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高杉晋作を訪ねて~東行庵(とうぎょうあん) in 山口県下関市吉田町

2024年03月12日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・山口県

下関市吉田町の一画に残る「奇兵隊陣屋跡」

文久3年(1863)、高杉晋作らの発案によって組織された「長州奇兵隊」。慶応元年(1865)に拠点を吉田に移した奇兵隊が、慶応3年(1867)8月から明治2年(1869)11月の解散まで陣屋(本陣)を置いた所。当時の堤防が僅かに名残を留めています。

私たちがこれから訪ねるのは功山寺の末寺でもある「史跡・高杉晋作墓所: 東行庵(とうぎょうあん) 」

幕末維新の志士 高杉晋作の慰霊の地「曹洞宗清水山(せいすいざん):東行庵」。山陽花の寺二十四ケ寺第8番札所。『白衣観音菩薩』を本尊とします。

「維新の革命児・高杉晋作の霊位礼拝堂として明治17年(1884)に創建。初代庵主となったのは、高杉晋作の愛妾おうの。晋作の死後、明治14年(1881)に永平寺の貫主から得度を受け「梅処(ばいしょ)」と称して晋作の菩提を弔うことを余生としたと伝えられ、今もその法灯は受け継がれています。
当初は山縣有朋所有の建物「無隣庵」をあてていましたが、旧藩主毛利元昭・伊藤博文・井上馨等の寄付で、新たに「東行庵」として建てられ現在に至ります。庵内の仏壇には高杉晋作と共に山縣有朋の位牌も安置されています。」
公式HPより

高杉晋作(東行)詩碑:元治元年(1864)晋作24歳、晩秋の作(自筆)

題焦心録 焦心録に題す。
内憂外患迫吾州(内憂外患吾が州に迫る)
正是邦家存亡秋(正に是れ邦家存亡の秋)
将立回天回運策(将に回天回運の策を立てんとす)
捨親捨子亦何悲(親を捨て子を捨つる亦何ぞ悲しまん)

「横山健堂顕彰碑」大正時代を中心に活躍した評論家で、功山寺にある「高杉晋作回天義挙之所の碑」を揮毫した人物。

「日露戦役凱旋紀念碑」:題字『山縣有朋』

「時山尚八手植えの樫(かしのき)」明治元年、奇兵隊参謀として北越に出征する時ここに植えたもの。

東光会館

境内に建立された「高杉晋作像」。

台座の下に「平成26年7月19日 東光庵来所記念 第96代内閣総理大臣・安倍晋三」のプレート。

長門国萩城下菊屋横丁に長州藩士・高杉小忠太・みちの長男として生まれる。安政4年(1457)、吉田松陰主宰の松下村塾に入り、安政5年に藩命で江戸へ遊学、昌平坂学問所などで学ぶ。文久2年(1862)、幕府使節随行員として長崎から中国の上海へ渡航。その後尊攘運動に加わり、江戸・京師において勤皇・破約攘夷の宣伝活動を展開。文久3年、身分に因らない志願兵による奇兵隊を結成。第二次長州征伐では海軍総督として丙寅丸に乗り込み、周防大島沖に停泊する幕府艦隊を退け、周防大島を奪還。小倉方面の戦闘指揮では、軍艦で門司・田ノ浦の沿岸を砲撃、幕軍の砲台、火薬庫を破壊し幕府軍を敗走に追いやる。

慶応3年(1867)肺結核のため桜山で療養生活を余儀なくされ、4月14日、江戸幕府の終了を確信しながらも大政奉還を見ずしてこの世を去る・・享年27歳。

参拝日:2017年12月2日

 

コメント (2)
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