ガス事業所が設けられており、巨大なガスホルダーが見られます。「町の木:ヒノキ」「町の花:桜&紅花」「町の鳥:うぐいす」を制定。

キャッチフレーズは「自然が誇り、住むことが誇り、元気な町 長南」

明治22年(1889)、町村制の施行により、上埴生郡西村、武丘村、東村、豊栄村が発足。

1890年、武丘村が町制を施行、改称して上埴生郡庁南町が発足。

1897年、郡制の施行により、長柄郡・上埴生郡の区域をもって長生郡が発足。

1955年、庁南町、西村、東村、豊栄村が合併、長生郡長南町が発足。同年4月に、水上村深沢、笠森地区を編入、現在に至っています。

集排マンホールには、「稲穂と町章柄の袖凧」周囲には「町の花:べに花」が描かれています。

長南袖凧は「長南トンビ」とも呼ばれ、江戸時代の享保年間に製作したのが始まりとされます。 東上総地方に伝わる特徴的な形の凧で、「いすみ市」の庁舎には市章つきの袖凧が飾られていました。

町役場周辺には、無印の規格蓋だけで、一般的な町章付きの規格マンホールは有りません。

昭和45年6月1日制定の町章は【「長ナン」をデザインの基本として、特に「ナン」は4ヶ町村合併(庁南町、豊栄村、東村、西村)表し、4本の力強い線で結びつけ、中央の空間は大きな理想と希望と限りない発展をイメージさせています。】公式HPより

「長福寿寺」の境内付近で見つけた「消火栓」「防火水槽」

上水道関連の蓋は「長生郡市広域市町村圏組合」の知章の「制水弁」と「空気弁」

長南町の町章がついた「ガス」「中圧バルブ」「PEバルブ」「ガス(ハンドホール)」。 長南町では、当町と睦沢町を供給区域として、町営の都市ガス事業が行なわれています。

「ガス水取器」ハンドホール、下に自治体名。

上下に「ガス TB(ターミナルボックス)」の文字があるハンドホール。

長南町マスコットキャラクター『ちょな丸』。顔は「蓮根」、ちょんまげは「しいたけ」、胸には「紅花」の家紋入りの着物。袖口は「枝豆」柄の模様で、長南凧のように風に乗って空からみんなを見守っている男の子です。

撮影日:2014年5月22日&2019年3月9日

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茂原市内~あちこちウォッチ in 千葉県茂原市

2019年06月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

茂原市上永吉・八幡湖から程近い場所に、1993年に茂原市指定文化財に指定された「千葉眼科記念館」があります。

【明治23年『千葉天夢』は、帝国大学医科大学全科を卒業、翌年の24年に同村大工『中山栄吉、国三郎』兄弟に、駿河台の井上眼科、その他の医院を見学させ、それに準じた洋風一部和風の「千葉眼科医院」を建設させた。延床面積26坪、白い壁をもつ2階建西洋建造物である。】茂原市HPより

今よりももっと山の多かった地方において、裏山を背景に立つ「千葉眼科医院」の瀟洒な白い建物は、ひときわ目だって見えたことでしょう。

医院に並ぶ建物は、母屋にあたる場所でしょうか?建物越しに「屋敷稲荷」の立派な鳥居とお社が見えます。

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市役所の一画の石碑の前に、白い円筒形の「方位盤」が置かれています。碑文は「躍進著しい茂原市に 住む人訪れる人故郷を思い出す 原点、そして茂原市の未来に夢を託して仲と行く原点としたい」・・・・う~~~ん、今一つ、方位盤と言葉の意味とが一致しません😓

約300年前から伝わる伝統的民芸品「鯛ちょうちん」は、神前に鯛を供える風習が起源と言われています。

館内に展示されていた大きな「鯛ちょうちん」には車輪がつけられているので、もしかしたらお祭用の山車かもしれません。

訪問日:2019年3月9日

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橘樹(たちばな)神社~其の二 in 千葉県茂原市

2019年06月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

境内を入って参道の左手、凛々しい印象の「騎馬武者」の像が奉納されています。 鎧・兜のいでたちから考えて『日本武尊』では有り得ませんが、それでは一体誰なんでしょう??

鳥居の内より最初の神域を守護されるのは、丸っこい体が何とも親近感を感じさせる江戸流れ狛犬さん。 台座に「東京市」の文字があるので、東京市になった明治22年以降から、東京都になる昭和18年迄の奉納と思われます。

本殿近くに据えられていた「手水鉢」には御神紋の「橘」。寛延元年(1748)の奉納で、現在は使われていません。

参道左手には「末社:秋葉神社」。天正年間の勧請で『伊弉冉命、火産霊命』をご祭神とします。

秋葉神社の木鼻には、守護を担うにはいささか気の弱そうな顔立ちの唐獅子さん、いまにも大粒の涙がこぼれてきそうな・・・でも好みの顔立ちです。

「吾妻池」の対岸に鎮座される「末社:粟嶋神社」。文禄年間の勧請で、『少彦名命』をご祭神とします。

並んだ三つの鳥居、左から「末社:稲荷神社」、ご祭神は『保食命』で創建以来この地に鎮座されています。

中央に「末社:子安神社」『木花開耶媛命』をご祭神とし、永禄年間に勧請されました。

右側「末社:窟戸神社」『天手力雄命』をご祭神とし、15世紀中頃の『黒熊大膳亮景吉』の居城であった「本納城」の落城とともに遷座されました。

【古文書の一つに、「寛政12年(1800年)11月、社殿改造のため墳丘を削ったところ、甑(こしき)、壷、鉄器」が出てきた。その中の「大きな壷は遺品を納めたものと考えすべて地中に埋め戻した」と記される。】まるごとe千葉より 『弟橘比売命』の御陵とされる古墳は、「宮ノ下遺跡」として、市指定の史跡となっています。

神社の入り口に咲いていた満開の河津桜、その美しさはそのまま『弟橘比売命』の姿に重なり、神話の昔に存在した悲しく強い絆を思い起こさせます。

参拝日:2019年3月9日

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橘樹(たちばな)神社~其の一 in 千葉県茂原市

2019年06月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

茂原市本納に鎮座される「橘樹(たちばな)神社」。式内社で上総国二宮、御神紋は「橘」

御祭神は『弟橘比売命(おとたちばなひめのみこと) 』。相殿に『日本武尊・忍山宿禰(おしやまのすくね)』。 おそらく、この項が初登場と思われる『忍山宿禰(穂積忍山宿禰)』ですが、『弟橘媛』の父とされる方。寛政12年(1800)造営の「社殿」は、本殿、幣殿、拝殿ともに、銅板葺神明造。 拝殿屋根に見られる千木は、女神が祀られている事を示す内削ぎ。鰹木は7本で男神を表します。

社伝では【日本武尊が東征した際、相模から上総へ渡ろうとした時に海上で暴風に遭った。弟橘媛が海に身を投じて日本武尊の難を救ったことから、日本武尊が弟橘媛の御陵を作り、弟橘媛の櫛を納めて、橘の木を植えて祀ったのに始まると伝える。】 また『古事記』には【「七日の後、その后の櫛海辺に依りき。すなはちその櫛を取りて御陵を作り治め置きき。】と記されています。

入水を決めた弟橘比売が、その最期を前に日本武尊に残した歌はあまりに有名で、そらんじられるほどですが、何ど聞いても切なく、胸を打たれます。

【さねさし 相模の小野に燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも】(相模の野原、燃えさかる火の中に立ちながらも、貴方は私を気遣って声をかけて下さった。 お別れです・・愛しい貴方よ・・)

神社の絵馬には、相模の野中で焼き討ちにあった故事と、その時の二人の姿が描かれています。

本殿の背後には「弟橘比売命御陵」とされる古墳があり、神域の中に橘の木が植えられています。 頼りない私の足ではそこまで行くのは無理と判断し、下から手を合わせるにとどめました🙏🙏

上総國に上陸した『日本武尊』は、入水した『弟橘媛』を思って「吾妻はや!」と嘆き悲しんだと云います。 境内の「吾妻池」はその故事に因んで名づけられたそうですが、一説には墳墓を掘った跡とも伝えられています。

拝殿前から神域を守護されるのは、すっきりとした江戸流れ狛犬さん。それぞれに仔狛と鞠を持っています。 台座からお尻半分落ちかけた仔狛は、親狛の手に必死でしがみつき、よじ登ろうとしているように見えます。

その様子を見守る吽形さんの手には、仔狛に負けないほど大きな鞠、鞠には長い紐がついています。

拝殿の更に近くにも一対いますが、阿形さんのお顔は何らかの事情で、そぎ落ちていました。 それでも境内の片隅ではなく、拝殿の間近で神域の守護を任されている姿には心が温まります。

狛犬に話しかける私の側では、きれいな毛並みの黒猫さんが何の警戒心も無い顔で足元にすり寄り歓迎してくれました。 社務所のガラス戸の中にも白黒の可愛い猫さんの姿が見えたし、きっとこちらの猫さんでしょう。

境内には、鳥居の直ぐ内にも一対の狛犬さんと、幾つかの末社が祀られていますが、続きは明日に。

参拝日:2019年3月9日

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常在山・藻原(そうげん)寺~其の二 in 千葉県茂原市

2019年06月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

「藻原寺」と言うと、どうしてもコンクリート製の白い多宝塔式山門がクローズアップされますが、実は、仏堂や書院に近い位置には「日蓮宗本山:藻原寺」と記された「総門」があるのです。

この総門から大堂へと向かう途中に「仏殿」があり、奥には小規模ですが池泉式の庭もあります。

「仏殿」には、南北朝時代に造立された『釈迦如来座像・多宝如来座像』がお祀りされているそうですが、拝観が可能かどうかはわかりません。

更に進むと、美しいお姿の「子育て観音」。その後ろに朱塗りの「鐘楼堂」が見えてきます。 この「鐘楼堂」、貞享4年(1688)建立だそうですが、とても年代を感じさせない鮮やかさ。

『伊八』の彫刻目当てで来た私が言うのも何ですが😅・・・。「大堂」の彫刻と言えば『伊八』だけに注目が集まりますが、それ以外の彫刻も実は素晴らしいのです。 唐門の向拝の持ち送り部分、満開の梅(違うかも)の木に遊ぶ雉の一対。

そしてこれはもう定型文になりそうな「木鼻彫刻の唐獅子」、その精悍な表情に魅了されます。 阿形はわずかに口を開き、吽形はしっかりと口を閉じて、参道の参拝者を見下ろしています。

二対の木鼻の唐獅子は、見つめている視線に対して確実に静かな笑みを送り返してくれます。 それは多分、私がこの唐獅子さんに対して持った感情がそのまま返ってくるからかもしれません。

大堂の少し奥まった場所に立たれる「釈迦如来立像」は、元禄4年(1691)造立と云われています。 胴部で継ぎ合わせた像は合掌印を結んでおり、通常、説法印とする釈迦如来には珍しい印相と言えます。 丈六の丸彫立像は、市内に現存する石仏中最大のものであり、市文化財の指定を受けています。

先に紹介した総門の手前の広場に、巨大な『日蓮大聖人』の肩から上の御像が置かれています。 説明では、本堂裏山に台座を入れて高さ32メートルの『日蓮大聖人』の大銅像が建立されるとか。 諸般の事情で、当初の建立には間に合わなかった為、こうして自ら参拝客を出迎えておられます。

完成は日蓮聖人の生誕八百年にあたる、2021年を予定しているとあり、浄財を募っておられました。 こちらは十分の一の大きさですが、このお姿で裏山に立たれたら、迫力満点でしょうね。

参拝日:2019年3月9日

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常在山・藻原(そうげん)寺~其の一 in 千葉県茂原市

2019年06月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

茂原市茂原に門を構える「常在山・藻原(そうげん)寺」。身延山の系統で「東身延」と称されます。 高さ25mの山門は、昭和8年(1933)建造のコンクリート製多宝塔形式で、市のランドマーク的存在。

コンクリート製の超近代的な総門ですが、両脇にはちゃんと仁王様が境内全域の守護を担って屹立しておられます。

【創建は建治2年(1276)、藻原の豪族、齋藤氏の一族『須田次郎時忠』が『日蓮上人』を自邸に招き、帰依して邸内に一小堂を建立したのが初めとされます。】境内案内より。 176坪を有する大堂(祖師堂)には、開山『日蓮大聖人・生身の尊像』がお祀りされています。

唐門には、波の伊八こと『二代目:武志伊八郎信常』の彫刻(市指定有形文化財)があり、実のところはこちらが参拝目的のメインに近いかも・・😅『伊八』の名を天下に知らしめた向拝虹梁の「波と龍」。流石は「伊八の波」と唸らされます。

専門的な知識や説明が無くともこれだけの数を見ていけば、『伊八』の彫刻に関しては「もしや」と思うようになりました。それはやはり、『伊八』の技量が、飛びぬけて素晴らしいと言う証明なのかもしれません。

伊八の作では有りませんが、破風には瑞雲の中を軽やかに舞う「鳳凰」の姿。大きく広げた羽の一枚ごとに風の音が聞こえそうです。

手水舎横の石段の先「華経(かけ)殿」には、寺の守護神『華経房日徳尊儀』が安置されています。 華経房は天狗の姿で現われて当山の守護を誓ったとされており、法華信行の人々を救う守護神と伝えられています。

そしてその境内を守護されるのは、建立年不明の、とてもスマートな江戸流れの狛犬さん一対。 精悍な顔つきですが、じっと見つめていると、不思議なほど心が穏やかに優しくなるようです。

吽形さんは何があったのか、自らの長い鬣を口にくわえて、じっと参道を見つめています。 時折、手に持った鞠の紐をくわえている狛犬さんを見る事はありますが、自分の鬣は珍しい。

「藻原寺」の広い境内、まだま紹介したい場所は尽きませんが、長くなるので続きは明日。

参拝日:2019年3月9日

コメント (2)
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ご当地マンホール in 千葉県茂原市

2019年06月24日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・千葉県

茂原市(もばらし)は千葉県東部中央、長生地域に位置する市です。千葉市、市原市、大網白里市、長生郡長柄町、睦沢町、長南町、白子町、長生村に隣接。明治24年(1891)、大多喜町において醤油醸造業者『山崎屋太田卯八郎』によって南関東ガス田が発見された事により、近代産業が発展。南関東ガス田としての天然ガス可採埋蔵量は3,685億m³、千葉県全体としての生産量は世界全体の約40%を占めており、茂原市の天然ガス埋蔵量は約1,000億m³。これは年間生産量に換算し600年分であり、天然ガス生産量日本一の資源都市として知られています。地名は、平安時代に『藤原黒麻呂』によって拓かれた「藻原荘園」に由来。「市の木:ツツジ」「市の花:コスモス」を制定。

7月の最終金・土・日曜の三日間に渡って開催される「茂原七夕まつり」は関東三大七夕祭りの一つとして知られており、毎年80万人以上の観客が訪れるといわれています。

キャッチフレーズは「育てよう!笑顔と自然と文化のまちを  まもり・そだて・つたえよう 人・自然・文化のかがやき」

明治22年(1889)、町村制の施行により、長柄郡茂原町・東郷村・豊田村・二宮本郷村・上埴生郡鶴枝村・五郷村・帆丘(ほのおか)町・新治村・豊岡村が発足。

1897年、郡制の施行により、長柄郡・上埴生郡の区域をもって長生郡が発足。

1906年、長生郡帆丘町が本納町に改称。

1952年、長生郡茂原町、東郷村、豊田村、二宮本郷村、鶴枝村、五郷村が合併、茂原市が発足。

1953年、本納町と新治村が合併、長生郡本納町が発足。

1956年、本納町と豊岡村が合併、長生郡本納町が発足。

1972年、茂原市が長生郡本納町と合併、あらためて茂原市が発足。

1995年、茂原市が長生郡睦沢町川島目黒地区を編入、現在にいたっています。

マンホールには、「市の木・ツツジ」が描かれています。

集排のマンホールには市の花ではなく、何故か「あやめ」が描かれています。 このデザイン・・他の自治体でも見た気がします

昭和47年5月1日制定の市章は、【茂原市の頭文字「も」を図案化したもの。力強い円の交錯は、人の和、産業. の和、自然の和を意味し、茂原市の力. 強い円満な姿を表現しています。】市HPより

上水道関連は「長生郡市広域市町村圏組合章」のあるバタフライ弁・制水弁、無印の防火貯水槽。

茂原市に本社を置く「関東天然瓦斯開発株式会社」の社章がついた「かん水」マンホール。 明治中期に発見された天然ガスからの「ヨード(ヨウ素)」生産量は、茂原市が日本一です。

同じく茂原市に本社を置く「大多喜ガス」の、サイズ的に珍しいマンホールと小型の蓋。

土中の金属構造物に電流を流して電位を操作する「電防(電気防食)」の蓋。

七夕飾りや天の川が線描きされた金属製のプレートは「茂原七夕まつり」。 異なる年に見つけたので、商店街によって柄が異なるのか入れ替えて変わったのか不明。

「茂原七夕まつり」は関東三大七夕祭りの一つで、関東地方の夏祭りとしては有数の規模を誇ります。

茂原市マスコットキャラクター『モバりん』。頭は星、髪の毛は天の川で、髪飾りは織姫と彦星、竹笹には鯛ちょうちん。 茂原七夕まつりのマスコットとして誕生。モバラ―星からやって来た宇宙人で、茂原市を盛り上げるためなら何でもやってくれるそうです。

撮影日:2014年5月22日&2019年3月9日

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一松(ひとつまつ)神社~其の二 in 千葉県長生村

2019年06月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

昨日、ホンの一部分だけを切り取って紹介した「一松神社」の社殿彫刻。今回は更に詳細に。

向背の上、肩に心柱を乗せ、両足を踏ん張る「力神」。その顔に浮かぶのは快心の笑みか😊

力神の下の唐獅子は、何故か長い布を口に銜えたまま、後ろに続く何かを待っているようです。 「布」と形容しましたが、全く別の何かかもしれません・・それにしても不思議な構図。

神社彫刻と言えば何と言っても木鼻の唐獅子、例えて言うなら舞台装飾の重要ポイント😄 添えられた牡丹の花は見事に咲き誇り、精悍な獅子の姿に、文字通り「花を添えて」います。

神社彫刻としては目立たない「虹梁」ですが、浮き上がって咲く花も、一つの木から彫刻されたもの。

「手挟み(たばさみ)」には、こぼれんばかりの菊の花で隙間無く埋め尽くされています。

壁部分の彫刻で、これは牡丹に唐獅子ですが、花の中に埋もれた獅子は何をしているんでしょう?

「波に(多分)鯉」、 もう一枚もやはり「波」ですが、波の中には何もいないみたい

水草の間をゆっくりと進むのは「鷺」かな?上げた細い足の爪までもが鮮明。

長い葉を持つ草の下に身を潜めるのは「白兎」。色が無いのに何故か「白兎」だと思えるのが凄いですよね。

宮彫刻と言えば○○だ、いや△△流の□□こそが日本一の宮彫師だと、一般に言われています。 もちろん、後世に名を残した人の寺社彫刻は、一級品の芸術と呼ぶにふさわしいものばかりです。 けれど、名を残す事無く歴史の彼方に去っていった宮彫士たちの彫刻がそれらに劣るとは思いません。 見て感動した時点で、その彫刻は私にとって一級品の価値を持ち、心に深く残されていきます。 

最期は、九十九里浜での沿岸漁業を中心に発展してきた、長生村らしい「大漁絵馬」。こちらは複製のようで、「白浜海洋美術館」に現物が保存展示されているそうです😄

参拝日:2019年3月9日

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一松(ひとつまつ)神社~其の一 in 千葉県長生村

2019年06月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

長生村一松丙、県道123号線沿いの三角地に鎮座される「一松(ひとつまつ)神社」。 御祭神は『高皇産靈尊(たかみむすびのみこと)、神皇三靈尊(かみむすびのみこと))、建御名方命(たけみなかたのみこと)』

一の鳥居から二の鳥居へ、若草の優しい緑を見ながら歩く境内は、とても清々しく、心地よい気分にさせてくれます。

由緒「もと「第六天、諏訪両社」といい、「第六天神」は寛治2年(1088)の創建と伝えられ、天正の末年ごろ、「諏訪神社」を合祀したといわれます。社殿は、慶長 19年(1614)11月再建し、延宝のころから『地頭:内藤式部小輔正勝』の守護あつく、寛保元年(1741)9月、内藤下総守大願主となり、『神官:狩野播磨守保信』のとき、社殿を造営しました。大工棟梁は一松の『長左衛門』、屋根棟梁は江戸の『一左衛門』でした。」

ご本殿の屋根に見えた御神紋は「上諏訪梶の葉紋」。かっての諏訪社の名残と思われます。

文化の初頭に拝殿、幣殿を消失。現在の拝殿、幣殿は、文政2年(1819)9月の再建。

千鳥破風つき権現造りの拝殿の懸魚には羽を広げる「翼龍」。四神龍の中心にされる黄龍で、高みから神域を守護されます。

向拝には「力神」を始めとした精巧な彫刻が沢山見られ、一つ一つが素晴らしい作品ばかり。 かなりの数があり、どれをとっても外せない作品ばかりだったので、明日まとめての紹介で。

拝殿内に奉納されていた絵馬は「伊勢詣道中記」で、長生村の有形文化財に指定。 長生村文化財マップに「この絵馬は、全国的飢饉にあえいだ天保 7(1836)年一松郷内の人々、驚村東間茂左衛門ほか17人が、「伊勢皇太神宮」に詣で、道中つつがなく帰村し、報恩感謝の心をもって、遊歴の『絵師:春渓』に、道中姿を板に描かせ、九月、「第六天、諏訪両社(一松神社)」へ奉納した小絵馬である。。幕末のころ、国学が盛んとなり、『平田篤胤』に国学、神道を学んだ、『神官:狩野伊豆守保村』の教化であろうか。五穀豊穣、家内安全を祈ったのであろう。時代世相を反映し、旅装束の手甲、脚絆、紺の股引き、すげ笠は、その頃の風俗を知る上で、歴史的絵馬として貴重である。」

拝殿前より神域を守護されるのは、大正9年(1920)11月建立の江戸流れっぽい狛犬さん一対。 流れ独特の尾ではありませんが、それは多分に彫が浅いと感じた所為かもしれません。

顔立ちがとても人懐こそうに見えるのは、なんとなく太ましい😅四肢のせいかも。 コロンと丸っこい体は、我が家で帰りを待つ愛猫に似て、思わずその背を撫でてやりたい気持ちにさせます。

境内の一画にある小さな建物には、一松神社の神占い「御的神事」の的が立て掛けられています。 この「御的神事」が最初に行われたのは、天文3年(1534)正月4日といわれており、それは今も途絶えることなく現在に至っています。

【和紙28枚を張り合わせて作った直径90センチのお的には、白と黒の六重の丸を描いたものを3 本の竹で支えます。弓を射るのは神主で、お的を15メートルくらいのところから射ます。第1の矢は、この年の吉凶(神の矢)、第2の矢は、早生稲の豊凶(早生の矢)、第3の矢は(中生の矢)、第4の矢は、晩生稲の豊凶(晩生の矢)。これらの神占により作柄を予想して種蒔きをします。神社の年の初めに行われる神事の一つで、現在もそれぞれの子孫が受け継いでいます。】境内案内より

参道の途中には、祖国を守って殉じられた長生村の方々の「忠魂碑」が建立されています🙏🙏

参拝日:2019年3月9日

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一松山(いっしょうざん)本興寺(ほんこうじ) in 千葉県長生村

2019年06月21日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

長生村一松丙に門を構える「一松山:本興寺(いっしょうざん:ほんこうじ)」「本門八品上行所伝(ほんもんはっぽんじょうぎょうしょでん)・南無妙法蓮華経」を本尊とします。 難しい言葉ですが、「本門八品上行所伝」と言うのは、本来の宗祖のお題目である事を明確にする為の但し書きの意味だと、教授いただきました。

「当地域は元々真言宗であったと伝えられていますが、大本山鷲山寺第八世『日幡(にちばん)上人』の折伏により、永正十五年(1518)四月二十八日、法華宗に帰信し一カ寺を建立、一松山本興寺と称す。当山より南方に向かい、蓮華院・久成院・雲照坊・常住坊・善立坊・慈雲坊の六坊がありましたが、現存するのは蓮華院・久成院の二院のみである。」

現在の本堂は昭和八年(1933)の建立。お寺の本堂としては珍しい、奥行のある合掌造りとなっています。かってはここで寺子屋が開かれていたとか、そう言われれば何となく納得できる佇まいです。

特定の宗派も持たず、特に信心深くも無い私たちがここに来たのは、実は、ある「碑」を見せて頂く為でした。 元禄16年(1703)11月23日深夜2時、房総半島南端、千葉県の野島崎付近を震源地として、マグニチュード7.9から8.5と推定される巨大地震が関東地方を襲いました。この地震によって相模灘から房総半島は津波の被害に見舞われ、九十九里浜では海岸から5Km程度内陸まで到達。現在の白子町では1000人、長生村では900人を越える犠牲者があったと伝えられています。 その津波の犠牲となった長生村の人たちの供養碑が、本興寺あると知りました。 決して興味本位ではないとは言え、宗派も無い私たちが訪ねるのはどうなのか・・・迷いもありました。 それでも、見えない力につき動かされるような気持ちで、早朝の本興寺墓地にお参りさせて頂きました。

「津波供養碑」は、総高124㎝、幅50㎝、厚さ21㎝とかなり大きく、頭部は山型とした代表的な板状供養碑。一松卿初崎村浦の名主『東条市郎右衛門』が、一族の水死者の冥福を祈って建立したもの、碑には多くの子供を含む十八人の法名が刻まれ、また碑の裏には、津波の状況が刻されているとあります。 案内に記された文字を読み進むうちに、合わせた手が振るえ、文字はにじんでそれ以上読めなくなりました。そこに刻まれた言葉は、まさしく血を吐くような・・・あまりにも辛く痛ましい事実。
「維元禄十六年十一月二十二日夜、当国一松において大地震あり、尋いで大波揚る。 嗚呼天なるか。民屋流され、牛馬斃亡す。人は幾千萬たるを知らず・・・。」

固く閉じた目の奥に、真っ暗な波に呑まれる幼子の手が浮かび、その手を必死に捉えようともがく母の手が見えます。波は無慈悲に親子を引き裂き、夫婦を引き裂き、兄弟・姉妹を引き裂き・・・・・

思わず目を閉じ、浮かんできた強い悲しみを振り払うように、握り締めた手をゆっくりと開き・・ そしてもう一度手を合わせ、ただただ、御霊たちの安らかである事を祈って頭を垂れました。

そんな時、笑顔がきれいな剃髪の青年(後に副住職様と知りました)にお声をかけられました。 ここにきた経緯を尋ねられ、私達が津波被害者の縁者で無い事を知ると、本堂須弥壇に安置されている「元禄津波水死者大位牌」の前に、案内して下さったのです。

美しい香華の向こうには、約七百名の法号(戒名)を全て刻んだ三枚重ねの大位牌がありました。 その巨大さこそが、犠牲になられた人々の数だけの無念さであることが胸に突き刺さります。 頭をたれ瞑目する額に、かすかな炎のゆらぎが感じられました。

お参りの後には大奥様も交えてのご接待を頂き、また元禄津波の詳しいお話も伺う事ができました。何よりも温かく感じたのは、お話が過去の悲しみだけでなく、副住職様がお婿様である事や、それにまつわる思わずクスッと笑うエピソードなどをお話して下さった事。しかも宗派を持たない事に一切触れず、ただ親切に優しく温かく接して頂いた事。こんなにも温かい御接待を頂いた事、生涯忘れる事はありません🙏🙏

 今から316年前、この村を襲った大津波は多くの人々の命を奪い、その惨状は目を覆うものであったこと。 被害はこの長生村だけではなく、太平洋側に面した日本の各所に及んだとこと。 さらに厳寒の真夜中、津波から奇跡的に生還したものに襲いかかったのは、凍死という残酷さ・・ 打ち上げられた死者には、生きる手立てを知らぬ幼子、それを追った女たちの姿が多くあったとも・・ 今に生きる私にできる事は、失われた多くの命の・・今は安らかであるようにと、手を合わせる事だけです。

参拝日:2019年3月9日

文中に使用させていただいた大位牌の画像は、副住職様より頂いた冊子からお借りしました。 記録として淡々と記された内容であるにもかかわらず、いつも途中で胸が詰まって読み進めなくなります(合掌)

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