車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

天津神明宮 in 千葉県鴨川市(旧天津小湊町)

2019年05月31日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

鴨川市天津に鎮座される「天津神明宮」。「房州伊勢の宮」とも称される古社。 御祭神は『天照皇大神・豊受大神・八重事代主神・大山祇大神』、ほか七柱の神を合祀します。

由緒に【『事代主神』は天孫に国土を献ってのち、海路はるばる当地においでになり、東方鎮護の神として永くこの地にお鎮まりになったため、人々は宮殿を建て、『もうけ明神』と尊称したと伝えられています。寿永3年(1184)、当地に伊勢より神霊を勧請し、『もうけ明神』とともにお祀りされたのが「房州伊勢の宮」と仰がれる当社であります。】

拝殿前より神域を守護されるのは、安政3年(1856)丙辰6月建立の、江戸流れ狛犬さん。 海が近かった所為なのか、体中を覆う独特の白い斑点が、過ぎてきた年月を物語っています。

あまりにも広範囲な苔の所為で、本当はとても優しい顔立ちがよく見えないのが残念。 という事で、正面から顔だけをアップにして見ましたが、どうでしょう?優しさがにじみ出た良いお顔でしょう。

そういえば社務所の前に大小二組の顔出しパネルがあったのですが、もしかして大人と子供用? いえ・・別に大人が楽しむのも有りですよね😊う~~~ん、記念だし、今生限りかもだし😣

絵馬は、日輪の中にさらに赤く燃える光と、その中に浮かぶ千木。見ているだけで気力が沸いてきそうな・・運気向上の文字も力強い。

「丸葉萵苣(まるばちしゃ)の木」、葉っぱが柿の葉に似ている事から別名を「カキノキダマシ」とも言います。 【境内にある「まるばちしゃの木」は、中国大陸南部や海南島、台湾などに生育している亜熱帯性の落葉喬木であり、その北限として価値が高く千葉県の天然記念物に指定されている。】 説明書より

他にも摂社や末社が祀られていた筈ですが、この時はコースの順番を間違え、150k超え遠征で立ち寄った神社。 逆コースで日程をこなすという機転も浮かばず、とにかく「急いで!、急いで!」が合言葉でした。

参拝日:2014年5月23日

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご当地マンホール in 千葉県旧天津小湊町(鴨川市)

2019年05月31日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・千葉県

旧安房郡天津小湊町(あまつこみなとまち)は房総半島の南部に位置した町です。鴨川市、勝浦市、君津市、夷隅郡大多喜町に隣接。太平洋に面し北部は山がせり出した地形で、その山を横断して市街地の渋滞を緩和させる役割の天津バイパスが走っています。太平洋に面して二つの第三種漁港を擁し、魚種が豊富で漁業が盛んに行われており、外房地域漁業の生産拠点漁港に位置付けられています。

小湊地区は「日蓮聖人誕生の地」として知られており、町域には数々の名勝・旧跡が点在しています。「町の木:杉」「町の魚:鯛」を制定。

旧天津小湊町役場の前に立つと、波の音が、驚くほど大きく、絶え間なく、聞こえてきます。 朝日の下で見る太平洋の波は荒くとも美しく、しばらく時間を忘れて見入っていました。

明治22年(1889)、町村制の施行により、長狭郡天津町、湊村が発足。

1897年、郡制の施行により、平郡・朝夷郡・長狭郡の区域をもって安房郡が発足。

1928年、安房郡湊村が町制を施行、同時に小湊町に改称。

1954年、安房郡天津町が、君津郡亀山村大字四方木を編入。

1955年、安房郡天津町と小湊町が合併、安房郡天津小湊町が発足。

2005年、鴨川市と合併、鴨川市となりました。

様々な史跡に恵まれた町ですが下水道は未整備らしく、マンホールの類は見当たりません。

昭和56年1月1日制定の町章は「「天」と町の木:杉を合わせたもの。」

上水道関連の蓋は仕切弁・空気弁・消火栓。いずれも町章付き。

中央の「南房総()」は南房総広域水道企業団の略で、安房・夷隅地域に水道用水を供給しています。

駅前で見つけた町のシンボル「鯛」の街灯。天津小湊の「鯛の浦の鯛」は国の天然記念物に指定されています。

町の木に制定された杉は、同じく国天然記念物に指定された「清澄寺の大杉」からですが、どちらも現地には行く事がなかった為、画像はありません。

撮影日:2019年3月8日&2014年5月23日

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八幡神社 in 千葉県鴨川市(旧天津小湊町)

2019年05月30日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

鴨川市東町に鎮座される「八幡神社」。御祭神は『譽田別命(ほむだわけのみこと)』
境内由緒に「祭神は誉田別命(応神天皇・子供が仁徳天皇)なり。其創立年月日は不詳なれども院政の頃、当時の土豪、「京都男山八幡神社」の御分身を勧請せるを創まると伝う。」

長い参道の先はJR外房線を跨ぐ横断用の橋。ついつい期待して待ちましたが、そう都合よくは運びません。

拝殿の向かって左に並ぶ七福神さん、最近は○○七福神巡りが流行っていますが、こちらもそのお仲間でしょうか?

拝殿前より神域を守護されるのは、明治16年(1883)8月望日建立の江戸流れの狛犬さん一対。 阿形さんは美しい装飾(だったと思われる)の鞠を、吽形さんは仔狛を手の下に遊ばせています。

首に巻かれているのは「〆の子」の一種なんでしょうか?それにしては拠り目が少々粗いかな。

吽形さんの足の下の仔狛さん、もっと大きく写したかったのですが、傷みが酷くて諦めました。 もともとの石の脆さなのか、それともこの辺りの気候の所為なのか、何か切ないね。

徳川幕府の初期から行われた流鏑馬(やぶさめ)絵馬は、文政十年(1827)正月十五日の寄贈。「田原村大宮八幡神社」、「吉尾村吉保八幡神社」と並び称された行事でしたが、今は行われていないそうです。

拝殿向背の彫刻は、逆巻く波の中を飛び立つ鳳凰、波の上には菊花がありますが今一つ不鮮明。(安いコンデジ&写真の撮り方が下手だからと言うご指摘、この際甘んじてお受けします😓)

木鼻の「獅子」と、下からなので確信は持てませんがおそらく「像」、共に良いお顔。

こちらの獅子彫刻は、拝殿を守護される狛犬さんの顔に似てますが、もしかしたらモデルかな? 特に重そうなまぶたとか、少々厚めの下くちびるとか、何よりも前髪の下の鋭い目がそっくり。

貫を支える玄武の彫刻は、細かい部分がとても丁寧に仕上げられているし、貫柱の菊水も見事。 たとえ後世に名は残っていない方であっても、宮彫師の技の凄さに素直に感動しました。

と、大好きな彫刻に夢中になりすぎて、肝心の拝殿の写真を残すのをすっかり忘れていました。 自宅に帰って写真の整理をした際、初めてご亭主殿メインの一枚しか無いと気がついた次第。「ねぇ、お兄さん。そこどいてくれないと拝殿が見ないよ!😅 」

最後の一枚は「神聖樹」と名づけられた御神木。様々な木々が一塊になって枝を伸ばしています。 時代は不明ですが、院政の頃からここに存在したと伝えられており、大切に守られてきました。 互いに支え・支えられて共存し、今も境内の一角でその不思議な姿を私たちに見せています。

参拝日:2014年5月23日

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

須賀(すが)神社 in 千葉県鴨川市

2019年05月28日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

鴨川市広場に鎮座される「須賀(すが)神社」。御祭神は『須佐之男命、罔象女神(みずはのめかみ)、 源義家』

社伝によれば【創立年代は不詳であるが天正(1573年~1593年)のころ京都より勧請したといわれる。鴨川市広場地区の鎮守。明治6年村社に列し、さらに大正14年神饌幣帛供進指定社となる。明治14年同町内にあった「水神社」「白幡神社」を合祀した。】

拝殿前より神域を守護されるのは二対の狛犬さん、関西系の顔立ちなのに尾は流れています。 顔の大きさに比して体は小さく、手足もこじんまりと短いのが何とも言えない不思議な雰囲気。

もう一対は先の狛犬さんより一回り小さく、阿吽の判別がわかりにくい江戸流れの仔狛づれ。 彫りは精緻とはいえないものの、かもし出す雰囲気はとても穏やかで好感が持てます。

良さそうな狛犬が見えたので急遽参拝を決めた神社ですが、拝殿の彫刻に思わず目が釘付け。 向拝の懸魚にいるのは大きく翼を広げた「鳳凰」、弧を描いて流れる尾は美しく軽やか。

向背の「龍」は長くしなやかな胴をくねらせて、波間から天上の高みをめざし駆け上がり・・

向背の上では真っ白に輝く「麒麟」が、波打つ瑞雲を蹴立てて駆け抜けようとしています。 しなやかに力強く、その吐く息は天上の香りに満ち、振り向くその先の何かを待っています。

これ以上ないほど鋭い歯をむき出し、決して離すものかと通し柱に噛み付く「獅子噛み」。 何もかもが素晴らしい!!、もしかしてこの神社に立ち寄ったのは、この彫刻たちに呼ばれたのかも?

さらに、寺社彫刻の顔とも言える貫の「獅子と像」、とにかく迫ってくる迫力に圧倒されっぱなし。

持ち送りの細部にいたるまで丁寧に彫り込まれており、出来うるならもう少し広範囲で・・ もっと多くの角度から画像を残したかったと、今になって悔やんでも仕方ないのに、やっぱり残ってしまう後悔😓

嘉永3年(1850)に修築された御本殿、もう少し日差しが欲しかったのですが・・・ 計画して訪ねた神社ではないので色々仕方ないなと思いつつ、裏手に廻って、変わった説明を発見しました。

何と御本殿の真後ろに絵馬が貼り付けられ、その横に「目の神」と題した説明が貼られています。
「時不肖なれど目を患いし氏子あり 其者 め 二文字の絵馬をここに奉り治癒を祈願す 以来目の神と崇拝するもの多数あり」

不思議な神社参拝はこれで終わりなのですが、何とブログを書き始めた今になって驚きの事実を知りました。 拝殿の見事な彫刻の数々が、何と見たいと念願した「波の伊八」の作品!! 名人と呼ばれる人の作品は、それを望む者が近づいた時に、呼びかけてくれるものなのかもしれません。 嘉永5年(1852年)、三代目波の伊八『武志伊八郎信美』 三十六歳の時の作品です。

最期に境内にあった碑・・多分歌碑だろうと思われますが、長い時間の中で磨耗してしまい、その内容は一切わかりません。

参拝日:2014年5月23日

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご当地マンホール in 千葉県鴨川市・旧鴨川市

2019年05月27日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・千葉県

鴨川市(かもがわし)は千葉県の房総半島、南東部に位置する市です。2005年2月11日に旧安房郡天津小湊町と合併し、改めて鴨川市が発足しました。富津市、君津市、勝浦市、南房総市、安房郡:鋸南町、夷隅郡:大多喜町に隣接。市内安房地域の東部、房総半島の南東部、市の北部を東西に横切る鴨川低地断層帯が所在。海岸部は南房総国定公園に指定され、鴨川シーワールドや鴨川温泉郷で知られるリゾート地です。また『日蓮』ゆかりの誕生寺・清澄寺の門前町としても栄えてきました。市内貝渚には『源頼朝』が、地元の豪族と戦って勝ったという「一戦場」などの史跡も残されています。「市の木:松」「市の花:菜の花」「市の魚:鯛」を制定。

キャッチフレーズは「自然と歴史を活かした観光・交流都市 ~みんなで創る光り輝くふるさとをめざして~」

市役所の敷地内に建立されていた胸像は、「名誉市民第一号 初代市長島川忠治」氏。

マンホールは新旧どちらにもデザイン蓋は無く、自治体章のみの耐スリップマンホール。

2005年6月17日制定の市章は「「か」をモチーフに鳥の「鴨」を表し、そしてそれぞれの線形は、市の発展を表現しています。中央の半円は雄大な海の恵み、それに交差する部分は稲穂の実りをイメージし、右上のワンポイントは希望を象徴する日の出を表現しています。」公式HPより

鴨川市イメージキャラクター『たいよう君』は鴨川の海が大好きな鯛の妖精。同じ妖精で海辺にいる『まっつー&ななちゃん』と大の仲良し。鴨川の人々は、鯛にも松にも菜の花にもとっても優しいので、たいよう君たちはこのまちが大好きです。

------------------------00----------------------

旧鴨川市は千葉県南東部、安房地域に位置した市です。富津市、君津市、安房郡:鋸南町、富山町、丸山町、和田町に隣接。市名は市域を流れる「加茂川」に由来。長狭(ながさ)地方における経済、交通、文化の中心として発展。昭和45年(1970)に開業した「鴨川シーワールド」により、リゾート地として広く知られるようになりました。

明治22年(1889)、町村制の施行により、安房郡鴨川町、長狭郡西条村・田原村・東条村・江見村・大山村・吉尾村・主基(すき)村が発足。

1897年、郡制の施行により、平郡・朝夷郡・長狭郡の区域をもって安房郡が発足。

1954年、安房郡鴨川町、西条村、東条村が合併、鴨川町が発足。

1955年、安房郡大山村、吉尾村、主基村が合併、長狭町が発足。

1971年、安房郡鴨川町、江見町、長狭町が合併・市制を施行し、鴨川市となる。

マンホールは毘沙門亀甲の雨水用規格蓋のみですが、自治体章があるので良し。

昭和46年7月5日制定の旧市章は「全体で「カ」を羽ばたく鳥の形に表したもの。」

鴨川市社共イメージキャラクター『葉っぴー』。頭の双葉と赤いハートがチャームポイントです。

鴨川市江見にある「道の駅:鴨川オーシャンパーク」。こうしてみると何かのテーマパークみたいです。

撮影日:2019年3月7日

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご当地マンホールとマンホールカード in 千葉県館山市

2019年05月26日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・千葉県

館山市(たてやまし)は本州太平洋沿岸のほぼ中央、千葉県南端に位置する市です。南房総市に、また海上を隔てて東京都大島町、神奈川県三浦市に隣接。館山商圏を形成する準商業中心都市、および南房総観光圏の観光都市であり、海岸部は南房総国定公園に指定。県立館山野鳥の森は「森林浴の森100選」、平砂浦海岸付近は「白砂青松百選」「日本の道100選」に選定されました。「市の木:ツバキ」を制定。

中世戦国時代に、里見氏によって築かれた館山城の城下町として整備され、港町として発展。曲亭馬琴作の「南総里見八犬伝」の舞台となり、市域には里見氏の史跡の数々や八犬伝のロマンを偲ばせる史跡が残されています。通りすがりに見えた「館山城天守」は、丸岡城を模して昭和57年(1982)に再建された模擬天守、「八犬伝博物館」として利用されています。

キャッチフレーズは「輝く人・美しい自然 元気なまち館山」

明治22年(1889)、町村制の施行により、安房郡館山町・北条町、平(へい)郡凪原村・船形村が発足。

1893年、平郡凪原村が町制を施行、改称して平郡那古町となる。

1897年、郡制の施行により、平郡・朝夷郡・長狭郡の区域をもって安房郡が発足。船形村が町制を施行、安房郡船形が発足。

1933年、安房郡館山町と北条町が合併、館山北条町が発足。

1939年、安房郡館山北条町、那古町、船形町が合併、市制を施行し館山市が発足。

マンホールには、「降り注ぐ太陽の光」と、「太平洋に浮かぶヨット」が描かれています。

中央にカラーで「菜の花」、周囲に町の木「ツバキ」を配したマンホールはこの一枚だけ。 「菜の花」は千葉県の花として制定されていますが、館山市との関連は今一つはっきりしません。

昭和14年12月25日制定の市章は「カタカナの「タ」と「テ」が漢字の「山」を囲む、左右対称を意識した3文字構成の図柄となっています。」公式HPより

規格蓋は雨水のみ。上水道関連の蓋は市章無しの為、省略。

いわゆる「ゆるキャラ」でなく「脱力系キャラ」の、館山市マスコットキヤラ『ダッペエ』。 名前は、房総地方の方言で「〜だろう!」を意味する、「〜だっぺ!」に由来するそうです。

館山市で唯一、画像に残したくて立ち寄った「千葉県立安房南高等学校旧第一校舎」。昭和初期の技術の粋を集めた、和洋折衷の学校建築は、千葉県の有形文化財に指定されています。

撮影日:2014年05月24日&2019年03月06日

------------------------00----------------------

マンホールカード、頂きました。

2019年12月14日、第11弾として全国63自治体で66種類(累計502自治体605種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「館山市」のマンホールカードは、「“渚の駅”たてやま」でいただけます。

1989年に設置開始されたマンホールには「館山湾とヨット」「太陽」がデザインされています。

「館山市は千葉県南部に位置し、温暖な気候と緑豊かな自然に恵まれ、冬でもポピーや菜 の花が咲き誇るほか、サンゴやウミホタルの生息域ともなっています。 ヨットやサーフインなどのマリンスポーツも盛んで、海水浴の適地としても楽しめるま ちです。 館山湾は波が穏やかで鏡のように美しいことから、別名「鏡ヶ浦」とも呼ばれ、空気が澄んだ日には富士山を望めることもできるほか、湾に沈む夕日はあたり一面をオレンジに染め、その光景は格別です。 そうした館山湾の自然豊かな様子をデザインしたマンホール蓋です。 館山の海がより澄み渡り、いつまでも続くようにと願いが込められています。」

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南房総~あちこちウォッチ in 千葉県南房総市

2019年05月25日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

南房総市白浜町、滝口地先を流れる長尾川に架設された、県指定文化財の「めがね橋」。 実際はメガネでは無く三連アーチですが、川面に写る姿からそうよばれるようになったとか。

橋の長さ20m、幅4m。石積み工法の洋式三重橋は、明治21年(1888)に地元の寄付で造られました。 大正6年(1917)の洪水、大正12年(1923)の関東大震災にも耐えて現存する、貴重な歴史遺産です。

橋のたもとの石は静岡県伊豆から、橋の本体の石は近くの海岸から切り出したものだとか。
村民の寄付額「399円40銭」が、当時いかほどの額であったか・・想像に難くありません。 ですが、橋ができるまでは歩いて川を渡っていた事を思えば、完成はまさに喜びだったでしょう。

戦時中には戦車も通ったという頑丈な橋は、二度の補修工事を受け今も建設当時の姿を留めています。

------------------------00----------------------

南房総市白浜町白浜の小さなポケットパークの一角に、着物姿で踊る二人の女性の像があります。 台座には「白浜音頭発祥の地」の文字と白浜音頭の歌詞。さらに「白浜音頭全国大会」歴代の優勝者の名前が刻まれています。

【房州白浜住み良いところ、真冬菜種の花盛り~夏は涼風沖から吹いて、松の根ごろで夢を見る】  旧白浜町が観光で売り出すために創作したという「白浜音頭」。こう見えて民謡なんぞも得意な私ですが、初耳でした。

------------------------00----------------------

房総フラワーラインの南房総市白浜町滝口を通過する際にみつけた句碑。 実は日帰り入浴施設のジャングルパレスを利用するつもりが、予定外の休館というか早仕舞い。車泊地も決まっていない状態では気も急いて、デジカメに収めるのが精一杯、ゆえに内容は全く不明。

車泊地が決められなかったのは、予定していた「道の駅:白浜野島崎」の夜を想像した時、私が耐えられなかった所為。 恒例の車泊のお礼の意味合いのイチゴも沢山買ったけど・・検討した結果、別の場所を探す事に。
お風呂も車泊地も・・色々検討して決めていても、こんな風に予想外の結果になる事もあるのです。

道の駅のインフォメーションコーナーで見かけたマーク。デザイン的にとても気にいってます。最近は、丸の中にきれいに収まったデザインを見ると、マンホールに・・と思ってしまいます😊

訪問日:2014年5月24日&2019年3月7日

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

厳島(いつくしま)神社 in 千葉県南房総市(旧白浜町)

2019年05月24日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・茨城県

房総半島・最南端の野島崎に鎮座される「厳島(いつくしま)神社」、通称「野島辨財天」として親しまれています。

参道の突き当たり、二の鳥居の向こうに拝殿、拝殿の屋根の向こうには、白亜の野島埼灯台が重なります。

創建は不詳ですが、安永四年(1776)に安芸の厳島神社から御分霊を奉斎したと伝えられます。

ご祭神である『市杵嶋姫命』は海上神であり、『弁財天』の本地垂迹(ほんじすいじゃく)として同一視されています。

境内には、安房の名工『武田石翁』が19歳の時の「七福神」が静かに佇んでいらっしゃいます。 大きな鯛を小脇に抱え、満面の笑みを浮かべているのは「恵比寿様」、見ている方もつられて笑顔になります。

この無邪気な顔の福の神は「布袋様」。やっぱり大きなお腹で、大きな袋を持っておいでです。 金太郎飴のように同じ顔、同じ姿の「七福神」を見慣れた目には、どのお顔もお姿も最高。

身の丈三尺(約90センチ)といわれる『寿老人』、延命長寿、福禄の神とされるお方です。

打ち出の小槌を高く掲げているのは『大黒様』、二つの俵の間にある丸い小さなものは何でしょう?・・・・もしかしてネ・・ネズミさ・・ん😣

「福(幸福)・禄(身分)・寿(寿命)」の全てを兼ね備えた『福禄寿』、人徳の神ともされます。

七難を避け、七福を与える北方守護の神仏『毘沙門天』、古くから武人たちの厚い信仰を得た神。 『毘沙門天』の顔は、俗に憤怒の相と云われますが、目の前にあるのは涼やかに美しい顔立ちです。

七福神のラストは『弁財天』の筈ですが、置かれているのは名前が刻まれた丸い石だけ。 どうやら『弁財天様』だけは、こちらの社殿に祀られて鎮まっておいでだというのです。 主祭神と同じお姿なので、当然と言えば当然でしょうが、紅一点の弁財天様が不在で、他の六神は心なしか寂しそう😓

境内に並んだ二つの石祠は「薬師如来」「浅間神社」。「薬師如来」は仏様のはずですが・・ 説明版には「目の神様 すべての病気に御利益があります」と言う事で、一応神様扱いのようですね。

上記の石祠の横に建立されている黒御影石の芭蕉の句碑は【あの雲は 稲妻を待つ たより哉】。 境内には同じ句が更に二基建てられており、右が天保4年(1833年)、左は明治19年(1886年)に建立。 三基全部が同じ句と言うのはこれまでの経験で初めての事ですが、建立者はこの句がよほど気に入ったのでしょうか?

朱塗りの鳥居の奥には、やはり朱塗りの可愛い社殿の「境内社:稲荷社」が鎮座します。

その朱塗りの鳥居、右側の足元には、「矢鏃(やじり)の石」なるものが置かれています。 うっかりその部分だけを写し忘れたので、紹介できる画像が不鮮明なのが悔しいところ😥 南房里見八犬伝の祖『里見義実』が武運を祈願して、「野島山」の三文字を記したという伝説の石。 子供の頃読んだ「里見八犬伝」、女とみまごう美しい『犬坂毛野』が一番のお気に入りでした。

境内に建立されていた「日露戦争記念碑」

境内から野島埼灯台に至る通路の片隅に、お世辞にも立派とは言えない小さな祠があります。そこに収められているのは、一見何の変哲も無いような丸い石ですが。はてさて、その正体は?

最後の紹介は、二の鳥居脇に鎮座する「子宝の祠」・・・良い子は見てはいけない○○が鎮座されています。 「元気の泉:子宝、金運、縁結び、幸せに恵まれます」という事で、「優しくなでて下さい」😅

参拝日:2014年5月24日&2019年3月6日

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野島埼灯台~其の二 in 千葉県南房総市(旧白浜町)

2019年05月23日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

多分、南房総に来るのはこれが最期・・だからこの灯台も見納めだと思うとつい後ろ髪を引かれます。 きっと5年前も同じ事を思った筈だけど、流石に今回はお互いの年齢を考えると実感もひとしお。

名残を惜しみつつ遊歩道を進めば、5年前に見た同じ風景があり、懐かしさに、またより道😊  遊歩道の一画に手すり付きの参道が設けられており、入り口には「伝説の岩屋」の看板。
説明板には「野島崎に立ち寄った『源頼朝』が、突然の時雨にあい雨を凌いだ岩屋」とあります。 歴史的な人物が絡むと、その一挙止一投足に絡む全ての場所や物が、名所旧跡になるようです。

「頼朝公の隠れ岩」と称する場所には、深海に棲む創造の大蛸(おおだこ)の海神が祀られています。 海神の中央にある大鮑の殻に願いを掛けた賽銭を投げ、見事!貝の中に入れば開運間違いなし。 なぜならば「貝運は開運」への道の如し!と、何だか分かったような分からない様な説明😅
ちなみに真っ白に見える地面は、その「貝運は開運」を願って投げたお賽銭と思われる膨大な量の硬貨😲。

「三峯神社」の赤い鳥居の向こう、お社は「三峯山」と呼ばれる小高い丘の麓に祀られています。 奥秩父:三峰山山頂に祀られる「三峯神社」からの勧進でしょうが、山と海の両極端はちょっと不思議な感じ。

公園内の句碑は【水平線の 上に置きけり 残り苗】・・多分、合っていると思います。

野島崎灯台の碑の近くにあった「里見義実公上陸の地」碑。
【「南総里見八犬伝」で知られる戦国時代の大名、里見氏の初代里見義実公が結城の合戦に敗れて三浦半島からここ白浜の野島崎に上陸したのが嘉吉元年(1441)のことといわれています〔文安四年(1445)という説もあります〕。義実公は白浜に居城を構え安房の国を支配していた安西氏、神余氏、丸氏、東條氏の四豪族を打ち破って安房を統一し、房総里見氏の幕開けとなりました。】

遊歩道の出入り口近くにある、羽を広げた飛び魚のモニュメント、今日も勢いよく飛んでいます。 白浜漁協が21世紀に向けて全ての出発の成功を祈って建てた金属製の飛び魚。彼の名前は「かっとびくん」

五年ぶりの再会を祝して「さぁ、かっとびくん、あの雲の中の太陽を目指して飛んで行け」😍

白浜野島埼園地の入り口にあった看板、「万祝(まいわい)」を纏った漁師たちの後姿は、最高に素敵。 海に生きる男たちの後ろ姿は、何故か鼻の奥がつんとなるような、不思議な郷愁を誘います。 きっと、潮の匂いが染み込んだような背中に、早くに逝ってしまった父の姿が重なるからなのです。

「野島埼灯台」は日本の灯台50選に選ばれ、国の登録有形文化財にも登録されています。

この画像は、その日の夜に車泊させて頂いた小さな駐車場の一角から見えた野島埼灯台。 小雨の振る中、オレンジ色の街灯の中に浮かび上がる白亜の灯台は、本当に真っ白でした。

そして早朝の野島岬、白亜の灯台はやはり真っ白で、去り行く私たちを見送ってくれました。

訪問日:2014年5月24日&2019年3月6日

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野島埼灯台~其の一 in 千葉県南房総市(旧白浜町)

2019年05月22日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・千葉県

千葉県南房総市の野島崎に立つ、八角形・白亜の「野島埼灯台」。明治2年(1869)、日本最初の洋式灯台として、フランス人技師の設計によって造られました。

周辺一帯は、南房総国定公園に指定されており、遥か彼方まで、雄大な太平洋のパノラマが展開されています。
灯台って何か良いよね。特に日本地図の先端に立つ灯台は存在そのものがカッコいい!。だから可能な限り見に行きたい・・・でも山道は苦手😓・・この相反する希望に優しく応えてくれる「野島埼灯台」は、最初の訪問で大のお気に入りになり、今回二度目の訪問。
(抜けるような青空の下が2014年5月、今にも雨に降られそうな画像が2019年3月)

建設当初は、白色八角形の煉瓦造灯台でしたが、関東大震災により、地上6mの所で折れて倒壊。大正14年(1925)に、現在の白色八角塔形の、コンクリート造で再建され、今に至っています。

敷地内の一画に建立されていた「天皇・皇后両陛下行幸啓記念碑」。ちょっと残念だったのは、当時の行幸啓に関する資料が見つけられず、昭和の何年だったのか不明な事。

この美しい白亜の灯台、実は200円の観覧料金を支払えば、誰でも展望台に上る事が出来ます。展望台から見る眺望はまさに雄大の一言・・だそうですが、狭い螺旋階段を登る脚力はありません。 仮に登れたとして、あんな高い所から景色を見るなんて、あり得ない・・で、登ったら降りなきゃ行けないんでしょ? それって拷問ですよ😱

つまらない内輪話はさて置き😅 ここで「野島埼灯台」がたつ「野島岬」の歴史について、簡単に紹介。

元禄16年(1703)に発生した元禄大地震。震源は相模トラフの房総半島南端にあたる野島埼と推定されています。 地震によって大規模な地盤変動が起こり、特に南房総では海底平面が隆起し、段丘を形成した元禄段丘が分布。かって沖合の小島であった野島岬は、その地盤変動によって、地続きの岬に変貌したと云います。(他に、もともと陸続きであったが、地震の津波で地形が変わったという記録もあるようです。)
岬の海岸沿いを歩いていると、不思議な岩肌の浅瀬が続き、時折波がしぶきを上げていきます。

前回はこんなに裏側まで回る事はなかったのですが、方向が変わると灯台の雰囲気も随分と変わって見えるものです。

あわただしい鳥の鳴き声に目をやると、どうやら野鳥の番(つがい)が巣作りをしている場面に遭遇したみたい。 ピ~ッという甲高い鳴き声だったので、多分「トンビ」かなと思うのですが・・不確か😓

小高い丘状に設置された二つの碑、刻まれた文字は薄れていますが「燈臺用地」と読めます。 野島岬一帯は非常に重要な海路とされており、この西洋燈台も日本で二番目に点灯されています。
二つの碑が同じ文字だったのか確認は出来ませんでしたが、この地の重要さは感じられました。

裏道探索は際限なく先が続いているので、そろそろ人の気配がある方へと回れ右😊 「絶景 朝日と夕陽の見える岬」の碑がある場所から見る太平洋・・・実に雄大な景色です。 岩礁に突き当たった波は真っ白に泡立ち、そこが非常に危険な場所であることを知らしめています。

ちなみにこの絶景が見られる場所は・・😱、ベンチに座ってのんびりって誰が思いついたのか。 それでも、このどんよりとした海を見下ろし、何組かのカップルが代わる代わる座っていました。

かく言う私たちも、実は五年前にこの場所に座って、しっかりと記念写真を撮っていました😊 風がとても強く、それでなくても高所恐怖症の私が何故あんな無謀な行為をしたのか・・😱今もって謎です。

遊歩道には「最南端の碑」があり、傍らには現在地を示す日本地図が刻まれた石版もあります。 野島埼灯台を背景に「最南端の碑」と言うのは、ここに訪れたという記念写真としては最適なのでしょう。
観光客は入れ替わり立ち替わりに、「最南端の燈台」をデジカメやスマホに記録していきます。

まだまだ続く野島埼の紹介、続きは明日の「野島埼灯台~其の二」にて。

訪問日:2014年5月24日&2019年3月6日

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする