車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

楠公史跡・檜尾山:観心寺 in 大阪府河内長野市

2023年03月31日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

大阪府河内長野市寺元に門を構える、高野山真言宗の遺跡本山の寺院「檜尾山:観心寺(ひのおさん:かんしんじ)」。国宝である『如意輪観音』を本尊とします。出迎えてくれる山門は万治2年(1659)の再建(大阪府指定有形文化財)

山門近く・・楠公史跡を巡ってここまで来た私たちを出迎えてくれたのは、雄々しく鐙を踏む楠木正成公騎馬像。

「観心寺は、文武天皇の大宝元年(701年)、役小角によって開かれ、初め雲心寺とよばれていた。 その後、平安時代の初め大同三年(808年)に弘法大師空海が当寺を訪ねられた時、境内に北斗七星を勧請され、弘仁六年(815年) 衆生の除厄のために本尊如意輪観音菩薩を刻まれて寺号を観心寺と改称される。 弘法大師は当寺を道興大師実恵に附属され、実恵は淳和天皇から伽藍建立を拝命して、その弟子真紹とともに天長四年(827年)より 造営工事に着手された。 以後、当時は国家安泰と厄除の祈願寺として、また高野山と奈良・京都の中宿として発展する。」公式HPより

本堂(国宝)は南北朝時代、正平年間(1346 ~1370)の建立。桁行七間、梁間七間、入母屋造、本瓦葺き。和様と禅宗様の要素が混淆した折衷様仏堂の代表例である。朱塗の柱に白い漆喰壁の外観は和様の要素であるが、扉は禅宗様の桟唐戸を用いる。堂正面は七間のうち中央五間を桟唐戸、両端の各一間を和様の連子窓とする。」Wikipediaより

修行大師像と、弘法大師礼拝石

「楠木正成公:御首塚」。延元3年、湊川の戦で敗れた楠木正成は、弟の正孝と刺し違えて自刃。正成の首級は京都の六条河原で梟首(きょうしゅ)された後、足利尊氏の命により観心寺に届けられ、この地に祀られました。

首塚の前に建てられた石碑に刻まれるのは、楠公自筆「非理法権天(ひりほうけんてん)」。江戸時代中期の故実家・『伊勢貞丈』はその意味をこのように述べています。「無理(非)は道理(理)に劣位し、道理は法式(法)に劣位し、法式は権威(権)に劣位し、権威は天道(天)に劣位する(非は理に勝たず、理は法に勝たず、法は権に勝たず、権は天に勝たず)

道興大師御廟。 讃岐国の出身で空海の十大弟子の一人である『実慧(じちえ)』。天長4年(827)に観心寺を創建。檜尾僧都・道興大師とも称され、初代東寺長者とされています。

「建掛(たてかけ)塔(重要文化財)」は、楠木正成の祈願により三重塔として建設されたものですが、湊川の戦いで正成が討死した為、初重だけとなり仏堂として改築されました。現在あるのは文亀2年(1502)に再建されたものです。

「開山堂:本願堂(大阪府指定有形文化財)」は、正保3年(1646)の再建。

「訶梨帝母(かりていも)天堂:鎮守堂(重要文化財)」は、天文18年(1549)の再建。「訶梨帝母」では馴染みが薄いですが、「鬼子母神」と言えば判り易いかもしれません。

鮮やかな緑の一帯は、後村上天皇が正平14年(1359)から約10ヶ月の間、行在所とした旧惣持院跡。緑に包まれるように「後村上天皇旧蹟」の碑が建てられています。

観心寺境内の奥深くには、「後村上天皇:桧尾陵(ひのおのみささぎ)」が、静かに鎮まっておられます。後醍醐天皇の皇子で第九十七代天皇。住吉大社で没した後、縁のこの地に陵が造られました。

「弁天堂」

観心寺の支院「中院」は楠木一族の菩提寺であり、内には『楠公学問所 中院』の碑が立てられています。案内に「正成は8歳から15歳までここで、僧の龍覚(りゅうかく)から学んだと伝わっています。」

「拝楠公家」と刻まれた碑に見送られて・・・

遠い昔、自らの義に殉じた武将の物語は、この首塚に詣でる事で最後となります。ここから先に訪ねるのは、「楠 正行(まさつら)公」を始めとした人たち縁の地。雄々しく美しい正成公に見送られ、次なる楠公史跡を訪ねるべく、河内長野の地を後にしました。

参拝日:2008年6月7日

 

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ご当地マンホールとマンホールカード in 大阪府河内長野市

2023年03月30日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・大阪府

河内長野市(かわちながのし)は大阪府の南河内地域に位置し、南の和泉山脈を挟んで奈良県と和歌山県に接しています。南部の山麓地域は奥河内という名称が使われ、滝畑四十八滝や岩湧山などの大自然、観心寺や金剛寺、高野街道などの歴史的価値のある史跡や建造物が残り、国宝・重要文化財数に関しては全国の市町村のうち日光市に次いで12番目に多く「文化財のまち」と呼ばれています。「市の木:楠」「市の花:菊」を制定。

キャッチフレーズは「みんなで創ろう 潤いめぐる 緑と文化の輝くまち 河内長野」

明治22年(1889)、錦部郡長野村、市新野村、天野村、三日市村、川上村、天見村、加賀田村、高向村が発足。

1896年、郡の統合により、南河内郡が成立。

1910年、長野村が町制を施行し、南河内郡長野町となる。

1954年、南河内郡長野町、三日市村、川上村、天見村、加賀田村、高向村が合併。市制を施行。市名は長野県長野市との重複を避けるため、旧国名の河内を冠し、河内長野市となった。

マンホールには、市章を中心に「市の木:楠」、外周に「市の花:菊」が描かれています。(本町・七つ辻近くのあるアーケード商店街に設置)

鴻池水未来センター展示蓋

池田市マンホールサミット展示蓋

昭和29年8月1日制定の市章は「大阪府を外郭に表し、なかに市の頭字長を配す。」公式HPより

防火水槽

仕切弁

消火栓

河内長野ガス株式会社:ガスバルブ

河内長野市生涯学習推進マスコット『くろまろくん』。河内長野市高向(たこう)出身で、遣隋使として中国に渡り、帰国後、律令国家の建設に大きく貢献した「高向玄理(たかむこのくろまろ)」がモデルです。

JA大阪南イメージキャラクター『みなみちゃん』。笑顔をふりまき、JA大阪南をみんなに知ってもらうことがお仕事です。

撮影日:2008年4月26日&2015年10月9日

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2017年12月9日、第6弾として全国64自治体で66種類(計252自治体293種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「河内長野市」のマンホールカードは、「道の駅 奥河内くろまろの郷」でいただけます。

1990年に設置開始されたマンホールには「市の木:クスノキ」と「市の花:菊」がデザインされています。

裏面には上記マンホールと、「くすのき」と「きく」の写真とデザインの由来が書かれています。

「このマンホール蓋のデザインは1990年、一般公募によって決定しました。 中央に描かれているのは河内長野市の木「くすのき」の幼木で、その外郭に市の花「きく」が配置されています。 くすのきは、楠木氏ゆかりの地にふさわしく、重厚な歴史を感じさせる常緑樹で、たくましく発展する河内長野市のシンボル的な存在です。 また、きくも楠木氏の旗印”菊水”に通じ、市民の清楚でゆかしい心を象徴しています。 周囲を山々に囲まれ、肥沃な土壌と清らかな水にまぐまれた河内長野市。 その青々とした緑と清流を守るため、暮らしの陰で活躍する「下水道の広がり」がイメージできるデザインです。」

訪問日:2017年12月11日

 

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南木(なぎ)神社と楠公史跡 in 大阪府千早赤阪村

2023年03月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

大阪府千早赤阪村水分、建水分神社の境内に鎮座される「南木(なぎ)神社」。御祭神は『大楠公 (楠木正成:くすのきまさしげ)』。後村上天皇から「南木(なぎ)明神」の神号を賜わった最古の社です。

「元禄10年(1697)領主の石川総茂も正成公を尊崇し、元来、建水分神社本殿裏に祀られていた社殿が傾頽した為、現社地へ遷座再興した。しかしこの社殿も昭和9年の大風害(室戸台風)により老松が倒れて崩壊した。(御神体の大楠公尊像は総茂奉納の厨子に護られ無傷であった。) 現社殿は摂社としては破格の官幣社建築に準じて設計再造営され、昭和15年に竣功したものである。」公式HPより

拝殿は向拝の中央間を一段高くし 向唐破風屋根を付け、背面には唐破風屋根の幣殿が接続する特異な形式。2004年に檜皮葺の屋根を銅板葺に改めています。本殿は昭和13年~15年にかけて再建された一間社春日造の社殿ですが、木立に隠れて見ることは叶いません。

拝殿前より神域を守護されるのは、神殿狛犬を思わせる風貌の狛犬さん一対。鎮座される御祭神にとてもふさわしい容貌を備えた、端正な顔立ちです。

社殿向かって右前の由緒標は、陸軍大将・荒木貞夫男爵の筆によるもの。

少数の兵力で鎌倉幕府の大軍を迎え撃ち撃退した故事にちなんで作成された「除災招福の藁人形の土鈴」。河内赤阪城で挙兵した正成公は、城を包囲した幕府軍に対し、城兵の身代わりとして藁人形に甲冑を付けて敵をあざむき、突撃してきた敵に巨石や熱湯などを投げ落として撃退しました。また、藁人形へ矢を撃たせることで、それを集めて矢を補充し、敵に射返したとも伝えられています。

参拝日:2008年6月7日&2015年10月9日

千早赤阪村大字水分、千早赤阪郷土資料館の近くにある「楠公誕生地」。碑文字は幕末の三剣豪、桃井春蔵(桃井直正)の筆によるものです

『楠木正成』、幼名・多聞丸は永仁2年(1294)、現在の千早赤阪村水分山ノ井で誕生し、8~15才まで観心寺境内にある楠木家の菩提寺の「中院」で学問を習ったといわれています。武家から朝廷へと権力の移行を図った建武の新政の功労者ですが、天皇中心の政治に反旗を翻した足利尊氏に湊川の戦いで破れ、自害して果てました。

文禄年間(1592~1596)、豊臣秀吉の命で増田長盛がこの地を検地し、土壇を築き、小さな社を祀ったのが始まりとされ、明治8年には天皇への忠臣ということで、大久保利通の働きかけもあり、石碑が建立。大正6年には後の昭和天皇となられた皇太子殿下も行啓され、クスノキの植樹をされています。

楠公史跡の一つとされる「楠公産湯の井戸」碑

楠正成誕生の際、この井戸から湧き出る水で湯を沸かし産湯にしたと伝えられる「楠公産湯の井戸」。組まれた石垣の底からは今も水が湧き出ているのが見られます。

「千早赤阪郷土資料館」の中庭には、島本町の櫻井之驛にある「父子別れの像」の原型像があります。桜井で今生の別れをした父子が、こうして故郷で向かい合う姿は、命の通わぬ石像であっても胸を打たれます。

耳を澄ませば名も知らぬ鳥の声が聞こえ、近くの田からは蛙の鳴き声が聞こえる。穏やかで静かな時間が流れるこの山深い地に、遠い・・遠い昔、忠に殉じた父子がいました。

訪問日:2008年6月7日

 

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建水分(たけみくまり)神社 in 大阪府千早赤阪村

2023年03月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

大阪府千早赤阪村水分に鎮座される「建水分(たけみくまり)神社」、御祭神は中殿に『天御中主神』。左殿に『天水分神(あめのみくまりのかみ)・罔象女神(みずはのめのかみ)』、右殿に『国水分神(くにのみくまりのかみ)・瀬織津姫神』。

通称「水分(すいぶん)神社」「水分大明神」「上水分社(うえのすいぶんのやしろ)」とも称し、式内社で、旧社格は府社。古来より金剛山鎮守として、また楠木氏の氏神として崇敬されてきました。

神仏混淆の霊峰「金剛山道標」

社伝によれば「崇神天皇5年(紀元前92年)、諸国が飢饉となったとき、各地に溜池や溝を作ることが勧められたが、このときに金剛葛城の山麓に水分神が祀られたのに始まる。元の鎮座地は現在地より北約100mの水越川のほとりにあったが、南北朝時代に兵火にかかり、荒廃。このため建武元年(1334)、後醍醐天皇の勅命を受けた楠木正成が、現在地に本殿、拝殿、鐘楼などを再建し遷座した。」

社殿鳥居の前より神域を守護されるのは、何か悪戯をたくらんだ子供のような・・・・無邪気と悪魔が同居した顔立ちの狛犬さん一対(^^;)

実は本殿も拝殿も、一瞬尻込みをしたくなる急な石段を登っていかなければならないのです・・・・。狛犬さんの顔がニヤニヤ顔なのは、実は頑張れの意味を込めたエールなのかも。

重要文化財の本殿は三殿で構成され、中殿は一間社春日造、左右両殿は二間社流造。各殿を渡廊(わたどの)で連結するという、全国でも唯一の珍しい様式で「水分造」と呼ばれています・・が、拝殿からでは石段がわずかに見えるのみ。(通常参拝は本殿下の拝殿迄。)

拝殿近くに鎮座される「末社:金峯神社」。御祭神『天照大御神』

本殿参道石段から見る「旧絵馬殿」と左奥に「神輿庫」

旧宝物庫

実りの秋の収穫を建水分大神の恩恵として感謝祝慶する「秋祭(御神輿渡御祭)」。富田林市、河南町、千早赤阪村の各氏子地区より20台近くの地車(だんじり)が宮入りし、神輿を中心に全地車が参集した風景は河内随一と謳われるそうです。

参拝日:2008年6月7日&2015年10月9日

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御神名一口メモ

『天水分神』、伊邪那岐神と伊邪那美神の御子神。山頂の水の分配をつかさどる神。

『国水分神』、伊邪那岐神と伊邪那美神の御子神。河口や港をつかさどる神。

『罔象女神』、水の神、水神。福井県越前市に鎮座する大滝神社の摂社・「岡田神社」では、村人に紙漉を教えた神と伝えられる。

瀬織津姫神』、祓戸四神の一柱で祓い浄めの女神。「人の穢れを早川の瀬で浄める」とされる。

〈祓戸四神・・・瀬織津比売・速開都比売(はやあきつひめ)・気吹戸主(いぶきどぬし)・速佐須良比売(はやさすらひめ)〉

 

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ご当地マンホールとマンホールカード in 大阪府千早赤阪村

2023年03月27日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・大阪府

南河内郡千早赤阪村(ちはやあかさかむら)は大阪府南河内地域に位置し、府内最高点を誇る「金剛山」を有する金剛生駒紀泉国定公園と、南北朝の武将「楠木正成」ゆかりの神社や史跡が点在する、大阪府内唯一の村です。「村の花:ヤマユリ」「村の木:楠」を制定。

キャッチフレーズは「一冊の絵本のような村」

明治22年(1889)、町村制の施行により石川郡千早村、赤阪村が発足。

1896年、所属郡が南河内郡に変更。

1956年、南河内郡千早村・赤阪村が合併、南河内郡千早赤阪村が発足しました。

マンホールには「太平記の村と書かれた金剛山」、「村の花:山百合」「村の木:楠」が描かれています。

鴻池水未来センター展示蓋

昭和41年1月制定の村章は「中央は村の象徴である金剛山で発展向上を示し、外輪は村訓である「和」を表現したものである。また、千早村と赤阪村の調和と発展を願い、千早の頭文字Cと赤阪の頭文字Aを図案化したものである。」公式HPより

南北朝時代の武将で、楠木正成の少年時代をイメージした千早赤阪村のキャラクター『まさしげくん』。頭には菊水の髪飾りをつけ、智将らしさを表現しています。良いこのみんな、飛び出しは危険だよ!

撮影日:2008年6月7日&2015年10月9日

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マンホールカード 頂きました。

2023年1月28日、第18弾として41種:40自治体:1団体で(累計915種類 649自治体 2団体)の マンホールカードが配布されました。「千早赤阪村」のマンホールカードは、「千早赤阪村役場庁舎3階:都市整備課」でいただけます。

1997年に設置開始されたマンホールには「村の木:くすのき」「村の花:やまゆり」と「金剛山」がデザインされています。

「大阪府唯一の村である千早赤阪村は、室町時代の軍記物語「太平記」に登場する楠木正成公の生誕地とされていることから、「太平記の村」として全国にその名を知られています。本マンホール蓋は、村のシンボルである金剛山とそこに咲き誇る山百合を、村内随所にみられるクスノキが囲うようにデザインされ、金剛山に抱かれた村の雄大さと自然の鮮やかさがイメージされています。1993年度から建設に着手した村の下水道は、「金剛山(こごせ)の清流まもる下水道」のキャッチコピーがつけられ、金剛山から千早川を通じて大阪湾へ流れる清らかな水を守っていく願いが込められています。」

 

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桜井駅跡  頼山陽漢詩 in 大阪府島本町

2023年03月26日 09時00分00秒 | 徒然なるままに思うこと

漢詩「過桜井駅址詩(さくらいのえきをすぐのし)] 『頼山陽』

山崎西去桜井駅(山崎 西に去れば桜井の駅)

伝是楠公訣子処(伝(い)ふ 是れ 楠公子に訣(わか)るる処と)

林際東指金剛山(林際(りんさい) 東を指せば金剛山)

堤樹依稀河内路(堤樹(ていじゅ) 依稀(いき)たり 河内の路)

想見警報交奔馳(想見す 警報 交(こもごも) 奔馳(ほんち)し)

促駆羸羊餧獰虎(羸羊(るいよう)を促がし駆りて獰虎(どうこ)に餧(くらわ)せしを)

問耕拒奴織拒婢(耕(こう)を問ひて奴(ど)を拒み 織(しょく)に婢(ひ)を拒み)

国論顚倒君不悟(国論顚倒(こくろんてんとう)して君 悟らず)

駅門立馬臨路岐(駅門 馬を立てて路の岐(わか)るるに臨み)

遺訓丁寧垂髫児(遺訓丁寧(いくんていねい)なり 垂髫(すいちょう)の児(じ))

従騎粛聴皆含涙(従騎(じゅうき) 粛(しゅく)として聴き 皆 涙を含み)

児伏不去叱起之(児(じ)は伏して去らず 叱(しっ)して之(これ)を起たしむ)

 

撮影日:2008年6月7日

 

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楠公史跡・桜井駅跡 in 大阪府島本町

2023年03月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・大阪府

楠公史跡を訪ねてみよう・・そう思ったのは『楠木正成公』縁の地、河内長野市を尋ねた時です。ご当地マンホールを探してただ歩くだけよりも、きっと素敵な発見があるに違いない!幸い、さほど遠くない島本町には楠木正成・正行親子の今生の別れとなった「桜井駅跡」が史跡として残されているではないですか。

昔、母が子守唄代わりによく歌ってくれた「桜井の決別」。幼心にも胸に響いて懐かしく、長じても忘れることなく心に残った歌詞と旋律。今回はその歌になぞって・・

青葉が清々しく影を落とす桜井まで来た正成公は、木陰に駒を止めてしみじみと戦の先行きを憂います。この戦はおそらく負けるであろう・・だがそれでも突き進まねば、後醍醐天皇のご意志は踏みにじられてしまう。正成公はここまで付き従ってきた我が子:正行を呼び寄せて静かに告げます。「父はこのまま兵庫に赴き、おそらくは彼方の浦で果てるであろう。ここまで共に来たが、お前は母のもとに帰り時期を待て」と・・。父の言葉に驚き悲しみ、共に戦い死出の旅にもお供せんと縋る正行公。正成公は後醍醐天皇より賜った刀を正行公に形見にと授け「今は時期を待て、再び大君の為に戦う為にも早く生い立つのだ。ここからは今生の別れ。正行よ、母のもとに疾く帰れ」と諭すのです。

生きて再び相まみえる事はないであろう二人・・共に見送り見返り、降り来る五月雨の中に、やがてその姿は小さくなって互いの視界から消えてゆく。

陸軍大将『乃木希典』の揮毫による「楠公父子訣別之所」碑 

『東郷平八郎』揮毫による『明治天皇』御製碑は昭和6年の建立。裏面には頼山陽の漢詩「過桜井駅址詩(さくらいえきあとをすぐ)」が彫られています。(リンク先に頼山陽の漢詩・全文掲載)

【 子わかれの  松のしづくに 袖ぬれて  昔をしのぶ さくらゐのさと 」

「「旗立松」旗掛松・子別れ松とも呼ばれています。西国街道の端にある枝を広げた老松のもとに駒を止めて楠親子が決別をしたと伝えられています。明治30年に松は枯死し、一部を切り取って小屋に保存しました。」案内より

旧西国街道沿いに面して、明治九年に建立された「楠公訣児之處」碑。題字は大阪府権知事 渡辺昇。裏面には英国公使ハリー・S・パークスの英文が刻まれています。

「(訳文)西暦 1336年湊川の戦いに赴くに際しこの地で子正行と別れた「忠臣」楠木正成の誌義を一外国人としてたたえるものである。駐日英国公使ハリー・S・パークス1876年11月」案内より

石扉には『後醍醐天皇』より与えられた「菊水の紋」。笠置寺に臨幸した後醍醐天皇のお召しに馳せ参じた楠木正成公。天皇は傍らの菊花一房を手に取り静かに杯に浮かべ「菊は千年の後も香るという。忠義を尽くすお前の名が千年の後も香るように、この菊水の紋を旗につけるがよい」と申されたと・・歴史は伝えます。

「忠義貫乾坤(ちゅうぎけんこんをつらぬく)」碑

「明治27年、島本村内と一部近郷の有志約150名によって建てられました。当時は「楠公訣児之處」碑と並んで玉垣の中にありましたが昭和14年、桜井駅跡の拡張工事に伴い現在地に移されました。」案内より

楠公六百年祭記念碑(昭和十年五月十六日)

2008年訪問当時の手水鉢と「櫻井驛址」

2021年訪問時の手水鉢

櫻井之驛址にある台座に刻まれた文字「滅私奉公」は、『近衛文麿』の揮毫。

南北朝時代・戦国時代・江戸時代を通じて日本史上最大の軍事的天才との評価を一貫して受け、「三徳兼備」「多聞天王の化生(けしょう)」「日本開闢以来の名将」と称された「楠木正成公」。正成が忠誠を誓い、命を賭して最後まで仕えた「後鳥羽上皇」がこの地を詠んだ一首
 【 見渡せば 山もとかすむ 水無瀬川  夕べは秋と なに思ひけむ 】

明日は正成公の生まれ故郷「千早赤阪村」の紹介です。

訪問日:2008年6月7日&2021年5月29日

 

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ご当地マンホールとマンホールカード~Ⅱ~ in 大阪府島本町

2023年03月25日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・大阪府

昨日に引き続いての大阪府島本町のマンホール。二回目の今日はマンホールカードのデザインにもなった「マスコットキャラクター:みづまろくん」をデザインしたマンホールです。

従来の「水無瀬川とホタル」に町の花:やまぶき」「町の木:くすの木」のデザインに「みずまろくん」が加わって一層華やかになりました。

今回は上記二枚のマンホール画像を紛失してしまった事で、再度現地に出向き、設置されて間もないと思われる下の二種類を見つける事が出来ました。怪我の功名と言うべきなのか、マンホールの神様が微笑んでくれたのか(笑)、とにかく思いがけないラッキーな出来事でした。

撮影日:2021年5月29日

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20219年12月17日、第13弾として全国50自治体で50種類(累計557自治体717種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「島本町B」のマンホールカードは、「島本町立歴史文化資料館」でいただけます。

2018年に設置開始されたマンホールには「みづまろくん」がデザインされています。

「この蓋に描かれているのは、一般公募から選ばれた島本町の公式マスコットキャラクター「みづまろくん」です。 このキャラクターは島本町のさまざまな特徴をあらわしており、「みづ」は古語で水、そして三津で三つの川が集まる場所を表しています。 「まろ」は平安時代の男性、そしてまるいという意味を併せ持っています。 また、髪の毛は三川合流をイメージした三色の髪の色、服の色は町の豊かな自然(模様は町章)、やまぶき(町の花)色の帯を表しています。 みづまろくんは、みんなから愛されるキャラクターをめざし、今日もがんばっています。」

訪問日:20219年12月17日

 

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ご当地マンホールとマンホールカード~Ⅰ~ in 大阪府島本町

2023年03月24日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・大阪府

三島郡島本町(しまもとちょう)は大阪府の北東部にあり、木津川・宇治川・桂川が合流する淀川右岸に位置する町です。大阪市と京都市のほぼ中間に位置し、全体の約7割を山岳丘陵地が占め、丹波山地先端の天王山南側の平坦地に市街地を構成しています。東は淀川を隔て、枚方市、京都府八幡市と相対し、南および西は高槻市、北は京都市および京都府長岡京市、大山崎町に隣接。国道171号、東海道新幹線、阪急京都線、JR東海道本線が通り、交通の利便性が高く良好な居住環境を持つ住宅都市として発展しています。「町の花:ヤマブキ」「町の木:楠」を制定。

キャッチフレーズは「いきいきふれあい やさしい島本」

明治22年(1889)、町村制の施行により、島上郡島本村 が発足。

1896年、郡制の施行のため三島郡が成立。

1940年、三島郡島本村 が町制を施行、三島郡島本町となり現在に至ります。

マンホールには「水無瀬川とホタル」、「町の木:クスノキ」「町の花:山吹」が描かれています。(島本駅周辺に敷設)

展示マンホール

池田市マンホールサミット展示蓋

雨水マンホール

自治体名も自治体章もありませんが、水無瀬駅周辺に多く設置されているマンホールです。

鴻池水未来センター展示蓋

昭和43年12月10日制定の町章は「歴史上由緒ある楠公の「菊水」を「嶋本」に図形化し、明かるく環境のよい本町の未来を象徴しています。」公式HPより

「島」の文字がある量水器

ホタルが描かれた方位タイル

撮影日:2008年3月22日&2017年4月6日&2021年5月29日

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2017年4月3日、第4弾として全国42自治体で50種類(累計151自治体170種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「島本町A」のマンホールカードは、「島本町上下水道部庁舎」でいただけます。

1994年に設置開始されたマンホールには「水無瀬川とホタル」と「町の木:クスノキ」、「町の花:山吹」がデザインされています。

「いにしえより交通の要衝として栄えた島本町。 大阪府の北東部、京都府との府境に位置し、緑濃い天王山と清らかな流れの水無瀬川が織りなす自然豊かなまちです。 本マンホール蓋は、そんな島本町の山紫水明なイメージを図案化して製作しました。 中央に描いたのは一級河川「水無瀬川」。 その両岸に町の木「くすの木」と町の花「やまぶき」をあしらい、さらに幻想的な光を放って舞うホタルをデザインしました。 戦乱の世を生き、天下に名をとどろかせた茶人、千利休も愛したとされる島本の水、その水源は町を挙げて保存され、今でも町民のおいしい水や産業用水などに利用されています。」

訪問日:2017年4月6日

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ご当地マンホール in 大阪府摂津市

2023年03月23日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・大阪府

摂津市(せっつし)は大阪府の中北部、淀川右岸の北摂三島地域に位置し、古くより大阪と京都を結ぶ水陸交通の要衝としても重要な役割を担ってきました。西は大阪市・吹田市、北は茨木市、東は高槻市、南は淀川をはさんで守口市・寝屋川市と接しています。市域には東海道新幹線の鳥飼車両基地、吹田操車場跡地、阪急電鉄正雀工場があり、鉄道ファンには何気に人気の自治体となっています。「市の花:ツツジ」「市の木:楠」「市の鳥:カルガモ」を制定。

キャッチフレーズは「未来をひらく“高感”都市・せっつ」

明治22年(1889)、町村制の施行により、島下郡味舌(ました)村・味生(あじふ)村・鳥飼村が発足。

1896年、 郡制の施行により、島下郡が三島郡に変更。

1950年、味舌村が町制を施行、三島郡味舌町となる。

1956年、三島郡味舌町・味生村・鳥飼村が合併、三島郡三島町が発足。

1957年、茨木市大字鶴野・太中・蔵垣内・乙辻・小坪井の各一部を編入。

1960年、茨木市太中・蔵垣内・小坪井の残部を編入。

1966年、三島町が市制を施行・改称して摂津市となる。

マンホールは市章を中央に、摂津の「セ」の字を組み合わせた模様を周囲に配し、すべり止めも兼ねたデザインとしています。

鴻池水未来センター展示マンホール

市章は「大空へはばたく野鳥を象徴化したものでこれは摂津の「セ」の字を図案化したものでもあり、大きく飛躍する市の発展を表章しております。 また、野鳥は自然の緑を求めるものであり静かで、平和な、環境のよい本市の未来を象徴しています。」公式HPより

市章を中心に「市の花:ツツジ」がデザインされた仕切弁

「市の花:ツツジ」と市章、下にはしご車がデザインされた消火栓。

撮影日:2008年4月5日&2009年9月18日

 

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