車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご挨拶と沖縄県流域&中城村マンホールカード

2018年12月31日 08時00分00秒 | 沖縄・九州・関東・東北・北海道のマンホール
今年も残すところ14時間。 いつものように年越し蕎麦を食べて、除夜の鐘を聞いて・・この数年、晦日から新年は、いつも郷里の兄の家で賑やかに過ごしています。
母がいなくなってからは、お年玉は私たちよりもお金持ちの「又甥(またおい)」だけ(笑)になり、ほっとしたような、寂しいような。

今年の2018年を振り返ると、新車の購入、その新車での車泊とか、楽しい事があった筈なのに・・ どうしても記憶の大半を占めてしまうのは・・・想定外の災害が我が家を襲ったことです。
平成30年6月18日7時58分、大阪府北部を震源として発生した「大阪府北部地震」。大阪府とありますが、大阪に近い我が家もまた多大な被害を受けました。(実はこの瞬間、私たちはマンホールカードを求めて高知県にいたのです)
新車での初めての車中泊で最高の気分だったのに、道の駅のTVに映し出された近隣の惨状。 慌てて自宅に連絡したりとあたふたしつつも、現場にいない身ではどこか他所事の世界。我が家に帰って、無残な現状をこの目で見るまでは・・・・(;_;)
生まれて初めての雨漏り体験・・運よく業者に来てもらい、へそくりはたいて「ヤレヤレ」・・・

そのわずか二ヵ月半後、平成30年9月4日に近畿地方を襲った「平成30年・台風21号」。 ピンポイントで発生した突風は瞬間風速49.2mで我が家周辺を直撃し、鎮守の御神木をなぎ倒しました。
台風が去ったあとの凄まじさは・・・、言葉にできないほど悲惨な爪あとを我が家に、近隣の家々に残していきました。
日本のそこかしこが大きな災害に打ちのめされて、涙を拭く間もなく、また次の災害 これほどまでに相次ぐ災害にたいして、修理ができる人手が無い、修理の為の瓦がない・・
そんな状況でも、千代田では隠居夫婦の仮住まい&本住まいの改築費用に17億3000万円の予算が組まれました。 何に必要なのか、倉庫の建築費4億も入ってるんですって~ 知ってましたぁ、億さま~、もとい、奥様(笑)
八百万の神様、怒りの矛先は弱い民衆ではなく、神々を蔑ろにする祭祀王に向けてください。

さて、来年こそはよい年になることを祈って!!今年もマンホールカードで締めくくります(*^^*)
去年は北海道だったので、今年もやっぱり、自力では行けない到来物の沖縄県に決定!
2016年8月1日、第二弾として全国40自治体で44種類(64自治体74種類)の マンホールカードが配布されました。配布場所は「那覇浄化センター」で平日のみ、9:00~12:00、13:00~17:00に頂けます。

1977年に設置されたマンホールには、県章を中心に「波頭」を渦巻状にデザインしています。

【1975年に開催された沖縄国際海洋博覧会のマークを基に考案したマンホール蓋です。 県内の市町村がオリジナルマンホール蓋を採用するまでの期間使用していることから、 今でも県内を歩くとよく目にする蓋です。波頭は海を表現しており、中央には囲まれるように、 「海洋」「平和」「発展」のシンボルである沖縄県章を配置しました。 まるで海に囲まれた沖縄県をそのまま表現しているようで、美ら海を誇る本県にふさわしいデザインです。 写真は中部流域下水道那覇処理区のマンホール蓋で、同処理区は1966年に事業着手し、 現在では那覇市、浦添市、豊見城市、南風原町の3市1町の汚水を処理しています。】

沖縄県(おきなわけん)は南西諸島の島々(沖縄諸島、先島諸島、大東諸島)から構成され、東シナ海と太平洋に挟まれた日本の最西端に位置する自治体。  キャッチフレーズは ~ハイサイ沖縄!~

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2017年8月1日、第5弾として全国50自治体で52種類(計191自治体222種類)の マンホールカードが配布されました。

中城城跡共同管理協議会にて、【10~4月】8:30~17:00【5~9月】8:30~18:00に配布されます。

1997年に設置されたマンホールには、「城跡の石垣門」と琉歌「とよむ中城」の詞がデザインされています。

【琉歌「とよむ中城」の詞とともに世界遺産・中城城跡の「石垣門」と月、村花「ハイビスカス」が描かれています。 詞の意味は、「(城から眺める)よしの浦の月が美しく照り輝いて、天下は平和で円満に治まり、なんと感慨深いことか」というもの。 かって中城は乱世に揺れ、謀反の疑いをかけられた当時の中城城主・護佐丸が月見の宴のさなかに攻め込まれ、自刃する出来事がありました。 俗にいう「護佐丸・阿麻和利の変」です。その悲しい歴史を背景に聞く琉歌は、一層深く心に染みいります。 とよむ中城の「とよむ」は、「響き渡る」こと。 中城の繁栄を願う思いが強く感じられるデザインです。】

中城村(なかぐすくそん)沖縄本島中部の東海岸に位置し、中城湾に面しています。2000年には、中城城跡が琉球王国のグスク及び関連遺産群として世界遺産に登録されました。

キャッチフレーズは「~心豊かな暮らし~住みたい村、とよむ中城~

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泣いても笑っても2018年は今日で終わり、来年こそは災害の無い年でありますように。 全ての人、全ての命が穏やかな日々を過ごせますように。
そして・・ブログを訪問してくださった皆様に、心からお礼を申し上げます。 毎日更新!の誓いが今日まで続けられたのも、日々の訪問閲覧数に後押しされてです。

迎える新しい一年が、誰にとっても素晴らしい年となりますように

(*^^*)2017年 大晦日

 

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久能山東照宮~其の五 in 静岡県静岡市

2018年12月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

昨日までの豪華絢爛な久能山東照宮の建造物とは打って変わって・・、今日は家康公「廟所」の紹介。 本殿の後方にある廟門から神廟までの間をつなぐ「参道」はいずれも重要文化財の指定。 参道左右には家康公に仕えた武将たちが奉納した石灯籠が立ち並び、厳かな雰囲気が漂っています。

神廟の一画に聳え立つ「金のなる木」。木は途中から大きく3つの枝に分かれています。家康公の金のなる木のエピソード。書くと長くなるので目一杯端折って(^^;)
一つ目の枝は「よろずほどよ木」・・・すべてほど良き
二つ目の枝は「しょうじ木」・・・正直
三つ目の枝は「じひぶか木」・・・慈悲深き これらを守り実践すれば富を得られるであろうと家臣に言ったらしい(笑)

石灯籠群から約40段の石段を登った先に、重要文化財指定の「神廟」。 元和2年の創建当初は木造桧皮葺の祠でしたが、家光公により現在の石造宝塔に造替されました。

神廟の真正面に奉納された「唐灯籠」。神廟を直視する無礼を避ける為でしょうか?

さて、ここで初日に書いた、「家康公の遺骸」は久能山か、日光か?の話題に少し触れたいと思います。
創建当時の東照社は、家康を葬った久能山と、分祀の為に造営された日光の二箇所に存在しました。家康の遺命通り、遺骸は四角い棺の中に正装し、西を向いて座した状態で。また遺骸の保存の為に棺の中は、何百キログラムもの硫化水銀で満たされていたとも伝えられています。そして天海僧正の指揮の元、当時の技術を結集し、二週間もの日時を要し家康公の棺はこの地に納められました。

明けて元和3年、再び天海僧正が総指揮を執り、久能山から日光への「宮遷し」が行われます。 こうして「神柩」は、新暦4月20日から約2週間の日程をかけて日光へ運ばれ、奥宮に収められました。 御遺骸は日光に在るという人たちの根拠は、この「宮遷し」を第一の理由としてあげています。
ですが・・素人の私の素朴な疑問は、土葬して一年目の遺骸を掘り起こして「神柩」に移せたのか? 埋葬だけで二週間を要した筈の棺。水銀による防腐処置が施されていたなら、その重さは半端ではありません。
それを開けて遺骸を取り出し、新たな柩に移す・・・どう考えても私には納得できません。
またそれができたとして、道中に二週間もかければ、御遺骸はさらに酷い状態になると思います。 そうした諸々の事を調べていくと実に沢山の方々の研究に行きつき、いずれも非常に興味深い内容で、更に謎は深まるばかり。
ともあれ、この久能山には確かに「神廟(しんびょう)」があります。そして、「廟」とは「墓所」を指すのです。

日光東照宮には「神柩」が納められた「奥宮御宝塔」がありますが、それは「墓所」ではありません。 文字ばかりでずいぶんと長くなりましたが、要するに「御遺骸は久能山に」が私の結論。
最後に「宮遷し」に関わった最も重要な二人の人物の、非常に意味深な和歌の紹介。まずは『天海僧正』から
【あればある 無ければなしと駿河なる くのなき神の 宮遷しかな】

もう一つは、三代将軍・家光が「寛永の大造替」を行った際に久能山に詣でた折に詠んだとする
【東より 照らす光のここにありと 今日もうでする 久能のみやしろ】

帰り際、唐門の下で見知らぬカップルさんにシャッターをお願いされ、そのお返しにと二人並んでの記念写真。旅の良い思い出になりました。

参拝日:2011年11月13日

高所からの景色を楽しめない私のために、ご亭主殿が写してくれたロープウェイから見下ろす久能山参道。

 

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久能山東照宮~其の四 in 静岡県静岡市

2018年12月29日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

家光による久能山東照宮の建造物、最後は御社殿の周囲にめぐらされた「玉垣・透塀(重文指定)」

玉垣の腰板には全部で106枚の彫刻があり、それらは一枚の板を彫り上げた透彫となっています。 彫刻の中には鳥を扱ったものが圧倒的に多く、その中でも小鳥を題材とした透彫りは45枚あります。

もちろん、神社建築の彫刻にはつきものの唐獅子と牡丹も、阿吽でその存在感を示しています。

透かし塀の内側には、駿府城の「家康お手植えの蜜柑」を接木した「お手植えの蜜柑」があります。 接木なのに「お手植え」は違うと思うのですが、家康と名がつけば何でも許されるのです(笑)

末社「久能稲荷神社」は「稲荷神社」と「厳島神社」とが合殿になって、西向きに建っています。  東照宮創建以前よりの鎮座と伝えられており、古来山上の愛宕神社の前に鎮座していましたが、明治17年の暴風により社殿が倒壊した為、楼門内東側の現在所に遷座されました。

久能山東照宮博物館には、徳川歴代将軍の武器・武具や、家康公の日常手回り品が収納されています。 他にも総数2,000点を超える奉納品が収蔵されており、じっくりと見学するにはやっぱり時間が足りません。

この博物館前に置かれた狛犬の阿形さんですが、よく見ると唐門の前にいた狛犬さんにとてもよく似ています。 おそらくは、唐門前を守護するために置かれた狛犬さんの先代と見て間違いないでしょう。

胸の部分には「久能山御宮前」、足には「天保四巳年七月」「享和三亥年四月」の刻。 刻まれた二つの年号にある三十年間の開きが何を意味しているのか、残念ながら不明。

これとは別に、原型を失いつつあるもう一対の狛犬さんが、同じ場所に大切に置かれています。 ですが吽形さんの顔の崩れは、年月の風化と言うより何らかの衝撃によって受けたもののように見えます。

正面アップで見る阿形さん・・・間違ってもその笑顔で子供の前に現れないように!

何とも微妙に難しい顔は「徳川家康三方ヶ原戦役画像」をモデルに彫られた「家康・しかめ像」。 元絵に関しては諸説(笑)あるようですが、一応、己の慢心を戒める為に書かせたとされています。

最後は「バンダイ社」が2010年7月26日に奉納した「BB戦士 徳川家康頑駄無」のプラモデル。 向かって左隣には、家康が初期の頃に用いた「厭離穢土(おんりえど)欣求浄土(ごんぐじょうど)」の馬印も作りこまれる徹底さ。 それにしても何故、久能山にプラモデル?!と思われたあなた、是非ともググって感心して下さい。

明日はいよいよ久能山東照宮シリーズの最後、家康公が眠る「廟所」です。

参拝日:2011年11月13日

 

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久能山東照宮~其の三 in 静岡県静岡市

2018年12月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

昨日は秀忠によって造営された東照宮の建造物の紹介でしたが、今回は家光による増築の紹介。ロープウエーから降りて最初の神域への入り口は、家光によって増築された朱塗りの楼門。

中央には、第108代『後水尾(ごみずのお)天皇』の宸筆による「東照大権現」の扁額。「東照大権現」とは、神格化した家康の「神号」として朝廷から宣下されたもの。そもそも権現とは、仏や菩薩が仮(権)に姿を変えて日本の神として現れるという意味であり、故に家康公=権現は私の中では無し!なのですが、だからと言って家康公が嫌いとかでは無いので念の為(笑)

楼門の柵内には、きらびやかという言葉がふさわしい、守護神像の左右随身。おそらくそれぞれに名があるのでしょうが、特に記載はありません。

楼門の裏側(境内側)左右の柵内には、鮮やかな金泥に彩られた獅子狛犬。 一般的に獅子、もしくは狛犬と一括りに呼びますが、角のない方が獅子、角の有る方が狛犬とされます。

「神厩(しんきゅう)」は、建造当初は家康公の愛馬を飼育していた建物でしたが、夜毎厩舎を抜け出して家康公の廟所に行き、ある日その傍らで息絶えたと伝えられています。

現在の「神厩」には、名工:『左甚五郎』の作と伝えられる木像の神馬が納められています。 真っ白いからだに装着された朱塗りの馬具、印象深い黒い瞳は当時非常に高価であったギヤマンが使用されています。

創建当時は「鐘楼(しょうろう)」として造営された「鼓楼(ころう)」。 明治の神仏分離の際に、鐘を太鼓に替えて「鼓楼」と改め、今に至っています。

それとは逆に、神仏分離の際に取り払われてしまったのが、寛永13年に完成したという五重塔。 高さ約30mの五重塔を偲ぶものは、元のままに残された「礎」と「礎石」のみ。これだけの規模の中の「五重塔」・・歴史的建造物の価値を考えるだけでも勿体ない(-_-;)

「神庫(しんこ)」は、奈良の正倉院と同じ校倉(あぜくら)造りの建物。 東照宮博物館が完成するまでは、神社に伝わる数々の宝物類がここに納められていました。

「日枝(ひえ)神社」。御祭神は『大山咋命(おおやまくいのみこと)』。創建当時は「本地堂(ほんじどう)」として、『薬師如来像』が安置されていましたが、神仏分離の際に仏像を移し、楼門内東側に鎮座していた「山王社」の御神体を納め、社名も日枝神社と改めました。

神楽殿の北側、一段高い所にある見世棚造りの小さな「竈(かまど)神社」。御祭神は『火産霊命(ほむすびのみこと)・奥津彦命(おきつひこのみこと)・奥津姫命(おきつひめのみこと)』

ここで紹介した建築物は全て国重要文化財の指定です。三代将軍:家光による増築部分の紹介、もう少し続きます。

参拝日:2011年11月13日

 

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久能山東照宮~其の二 in 静岡県静岡市

2018年12月27日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

徳川15代の礎を築いた家康公を祀る東照宮。建造物はいずれも国宝、もしくは国重要文化財として登録されており、見ごたえも充分。久能山東照宮~其の二では、二代将軍・秀忠によって造営された建造物のみを取り上げて紹介します。

楼門をくぐり石段をあがると青銅の鳥居。一礼して潜った先に、重要文化財の唐門。 拝殿正面にある門で、屋根は銅瓦本葺黒漆塗、四方唐破風造の門、羽目板には鳳凰に唐獅子牡丹。

唐門から直接入ることはできませんが、右手の石段をあがれば唐門の内側に入る事ができます。 極彩色の漆塗りで彩られた唐門。そこに施された「桜花に鳥の透彫」、番いの鳥は今にも飛び立たんばかり。

唐門の貫から見下ろす極彩色の獅子は、その華やかさゆえか威圧感も無く、面差しも優しげ。

唐門の前より神域を守護されるのは、先代をなぞったと思われる二代目の神殿狛犬さん一対。 一見非常に滑らかな石のように見えますが、実際に手で触れたわけではないので、真相は謎。

社殿は江戸幕府大工棟梁『中井大和守正清』の代表的な遺構の一つと云われるもので、祭神をお祀りする「本殿」と「拝殿」を「石の間」で連結した「権現造」。江戸時代を通じて権現造社殿が全国的に普及する契機となった「最古の東照宮建築」として、2010年に国宝に指定されています。

東門越しに見る入母屋造の社殿。千木があるのが本殿、画像左が拝殿。わずかに両殿を繋ぐ相の間が見えます。

昇段本殿内部には三間の厨子が据えられており、その中央には主祭神である『徳川家康』その両脇には「相殿(あいどの)」として、『織田信長・豊臣秀吉』あいにくと拝殿正面からの参拝は、団体さんとその案内の神官に立ち塞がれており、待つ時間が惜しく移動。個人と団体さんでは・・仕方が無いですね(-"-)

さて肝心の社殿彫刻ですが、その荘厳さはどう形容しても実際に目で見ないと実感できません。それでなくとも広大な境内、一つ一つが予想以上に見所が多く・・とにかく時間が幾らあっても足りない!。

本殿の扉絵の獅子、見覚えがあると思ったらロープウェイを下りて最初に出迎えてくれた絵馬の獅子。

黒漆の扉の上に鮮やかに描かれた阿吽の獅子。 漆の黒は陽の加減によって、獅子たちの姿を微妙に変えると云われていますが・・・それを確かめるにはやっぱり時間不足。

「久能山東照宮」更に続きます。

参拝日:2011年11月13日

 

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久能山東照宮~其の一 in 静岡県静岡市

2018年12月26日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

今日から年末にかけてのブログは彼が眠る「久能山東照宮」の紹介です。晩年を駿府で過ごした『徳川家康』は、元和2年(1616年)七十五歳でその生涯を終えました。亡骸は、「我が死んだら躰は久能山に納めよ」の遺命によって、久能山の中腹に埋葬。

門前より臨む久能山、石鳥居より本殿前まで石段の数は17曲りの1159段・・あ・・・・軽くめまいが(^^;)  昔の人は「いち・いち・ご・く・ろうさん」と洒落を言い合いながら登ったんだそうです。
この石段の数に初手から怖気を振るっていた私たちと、初めてここに立ったJさん。久能山東照宮ここで拝礼して終了(笑)

と言うことで、2016年の久能山一の鳥居からの中継はここまで、この先の続きは2011年の参拝のものです。d(-_^) 

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2011年、久能山参拝の為に日本平まで車で乗り付けた二人。日本平山頂と、丘陵南域の久能山(標高216m)山腹に建つ「久能山東照宮」を結ぶ「日本平ロープウェイ」。 苦手な乗り物ですが、背に腹は変えられません。

待合室にあった「日本平ロープウェイ」の顔出し、男性は家康公でしょうが、女性は誰でしょう。 家康公の正妻といえば「築山殿」ですが、それにしては少々イメージが若過ぎる気が・・と、どうでもいい事に悩みながらの時間待ち。

さぁいよいよ乗車の順番、なるべく外を、特に下を見ないようにしてご亭主殿の背中だけを見て。 ぐらっとゆれるのは最初の瞬間だけ、心の中でお気に入りの歌を2~3曲歌えば・・多分すぐに到着・・ 笑ってはいけません!! 本当に地に足のつかない乗り物は、飛行機だろうと豪華客船だろうと、まして細いワイヤーにぶら下がるロープウェイ・・・😱

5分の乗車時間、多分あっという間なのでしょうが・・・それでもやはり私には長かった😭。 そして!ロープウェイ・久能山駅を降りて最初の試練は、このとてつもなく長い急な階段・・また階段。

階段の途中から見る駿河湾の絶景、手前の白いコンテナのように見えるのはイチゴハウス。 ちなみに久能山は「いちご狩りの聖地」とかで、御朱印帳にも「石垣いちご」が描かれているそうです。

階段をおりきった先の受付で拝観料を支払い、美しい青唐獅子と牡丹の絵馬に出迎えられます。 この絵馬はご本殿の扉絵に使われており、獅子のように強く、牡丹のように優しく美しくのメッセージが込められているとか。

さぁいよいよ東照宮参拝、ほとんどの通路が石段や坂道と厳しい状況ですが頑張ります( ̄^ ̄)  その前に、簡単に「久能山東照宮」の成り立ちについておさらい。

死期が近づいたことを知った家康公は、自分が死んだら久能山に葬るように遺言し、さらに四項目を付け加えました。
「躰は西を睨ませ、立てて埋葬せよ」「葬儀は増上寺で行え」「位牌は大樹寺に立てよ」「一周忌の後、日光山に分祀せよ」。後にこの遺言が家康公の遺骸論争の火種になるのですが、長くなるのでまた後で。
元和2年5月より、二代将軍・秀忠により着工された「東照社」は、翌年12月(1617)に完成。また同時に分祀の為の「東照社」が下野(しもつけ)国日光に造営され、元和3年4月に完成。
現在の「日光東照宮」は、三代将軍・家光の「寛永の大造替(1634)」の際に大改築されたもので、同時に久能山の整備も命じ、それによって社殿以外の透塀や鐘楼、楼門等々が増築されました。
正保2年(1645)、朝廷より宮号「東照宮」が宣下され「久能山東照宮」の通称が成立します。
ロープウェイからの参拝者を最初に出迎えるのは、家光によって増築された朱塗りの楼門。

楼門の内側には、家康三十八歳の時の手形が展示され、当時の身長や体重も一緒に記されています。「身長155cm、体重60k」・・・、当時の男性としては平均的なんでしょうかね? それにしては、やはり静岡駅にあった実物大の草履の絵は、異常に大きすぎると思います(笑)

時代衣装に身を包んだ一行が市内を練り歩き、茶壺を久能山東照宮へ運び奉納する「お茶壺道中」。 「お茶壷様🙏」が鎮座するお籠が展示されていましたが、多分これが「お茶壺道中行列」に使われるのかも。

「久能山東照宮」、まだまだ続きます。

参拝日:2011年11月13日

 

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家康公が愛したまち in 静岡県静岡市

2018年12月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・静岡県

静岡駅北口駅前広場に、駿府城公園の「鷹狩りの家康」と同じ彫刻家『堤直美氏』の製作で、手に采配を持ち西国を睨む五カ国時代の『徳川家康』像。

いまだ秀吉の下にあって、天下統一の時機をうかがっていた『家康』、50歳前後の像だそうです。

駅の広場には「家康公が愛したまち 静岡」のフレーズを冠したパネルが展示。 家康は「少年期・青年期・大御所時代」とその生涯の中で三度、駿府に居住しています。

今川の人質として駿府で過ごした幼年期の『竹千代』の銅像。 作者はやはり『堤直美氏』で、駿府時代の家康像がすべて彼の手によって製作された事になります。

どこを見ても家康尽くしの静岡市駅、家康の生涯を簡単に紹介したコーナーがあり、最初のスタートはわらじの絵から・・。なんとこれは家康が実際に履いていた実物大の草履だとか。

22cm弱と小さいほうの部類に入る私の足ですが、それでもこの大きさは半端ではありません。 昔、足の大きな『ジャイアント馬場』というプロレスラーがいましたが、それ位有るのでは。

で・・久能山東照宮には家康37歳の頃の手形が残っているのですが、手は普通よりも小さめ。 我が家のご亭主殿は靴のサイズ24.5cm、それに合わせて手もかなり小さい方です。 家康の手形に合わせてみるとほぼ同じ大きさ・・と言うことは家康公、足だけが異様にでかかった?!

久能山東照宮が出てきましたが、駅前には「久能山東照宮・国宝指定記念之碑」。 元和3年(1617)に創建された社殿は、江戸初期の代表的建造物として、本殿・石の間・拝殿が2010年12月に国宝に指定されました。この碑はそれを記念して建立されたようです。

このいわくありそうな塔は、静岡駅南口で見つけた「東照宮三百年祭祈念塔」。 大正4年4月17日に建立されたもので、「従是 弐里拾壱町(これより二里十一町)」とあります。
おそらくこの塔が建てられた場所から、久能山東照宮までの距離が記されているのでしょう。 が・・・せっかくの記念塔がこんなに自転車に囲まれて、しかも下はゴミだらけ・・ちょっと興醒めでした。

車泊旅で何度かお世話になった東名高速「日本平PA」の記念スタンプ。それもこれも含めて見事に家康一色。大阪・・ここまで太閤さん一色だったかな?

訪問日:2016年12月11日

 

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ご当地マンホール in 静岡県旧静岡市

2018年12月24日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・静岡県

昨日のブログでは2003年に清水市と合併した、新・静岡市のマンホールを紹介しました。そこで今日は、合併以前の旧静岡市のマンホールの紹介。トップ画像は、静岡駅前で「采配」を手にする『徳川家康公』像。背景には葵のご紋がド~~~~ン(笑)。「市の花:たちあおい」「市の鳥:ヒメアマツバメ」を制定。

明治22年(1889)、町村制の施行により、安倍郡50町、有渡郡静岡宿と74町、南安東村の一部を統合、市制を施行し静岡市が発足。

安倍郡豊田村・南賤機村・豊田村・賤機村・千代田村・麻機村・長田村・大谷村・久能村・美和村・服織村・中藁科村・南藁科村・大河内村・梅ヶ島村・玉川村・井川村・清沢村・大川村、庵原郡西奈村が発足。

1908年、安倍郡豊田村南安東の一部を編入。

1909年、安倍郡南賤機村の一部を編入。

1928年、安倍郡豊田村を編入。

1932年、安倍郡賤機村を編入。

1934年、安倍郡千代田村、麻機村、長田村、大谷村、久能村を編入。

1948年、庵原郡西奈村を編入。

1955年、安倍郡美和村、服織村、中藁科村、南藁科村を編入。

1958年、清水市中吉田、平沢の全域と、谷田、中之郷の一部を編入。

1969年、安倍郡大河内村、梅ヶ島村、玉川村、井川村、清沢村、大川村を編入。

静清浄化センターの展示蓋は市章を中心に「市の花:たちあおい」、中央には下水構えに「市」の文字。

道路維持のマンホールは、市章に「静岡庁舎本館の望楼」と「市の鳥:ヒメアマツバメ」。(久能山東照宮参道付近に設置)

モザイクタイル画は、「富士山」と「静岡庁舎本館の望楼」。

静岡市西ヶ谷運動競技場だけに設置されている、「市の花:たちあおい」と「市の鳥:ヒメアマツバメ」のマンホール。地色は濃いピンクと薄いピンクがありますが、薄い地色の方が「たちあおい」の花も「アマツバメ」もくっきりと見えて好み。

「市の鳥:ヒメアマツバメ」が描かれたタイル。

「富士山・安倍川・登呂遺跡」がデザインされた消火栓。

同じく「富士山・安倍川・登呂遺跡」がデザインされた量水器二種類。

「東名高速道路・日本平PA」の記念スタンプは、登呂遺跡の「竪穴系平地式住居」がデザインされています。

大正3年(1914)4月11日制定の市章は「徳川家の紋章「葵」を外側にし、「し・づ・岡」を組み合わせたもの。」

弱電・高圧・低圧の大型マンホール。中央に旧静岡市章。いずれも駿府城公園内に設置。

キャブ(CAB)用マンホールカバーは、キャブの上部に設置される化粧蓋。蓋を連結したり、蓋の持ち上がりを防止するロック機構を備えたマンホールの事を言います。

火事火消しの「纏」と「ヒメアマツバメ」が描かれた消火栓、旧静岡市水道局章のマーク付き。旧静岡市水道局章は市章の葵の中の文字が岡ではなく、水です。

三つ並んだ火事火消しの「纏」。中央の頭には旧静岡市水道局章、左右は「水」の文字で。

中央には、下水構えに「市」の文字

「雑排」「汚水」のマンホールには「静岡市水道局指定工事店協同組合」のロゴ。

静岡市と書かれた電気用の大型マンホール。

中央のマークは「工業用水」。水力発電用と飲用を除く工業の用に供する水を指します。

消防水利の蓋は宇津ノ谷峠の集落に合ったもので、中央に「井」のマークが入っています。

「国調図根」は国土調査の図根点の事で、地面などに埋められた赤い角形が良く見られます。 これらは地中深く埋められているケースもあり、この蓋はその目印的な用途なのかもしれません。

撮影日:2011年11月12日&2016年12月11日

 

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ご当地マンホール in 静岡県静岡市

2018年12月23日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・静岡県

静岡市(しずおかし)は静岡県の中部に位置し、葵区、駿河区、清水区の3区で構成された市です。同県の県庁所在地で、日本で最初に市制施行した31市の中のひとつ。東京と名古屋の太平洋ベルト地帯上のほぼ中間に位置し、市域は駿河湾から日本平、静岡平野や清水平野を経て赤石山脈(南アルプス)の県境まで南北に繋がります。富士市・富士宮市・藤枝市・焼津市・・島田市・川根本町。県を跨いで山梨県南アルプス市・早川町・身延町・南部町、更に長野県飯田市・伊那市・大鹿村に隣接。2003年4月1日、旧清水市との新設合併により新静岡市として発足。全国で5番目に大きい面積を擁していますが森林面積が市域の約80%と高く、人口の約98%が市面積の8%に満たない市街地に集積し、高密度な都市を形成しています。2005年4月1日、全国14番目の政令指定都市に移行。「市の木:花水木」「市の花:タチアオイ」「市の鳥:カワセミ」「市のシンボルカラー:ブルー(スマルト)」を制定。

キャッチフレーズは「活発に交流し価値を創り合う自立都市 世界に輝く『静岡』の創造」

2006年、庵原郡蒲原町を編入。

2008年、庵原郡由比町を編入。

マンホールには市章を中心に、新・旧の市の花「タチアオイ」が描かれています。

2018年9月6・7日に設置された人気漫画「ちびまる子ちゃん」を描いたマンホール。 2018年8月15日に死去された清水区出身の『さくらももこ』さんが、生前に市に寄贈されたものです。

道路維持のマンホールは「市章」と「静岡庁舎本館の望楼」。「旧市の鳥:ヒメアマツバメ」がデザインされています。5年の歳月を経て執念で探し当てたマンホール、喜びもひとしお(*^^*)

実はこのマンホール、2011年の静岡の旅でちゃんと見つけていたのですが、我が目を疑いたくなるほど、悲惨かつ許せない状態。カラーで独自のデザインで、絶対に探し出そうと思っていて見つけたのがこれって何の罰ゲーム(;_;)

旧清水市の花「さつき」のデザイン、市章部分が静岡市市章にかわっています。

静岡市上下水道局の水のキャラクター『しずみぃ』三つのポーズが描かれた親子タイプのマンホール。

2003年5月29日制定の市章は「「静岡・清水、新・静岡市」の頭文字「S」を発想の基本に、自然と都市機能が見事に調和した豊かな都市イメージを表現しています。】公式HPより

消火栓には、「富士山を背景に久能山東照宮と三保の松原」。「家康公が愛したまち静岡市」の文字がデザインされています。

2007年設置の消火栓。「富士山と安部川」と「鎧武者」、右に「大御所家康公駿府城入城四百年祭」の文字。

市の鳥「カワセミ」が消防士になり、消火ホース、AED、救助ネットをもってかけつける消火栓。可愛らしく頼もしいデザイン。

鈴岡市内で良く見かける「纏」の消火栓、左右に、旧市の鳥「ヒメアマツバメ」。纏頭の部分が旧市章でなく「水」の文字に変わりました。

大小の仕切弁には、いずれも駿府城の二ノ丸の「坤櫓(ひつじさるやぐら)」が描かれています。

「静岡市」電気のマンホール、上部に「2000KG」の文字。

タイルに描かれているのは「市の花:タチアオイ」

「市の木:花水木」

「市の鳥:カワセミ」

静岡市の春の一大イベント「静岡まつり」の公認キャラクターは、徳川家康公の少年期がモデルの『竹千代くん』

静岡市立登呂博物館のマスコットキャラクター『トロベー』。竪穴式住居の頭に貫頭衣、手には稲穂を持っています。

「水産漁港課:しずまえ振興係」のしずまえPRキャラクター『用宗しらす丸くん』・・(^^;)

静岡市上下水道局の水のキャラクター『しずみぃ』

大道芸ワールドカップin静岡公式キャラクター『パフォくん』・・・何というか謎の生物。

静岡市立科学館「静岡科学館るくる」の公式キャラクター『かんちゃん・るくるん』。『かんちゃん』は「静岡科学館るくる」の前身であった児童会館でも活躍していたそうです。

静岡市消費生活センターイメージキャラクター『かいけつ!ハナミン』・・なるほど!から、誰??まで、多彩な静岡市のキャラクター。探せばもっといたかもしれませんが、流石にギブアップ(-_-;)。

撮影日:2011年11月12日&2016年12月11日&2018年11月14日

 

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静岡県静岡市A&Bのマンホールカード

2018年12月22日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・静岡県

2017年4月5日、第4弾として全国42自治体で50種類(累計407自治体478種類)のマンホールカードが配布されました。静岡市Aのマンホールカードは「静岡市上下水道局庁舎 下水道総務課」で頂けます。

2016年12月に行ったばかりの静岡市、ご丁寧にも配布場所の直ぐ側もしっかり歩いてきました(^^;) で・・2018年11月、山梨県への車泊旅の途次に入手。

2005年に設置されたマンホールには、市章を中心に「タチアオイ」がデザインされています。

【静岡にゆかりの深い「あおい」の名を持つ花の中で、ひときわ華やかな大輪を咲かせるという理由から、市民公募によって市の花に制定された「タチアオイ」。 ピンクや赤、白、紫など多彩な花の色を持つ多年草で、その高くまっすぐ伸びた茎と、大輪が空高く咲き誇る姿をイメージして制作したマンホール蓋です。 中央にある市章は、静岡の頭文字「S」をベースに図案化したもので、豊かな自然と都市機能の調和を表現しています。 色付きの蓋はJR静岡駅前や徳川家康公ゆかりの駿府城公園周辺の歩道にあり、その中には花の色や中央のマークが異なる合併前のデザイン蓋を見ることもできます。】 

座標軸のマンホールは駿府城巽櫓の近くに設置。

配布場所で頂いたリーフレット。

訪問日:2018年11月14日

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2018年12月14日、第9弾として全国60自治体で60種類(累計407自治体478種類)のマンホールカードが配布されました。静岡市Bのマンホールカードは「JR清水駅前観光案内所」で頂けます。

2018年に設置開始されたマンホールには「三保松原と富士山」「ちびまるこちゃん」がデザインされています。

【「ちびまるこちゃん」の原作者さくらももこさんは静岡市清水区(旧清水市)の出身です。 さくらさんは、平成30年8月7日「ちびまるこちゃん」がデザインされたマンホールの蓋を静岡市に寄贈しました。 描きおこした2種類のイラストは、「お茶・富士山・駿河湾」がコンセプトになっています。 寄贈された蓋は市内に設置され、JR清水駅江尻口前の蓋には、ピンク色の帽子をかぶり、おしゃれをしてニッコリ笑っている「まるちゃん」が描かれています。 静岡市は「ちびまる子ちゃん」のふるさと。 漫画やアニメ、映画などで描かれた清水のまちは、今にも「まるちゃん」が出てきそうな風情を残しています。】 

訪問日:2019年3月4日

 

コメント (2)
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